空の荷
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四日目の朝、景は地図の前で止まった。
三日の期限は昨日で終わった。終わったが、何かが片付いたわけではない。道は二本。米は減り続けている。赤い旗の正体は分からない。渡しには鹿島が五人いる。
景は胸元に触れた。
《状況更新。渡河点監視の敵兵配置に規則性を検出。早朝と夕方に人数が増え、日中は減少する傾向。推奨、敵の注意が渡し場に集中している間に、代替経路での物資移動を実行。ただし、渡し場への注意を維持させるため、同時に渡し場方面での陽動活動が有効》
陽動活動。
景はその言葉を頭の中で転がした。陽動。つまり、渡し場で何かやっているふりをして、その間に鹿の浅瀬を使う。理屈は分かる。だが「陽動活動」の具体的な形が分からなかった。
何をすればいいんだ。兵を動かす? 旗を立てる? 火でも焚く?
紗那がまだ起きてこない。珍しいことだった。景は一人で考えなければならなかった。
「KM-07。陽動って、何をするの」
《渡河を試みるかのような動きを見せることで、敵の監視リソースを消費させます。具体的な手段は現地判断に依存しますが、荷を持った人員を渡し方面に移動させる、あるいは——》
「荷を持った人を渡しに向かわせる」
景はそこで止めた。それ以上聞くと分からなくなる。荷を持った人。渡しに向かう。敵が見れば、物資を運ぼうとしていると思う。そちらに気を取られている間に、鹿の浅瀬で本当の荷を動かす。
だが待て。荷を持った人を渡しに出したら、鹿島に捕まるのではないか。
景は眉を寄せた。そして、ある考えが浮かんだ。
空の荷を持たせればいい。
中身のない俵。藁だけ詰めた袋。見た目は重そうだが、中は空っぽ。それを持って渡し方面に向かえば、鹿島は止めに来る。止めて開けたら空っぽだ。何の意味もない。
何の意味もないことが、意味になるのではないか。
景は自分の考えに自信がなかった。KM-07が言った「陽動」とは多分違う。もっと巧妙な、軍事的に正しいやり方があるのだろう。だが景にはそれが分からない。分からないなら、分かる範囲でやるしかない。
紗那が広間に入ってきたのは、景が庭の隅で空俵をひっくり返しているときだった。
「何をしている」
「俵に藁を詰めてる」
「見れば分かる。なぜだ」
「渡しに持っていく。中身は空」
紗那は足を止めた。
「空の俵を渡し場に?」
「うん。鹿島の連中が止めに来るでしょ。止めて中を見たら空っぽ。その間に、本物の米を鹿の浅瀬から動かす」
紗那の目が少し動いた。考えている顔だ。だがいつもの即答がなかった。
「誰が持っていく」
「俺」
「景殿が?」
「俺が行けば目立つって、前に館の主が言った。目立つなら、陽動に使えるんじゃない? 軍師が自ら荷を運んでいるって見せれば、鹿島はそっちを気にする」
紗那は長く息を吐いた。
「理屈は通る。だが——」
「だが?」
「景殿が捕まったら終わりだ」
「捕まるところまでは行かない。渡しの手前で引き返す。見せるだけ」
紗那は腕を組んだ。反対しかけて、しかけたまま止まっている。
「浅瀬の方は、猟師に任せる。米を二俵、北の村に追加で運ぶ。山を回るから時間はかかるけど、渡しに鹿島の目が向いている間なら——」
「猟師一人で二俵は重い」
「北の村から来た子供がいる。子供に頼む」
「子供を使うのか」
「子供が山を歩くのは普通だろ? 怪しまれない」
紗那の表情が変わった。反論を探しているが、見つからない顔だった。
「……景殿は時々、私の理解の外にいる」
「褒めてる?」
「分からぬ」
昼前に動いた。
景は空俵を三つ背負い、若い武士を一人連れて渡し場の方角へ歩いた。わざと大きな道を使い、わざとゆっくり歩いた。背中の俵は軽い。藁しか入っていない。だが遠目には、米を運ぶ二人組に見えるはずだった。
渡しまで一里を切ったあたりで、道の先に人影が見えた。二人。こちらを見ている。鹿島の見張りだ。
景は足を止めた。
「ここでいい」
若い武士が怪訝な顔をした。
「引き返すんですか」
「見せるだけだから。向こうが動くか見る」
二人はしばらくその場に立っていた。道の先の人影も動かなかった。見合っている。荷を背負った二人と、道を塞いでいる二人。
景の胸元が震えた。
《敵方監視員の行動変化を検出。二名が渡し場方向から前進。おそらく接触を試みています。推奨、撤退》
「帰る」
景はくるりと向きを変えた。若い武士も従った。二人はわざと小走りにならないように、しかし急いで道を戻った。
背後で足音が追ってくる気配はなかった。鹿島の二人は、追いかけるのではなく、こちらが何をしようとしたかを確認しに来ただけだった。
その頃、山の裏側では猟師と村の子供が鹿の浅瀬を渡っていた。
景が館に戻ったのは昼過ぎだった。紗那が庭で待っていた。
「渡しの方はどうだった」
「見張りが二人出てきた。追っては来なかった」
「空俵を見たか」
「たぶん見てない。距離があったから」
紗那が首を傾げた。
「見ていないなら、陽動になったのか」
「なっただろ。二人が前に出てきたってことは、渡し場の方に意識が向いた。その間に浅瀬を——」
「猟師はまだ戻っていない」
景の言葉が止まった。
「まだ?」
「山回りだ。時間はかかる。だが——」
紗那は西の山を見た。
「子供を連れている。子供の足は遅い。それを計算に入れていたか」
景は入れていなかった。
子供は山を歩くのが普通だと言った。怪しまれないと言った。だが、子供の足が遅いことは考えていなかった。猟師なら半日で往復できる道が、子供と一緒なら一日かかるかもしれない。
「しまった」
「しまった、は遅い。だが致命的ではない。日が暮れるまでに戻れば問題ない」
「戻れなかったら」
「山で一夜明かすことになる。猟師なら慣れている。子供も山の子だ。命に関わることではない。だが——」
「だが?」
「北の村の子供を一晩預かったことになる。村がどう取るかだ」
景は頭を抱えた。米を預けて信頼を作ったのに、子供を一晩戻さなかったら、その信頼が揺らぐかもしれない。
一つやれば、一つ危うくなる。全部が繋がっている。
夕方、猟師が戻った。一人だった。
景の胸が冷えた。
「子供は」
「村に送りました。浅瀬を渡った先で、村の方が近かったので。米と一緒に」
「米は届いた?」
「二俵とも。村の長が受け取りました」
景は膝から力が抜けた。届いた。子供も無事だ。米も二俵追加で預けた。北の村との紐は、少し太くなった。
だが紗那の顔は晴れなかった。
「猟師殿。浅瀬を渡るとき、誰かに見られたか」
「見られてはおりません。ただ——」
「ただ?」
「浅瀬の石の上に、新しい足跡がありました。鹿ではない。人の足跡です」
広間が静まった。
鹿の浅瀬を、景たちの他に誰かが使っている。誰が。いつから。何のために。
景は紗那を見た。紗那は景を見た。
二人の目が同じことを言っていた。
秘密の道は、秘密ではなかったかもしれない。
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