預けた米の重さ
三日の一日目は、米を運ぶことから始まった。
夜明け前に起き出した景は、広間の隅に積まれた俵を数えた。十二。昨日より一つ減っている。誰かが夜のうちに使ったのか、それとも数え間違いか。どちらにせよ、十二という数は景が思っていたより心もとなかった。
紗那がすでに庭に出ていた。荷を背負った男が三人、北へ向かう支度をしている。
「早いな」
「遅い。本当は昨夜のうちに出したかった」
「なんで出さなかったの」
「夜の山道で米を落とせば、朝の鳥が群れる。鳥が群れれば、道を使った者がいると分かる」
景はそういう発想がまだ自分にはないことを思い知った。鳥。米。道。この時代では全部が繋がっている。
「三俵を北の村に預ける。残り九俵のうち二俵を山の隠し場所に分ける。手元には七俵」
紗那が指を折りながら言った。
「七俵で何日?」
「六日。ただし、北の村からの供給が続けば九日」
「続かなかったら」
「四日目に飯の量を減らす」
景は黙って頷いた。四日目。三日の期限の翌日だ。KM-07の言う「三日以内」が守れなければ、すぐに飯が足りなくなる。期限と米が、同じ場所で切れる。
荷を背負った三人が出ていった。北への細い道が、朝靄の中に消えていく。景はその背中を見ながら、胸元に手を当てた。
《北方村落への備蓄分散開始を確認。補足情報、当該村落の過去三年間の収穫量推定から、追加供出能力は限定的。米を預けることで生まれる心理的紐帯を活用し、人的支援の要請に繋げることを推奨》
「心理的紐帯」
声に出してみたが、意味は分かるようで掴めなかった。紐で結ぶ。米で結ぶ。似ているようで違うのだろうが、景にはその違いが見えない。
「紗那。米を預けた後、何を頼むの?」
「何も頼まぬ」
「え?」
「預けるだけだ。頼めば、断る余地を与える。預けるだけなら、預かった側が自分で考える。考えた末に手伝うなら、それは頼まれたからではなく、自分で決めたことになる。命令と好意では、人の動きが違う」
景は紗那の横顔を見た。十七か十八の顔に、何年分の知恵が入っているのだろう。
「それ、誰に教わったの」
「母だ」
短い答えだった。景はそれ以上聞かなかった。
午前のうちに、猟師が戻った。
昨日の夕方に西の別ルートから出た一人だ。笠を脱いだ顔は日に焼けていて、疲れた目をしていた。広間に通され、館の主と景と紗那の前で報告が始まった。
「寺の手前、二里ほどで道に人がおりました」
「敵か」
館の主が聞いた。
「分かりませぬ。ただ、通らせる気はないようで。三人、道の脇に座っておりました。刀は見えませんでしたが、棒を持っていた」
「寺の者か」
「寺の者には見えませんでした。百姓のなりでしたが、百姓にしては目が慣れている」
目が慣れている。景にはその意味が分からなかった。紗那が小声で補った。
「人を見る目だ。山歩きの者は獣を見る目をしている。あの猟師が言う『慣れた目』は、人を見張る目のことだ」
景の背中が冷えた。
寺への道に、人を見張る者が座っている。寺からの返事がない理由が、少しだけ形になった。寺が応じなかったのではなく、寺と館の間の道を誰かが塞いでいる。
《道路封鎖の確認。西方経路は敵対勢力の影響下にある可能性が高い。偵察隊の未帰還と合わせ、西方向からの物資・情報ルートは機能停止と判断。北方経路への依存度が上昇。代替渡河点の特定を優先度第一に格上げ》
景は言葉の洪水の中から「渡河点」だけを拾った。川を渡る別の場所。昨夜も出た話だ。
「川のことなんですけど」
景が切り出すと、広間が静まった。
「渡しが押さえられたら困るんですよね。でも渡しだけが川を渡る方法じゃないって、昨日言いました。それで——」
