道を数える
二日目の朝、北の村から人が来た。
景が目を覚ましたとき、すでに広間に見知らぬ男が座っていた。四十を過ぎたくらいの、日に焼けた顔。百姓の格好だが、膝の置き方が妙にきっちりしている。館の主が上座で茶を飲んでいて、紗那は部屋の隅にいた。
景を見た館の主が、小さく顎を引いた。座れ、という意味だろう。景は男の正面に座った。
「村の長の弟御だ」
館の主が簡潔に言った。長本人ではなく弟。その選択に意味があるのかないのか、景には判断がつかなかった。
「米を預かった」
男が言った。声は低く、感情の色が薄い。
「はい」
「返さなくていいと言ったそうだな」
「はい」
「なぜだ」
景は一瞬、紗那のほうを見た。紗那は目を合わせなかった。これは景が答える場面だと、その視線の逸らし方が言っている。
「困ったとき、近くに米があるほうがいいと思ったんです。うちにあっても、そっちにあっても、減らなければ同じなので」
男の目が動いた。景の顔を見て、次に館の主を見て、最後にもう一度景を見た。
「あんたが軍師殿か」
「軍師じゃないです」
「橋で鹿島の先手を止めたと聞いた」
「止めたというか、結果的にそうなっただけで——」
「米を預けてきたのも、結果的にか」
景は言葉に詰まった。結果的に。その言葉が、この時代では思ったより重い。行動の意図ではなく結果を見る人たちの前で、「たまたま」は通用しない。
「……返さなくていい、というのは本心です」
男は少しだけ顎を引いた。頷きとも、ただの沈黙とも取れる動きだった。
「兄が聞いている。戦はいつ来るか」
景の胸が重くなった。戦はいつ来るか。その問いに答えられる者は、この広間にはいない。KM-07なら確率を出すだろう。だがそれは「答え」ではない。
「分かりません。ただ、道が減ってきています」
景が言えたのはそれだけだった。
男は立ち上がった。
「帰ります。兄に伝えることがあれば」
「特には。ただ——」
景は自分でも何を言おうとしているのか分からないまま、口を動かした。
「米が減ったら、言ってください。こちらから足します」
男の表情が、ほんの少し変わった。驚いたのか、呆れたのか、景には読めなかった。男は何も言わずに頭を下げ、広間を出ていった。
紗那が近づいてきた。
「足すと言ったな」
「言った」
「足せるのか」
「足せない」
「では、なぜ」
「返さなくていいと言って、さらに足すと言えば——」
景は自分の言葉を整理しようとした。だが理屈ではなかった。預けた米を返さなくていいと言った。その上で、足りなければ足すと言った。村からすれば、こちらは米を惜しんでいないように見える。米を惜しまない相手を、村は敵に差し出しにくい。
「……紗那が昨日言ったことの延長だと思う。たぶん」
「私は足すとまでは言っていない」
「言いすぎたかな」
紗那は少し考えてから言った。
「分からぬ」
景は紗那の「分からぬ」を初めて聞いた気がした。紗那はいつも即座に答えを出す。景の断片的な言葉を、鋭い策に変える。だが今回は止まった。
「あの男の目が読めなかった」
紗那が小さく言った。
「長の弟が来たということは、長が自分では来たくないということだ。来たくない理由は二つある。来る必要がないか、来れば何かを決めなければならないか。弟を寄越したのがどちらなのか、私には見えなかった」
景は紗那の横顔を見た。そこに、珍しく不安の影があった。
「どっちでも、今日できることは変わらないんじゃない?」
「変わる。前者なら村は静観する。後者なら、村はどちら側につくかを今まさに考えている。こちらの次の一手で、傾く」
「次の一手って」
「分からぬから困っている」
二度目の「分からぬ」だった。
景は胸元に触れた。
《北方村落の反応を分析。使者が村長の直系親族であること、および即日訪問であることから、当該村落は意思決定の初期段階にあると推定。現時点での追加接触は逆効果の可能性あり。二四時間の冷却期間を推奨》
