浅瀬の主
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足跡のことは、その夜のうちに景と紗那と猟師の三人だけで話した。
広間の隅。他の武士たちが寝静まった後、猟師が低い声で説明した。
「石の上に、泥が乗っておりました。乾きかけていましたが、今日のものではない。昨日か、一昨日か」
「鹿ではないと言ったな」
紗那が確認した。
「鹿は蹄で石を蹴ります。泥の形が違います。あれは草鞋か、裸足です」
「何人分だ」
「一人。ただ、何度も通っている可能性はあります。同じ足が何度踏んでも、石の上では一つにしか残りません」
景は腕を組んだ。一人。少なくとも一人が、あの浅瀬を知っていて、使っている。景たちが見つけるより前から。
「猟師さん。あの浅瀬を知っている人は、他にいる?」
「山に入る者なら、気づく者はおるかもしれません。ただ、わざわざ川を渡る用がなければ、使いません」
「用がある人って、たとえば」
「向こう岸に行きたい人です」
当たり前の答えだった。だがその当たり前が、景の胸に重く落ちた。向こう岸。川向こう。そこには津田がいる。そして鹿島が渡しを押さえている。
向こう岸に用がある人間が、あの浅瀬を使っている。
「こっち側の人間か、向こう側の人間か」
景が聞くと、猟師は首を横に振った。
「足跡だけでは分かりません」
紗那が膝の上で指を組んだ。
「可能性を並べる。第一、北の村の者が山を越えて川向こうと行き来している。村は我らにもまだ態度を決めていないのだから、川向こうとも繋がっていておかしくない」
「第二?」
「鹿島が裏から偵察している。渡しを表で塞ぎつつ、裏道からこちらの山に入っている」
「第三は?」
「赤い旗の者。あの十人が使った道かもしれぬ。西へ向かったと聞いたが、途中でこの浅瀬を通った可能性はある」
三つの可能性。どれも否定できない。
景は胸元に触れた。
《代替渡河点における第三者の利用痕跡。分析に必要なデータが不足。足跡の方向性、頻度、時間帯が不明。推奨、当該地点の定点監視を実施し、利用者の特定を行う》
「見張るしかない、ってことか」
「見張る? 浅瀬を?」
紗那が眉を上げた。
「猟師さんに頼んで、一日だけ。誰が来るか見てもらう」
「猟師殿を一日拘束すれば、その間、山の道が使えなくなる。逃げ道の一本が止まる」
「止まるけど——」
景は言葉を探した。知らない人間があの道を使っているなら、そもそも逃げ道として安全なのかどうかが分からない。逃げようとした先に敵がいたら、逃げ道ではなく罠になる。
「紗那。もし鹿島があの浅瀬を知っていて、裏から来られたら」
「背中を取られる」
短い答えだった。
「なら、一日だけ見張りに使っても、損はしないんじゃない? 安全かどうか分からない道は、道じゃないから」
紗那は少し黙った。
「分かった。猟師殿、明日一日、浅瀬の見える場所に隠れていられるか」
「隠れるのは得意です。鹿を待つのと同じですから」
「ただし」
紗那が猟師の目を見た。
「見るだけだ。誰が来ても声をかけるな。姿を見せるな。来た者の数と、どちらから来てどちらへ渡ったかだけを覚えて戻れ」
「承知」
翌朝、猟師は暗いうちに山へ入った。
景は一日中、落ち着かなかった。広間で地図を見ても、頭の半分は浅瀬にあった。紗那も同じらしく、いつもより口数が少ない。
昼過ぎに、北の村から子供が来た。昨日とは別の子供だった。今度は女の子で、背に小さな籠を負っていた。
「長から。山菜です」
籠の中には蕨と独活が入っていた。米の返礼か。あるいは、ただの親切か。景には判断がつかなかった。
「ありがとう。長は元気?」
「はい。ただ、赤い旗の人たちはもう見えないと言っていました」
「見えない?」
「山の向こうを通って、西のほうへ行ったきり、戻ってこないそうです」
赤い旗は西へ消えた。寺を「預かった」者たちのいる方向に。合流したのか、ぶつかったのか。それとも通り過ぎたのか。何も分からない。ただ、北の山からは消えた。
紗那が女の子にもう一つだけ聞いた。
「村で、川を渡る人はいるか。最近」
女の子は首を傾げた。
「渡しは使えないって、父が言ってました」
「渡し以外で」
「……」
女の子は黙った。首を横に振ったのではない。答えを選んでいるように見えた。
「分かりません」
その「分かりません」は、知らないという意味なのか、言えないという意味なのか。景には区別がつかなかった。紗那にもたぶんつかなかった。二人とも、それ以上は聞かなかった。
子供を見送った後、紗那が呟いた。
「村が浅瀬を知っている可能性はある」
「うん」
「知っていて使っているなら、それは村の生活の道だ。敵意ではない」
「でも、こっちに教えてくれてない」
「教える義理がない。まだ味方ではないのだから」
景は庭の空俵を見た。十四体。偽物の兵は増え続けている。誰が増やしているのかも分からない。
夕方になり、猟師が山から下りてきた。
広間ではなく、裏の井戸端で三人だけで話した。
「一人、来ました」
景の背中に冷たいものが走った。
「向こう岸から、こちらへ渡りました。朝早く。霧が出ていた時間です」
「どんな者だ」
「小柄です。百姓の格好でしたが、足が速い。石の上を迷わずに歩いていました。慣れた足です」
「顔は見えたか」
「笠を被っていたので見えません。ただ——」
猟師が少し考えてから言った。
「荷を背負っていました。渡った後、こちら岸で荷を下ろして中を確かめていました。遠くて中身は見えませんでしたが、布のようなものでした。確かめた後、山のほうへ入っていきました。北のほうです」
「北?」
「北の村の方角です」
景と紗那は顔を見合わせた。
向こう岸から渡ってきた。荷を持っていた。北の村の方角へ去った。
村の人間なのか。川向こうから何かを運んでいるのか。それとも——
「紗那」
「言うな」
紗那が景の言葉を遮った。
「今言えば、推測が事実になる。まだ分からぬ。分からぬままにしておけ」
「でも——」
「分からぬことが、今は一番安全だ」
景には紗那の言葉の意味が分かるような、分からないような気がした。分からないままにしておく。推測を口にしない。なぜなら——
口にした瞬間、それが「疑い」になるからだ。北の村を疑えば、預けた米も、子供の使いも、山菜の籠も、全部が違う色に変わってしまう。
まだ疑うには早い。だが信じるにも材料が足りない。
「猟師さん。明日ももう一日、見てもらえるか」
「承知」
猟師は頷いた。
景は井戸の縁に座った。空に星が出かけている。浅瀬を渡る小柄な影。笠を被り、荷を背負い、北へ歩く足。慣れた石の踏み方。あの浅瀬は、景が思っていたよりずっと前から、誰かの道だった。
「KM-07」
《待機中》
「あの浅瀬を使ってる人が、味方か敵か、分かる方法ある?」
《現在のデータでは判定不能です。行動パターンの蓄積が必要です。最低三回の観測を推奨》
「三回」
景は指を折った。今日で一回。明日で二回。もう一日で三回。三回見れば、何か分かるかもしれない。分からないかもしれない。
庭の空俵が、夜風に揺れていた。
あの偽物の兵に紛れて、本物が一人混じっていても、景には見分けがつかないだろう。
味方と敵の区別が、この暗がりの中で少しずつ溶けていく気がした。
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