言葉が詰まった。その先がない。KM-07は「代替渡河点の特定」と言うが、景にはこの川のどこが浅くてどこが深いかすら分からない。
猟師が口を開いた。
「お言葉ですが、川ならば」
全員の目が猟師に向いた。
「山から下りるとき、鹿が渡る場所がございます。人が渡れるかは分かりませんが、水が膝より浅い場所です。ただし、底が石で滑りやすい」
「それは渡しからどのくらい?」
「半日ほど上流です。山の裾を回ります」
紗那が地図を引き寄せた。猟師が指で場所を示す。渡し場から上流へ、川が山の際を通るあたり。地図には何も描かれていない場所だった。
景は紗那を見た。紗那は景を見た。
「景殿」
「うん」
「これを知っているのは、今この場にいる者だけにすべきだ」
「なんで?」
「道が多いことは、味方にとっては選択肢だが、敵に知られれば同じことだ。知る者が少ないほうが、道は長く使える」
景は頷いた。KM-07が言った「秘匿撤退路の確保」が、ようやく具体的な形になった。鹿が渡る浅瀬。誰の地図にも載っていない道。
「猟師さん」
「はい」
「その場所、俺と紗那以外には言わないでください」
「承知」
猟師は深く頭を下げた。景はその頭を見ながら、自分が今「秘密を持った」ことの重さを感じていた。現代なら情報を共有するほうが正しい。だがこの時代では、情報を隠すことが武器になる。
その違いに、まだ慣れない。
昼過ぎ、北へ米を運んだ男の一人が戻ってきた。三人で出て一人で戻るのは、残り二人が村に留まったからだ。
「預かると言ってくれました。ただ」
「ただ?」
「村の長が、一つ聞きたいことがあると」
「何を」
「預かった米は、いつ返せばいいか」
景は考え込んだ。返す。預けた米を返す日。それは戦が終わった日だ。だがいつ終わるか、景には分からない。
紗那が横から言った。
「返さなくていい、と伝えよ」
景は目を見開いた。
「返さなくていいって——」
「米を返す約束をすれば、それは貸し借りだ。貸し借りには期限がある。期限が来れば、関係が切れる。だが返さなくていいと言えば、あの村は考える。なぜこの人たちは米をくれたのか。何を求めているのか。答えが出るまで、あの村は我らから離れられない」
景は口を開きかけて、閉じた。
紗那の知恵は、人の心の裏を見ている。見えている、というより、見えてしまうのだろう。景にはできない考え方だ。それが正しいのかどうかも分からない。ただ、この時代ではそれが「策」として機能する。
「……それでいこう」
景が言うと、男は頷いて再び北へ走った。
夕方になった。三日のうちの一日目が終わろうとしている。
景は縁側に座って指を折った。
やったこと。米を三俵、北の村に預けた。山に二俵隠した。西の道が塞がれていることが分かった。川の上流に鹿が渡る浅瀬があると知った。
やれなかったこと。偵察隊の二人はまだ戻らない。鹿島が渡しに置いた人数は分からない。津田がいつ動くかも分からない。
残り二日。
「KM-07。進捗」
《北方物資ルート、部分確立。西方ルート、封鎖確認。代替渡河点、候補一件取得。総合達成度、約三〇パーセント》
「三割か」
景は膝を抱えた。一日使って三割。あと二日で残り七割。計算が合わない。
紗那が隣に来て、同じ方角を見た。
「三割を少ないと思うか」
「少ないだろ」
「一日目に三割動けたということは、敵がまだ締めていないということだ。締める前に三割取れたのは大きい」
「締まった後の七割は?」
紗那は答えなかった。
庭の向こうに、空俵が並んでいる。月が出かけていて、俵の影が長く伸びていた。偽物の兵が、本物の夜を守っている。
景は胸元に手を当てた。KM-07は何も言わなかった。
言わないということは、今は待つ時間だということだ。
たぶん。