「触るな、ということか」
景はKM-07の言葉を、自分なりに訳した。
「今日は何もしないほうがいい。北の村には」
紗那が首を傾げた。
「根拠は」
「根拠っていうか——来てくれたばかりなのに、こっちからまた何か言ったら、急かしてるみたいじゃない?」
紗那は数秒黙った。それから、小さく息を吐いた。
「そうだな。焦れば、焦りが伝わる」
「うん」
「では今日は、北には触れぬ。別のことを動かす」
「別のこと——川だ」
景は立ち上がった。
昼前に、景と紗那と猟師の三人は、裏山から川の上流へ向かった。
館の主には「地形を見てくる」とだけ伝えた。猟師が先を歩き、景が真ん中、紗那が後ろについた。山道は細く、木の根が地面から浮き上がっていて、景は何度もつまずいた。
「景殿、足元」
「見てるけど見えない」
「見えぬのではない。見る場所が違う。足元ではなく、二歩先を見よ」
紗那の助言に従って視線を少し先に移すと、確かに歩きやすくなった。二歩先の根を見ておけば、そこを避けて足を置ける。足元を見ていては、踏んでから気づく。
「戦と同じだな」
紗那が後ろで呟いた。
「足元を見る者は転び、先を見る者は越える」
「格言にしないでくれ」
半刻ほど歩くと、川の音が聞こえてきた。木の隙間から水面が光っている。猟師が立ち止まり、斜面を指さした。
「あそこです。鹿が下りる場所」
景は木の幹に掴まりながら、斜面の下を見た。川幅は思ったより広い。だが、猟師が指す場所だけ、川底の石が白く見えていた。浅い。確かに、膝くらいの深さに見える。
「人が渡れるか」
紗那が猟師に聞いた。
「一人ずつなら。ただ、荷があると滑ります。石が丸いので」
「馬は」
「無理です」
「米俵は」
「背負えば。ただ、落とせば流されます」
紗那は川を見つめたまま、しばらく黙っていた。景は紗那の隣にしゃがんだ。
「渡れるけど、大勢では渡れない。荷も限られる。逃げ道としては細い」
景がまとめると、紗那が頷いた。
「逃げ道というより——」
紗那は言葉を切った。
「何?」
「いや。今は逃げ道でいい」
紗那は何かを考えかけて、やめた。景にはその先が見えなかった。だが紗那自身にも、まだ形になっていないのかもしれない。
三人は同じ道を引き返した。帰りは下りなので早かった。館に戻ったのは、日が西に傾き始めた頃だった。
広間に入ると、空気が変わっていた。
武士が一人、土間に座り込んでいた。足に布が巻かれている。血が滲んでいた。
「偵察の——」
紗那が声を上げた。
西へ出した二人のうちの一人だった。もう一人はいない。
「寺の手前で捕まりました。縛られ、目隠しをされ、半日置かれてから放されました」
広間が静まった。
「もう一人は」
「分かりません。一緒に捕まりましたが、放されたのは私だけです」
景は拳を握った。放された、ということは、放す意味があったということだ。
《捕虜の片方のみ釈放。これは情報伝達を意図した行動パターン。釈放された個体を通じてメッセージを送付している可能性、八七パーセント》
「何か言われたか。放すときに」
景が聞くと、武士は少し迷ってから答えた。
「一つだけ。『寺は預かった』と」
広間が、もう一段深く沈んだ。
寺は預かった。
道を塞いでいた者たちの言葉だ。寺を「預かった」のが誰なのか。津田か、鹿島か、それとも別の誰かか。分からない。だが、西の道はもう使えないということだけは、はっきりした。
紗那が景を見た。景は紗那を見た。
二日目が終わろうとしている。残り一日。
北の村は沈黙している。川の浅瀬は見つけた。西は閉じた。渡しには鹿島がいる。
道を数えた。
使える道は、北と山の二本。昨日は四本あった気がする。一日で二本減った。明日も同じ速さで減れば——。
「KM-07」
《待機中》
「明日、何が一番大事?」
《北方村落の態度確定》
短い答えだった。景にはそれが、KM-07なりの焦りに見えた。
AIが焦るはずはない。
たぶん。




