返事のない寺
偵察に出た二人は、翌日の昼を過ぎても戻らなかった。
景は朝から広間の地図の前に座り、何度も西の方角に目をやった。戻るための身支度で出た二人だ。戻れる距離で引き返すはずだった。だが日が登り、傾き始めても、庭先に馬のひづめの音は聞こえない。
紗那が縁側で刀の手入れをしている。柄巻を布で拭いているだけなのに、その手つきが妙に落ち着いていて、景にはそれが一番怖かった。慌てていないということは、こういうことに慣れているということだ。
「紗那」
「何だ」
「遅いのは、普通なの?」
「普通ではない」
「だよね」
「だが、すぐに死んだとも限らぬ。道が崩れたか、雨で川が渡れぬか、寺の手前で足止めを食らったか。遅れる理由はいくつもある」
「その中で一番嫌な理由は」
「止められた」
紗那は刀を鞘に収めた。乾いた音が、広間の奥まで響いた。
「止めた相手が、戻すかどうかを選んでいる。その場合、我らの使いを止めたという事実が、こちらに届くまでの時間を相手が管理しているということだ」
景は背中に冷たいものが流れるのを感じた。現代で言えば、メッセージを読んだ上であえて放置している状態だ。だがこの時代では、その沈黙の重さが比べものにならない。
返事がないのではない。返事の不在そのものが、情報だった。
胸元が震えた。
《西方経路偵察隊からの信号途絶。推定要因、三パターン。第一、物理的障害による遅延。確率一七パーセント。第二、敵対勢力による拘束。確率五六パーセント。第三、偵察隊の自主的退避。確率二七パーセント。推奨行動。第二経路からの迂回偵察を即時開始。ただし、偵察目的の再投入は最小単位で行い、主力の消耗を避けること。同時に、北方同盟候補への接触を加速し、西方が封鎖された場合の物資経路を確保》
五六パーセント。
景は数字だけが頭に残った。それ以外の言葉はほとんど流れ落ちた。迂回偵察。第二経路。最小単位。どれもKM-07にとっては明確な意味を持つ言葉なのだろう。だが景には、暗い水の底に沈んだ石を手探りで拾うようなものだった。触れている感覚はあるが、形が分からない。
「景殿」
紗那の声に顔を上げた。
「何か、見えたか」
「……別の道から、もう一人出す」
景の口から出た言葉は、KM-07が言った内容の欠片だった。第二経路。最小単位。それを景の頭が噛み砕いた結果、「別の道から一人」になった。
紗那は一瞬だけ目を細めた。
「一人か」
「大勢で行ったら目立つから」
「なるほど。二人を出して返事がないのに、次にまた二人を出せば、敵はこちらの焦りを測る。だが一人なら、偵察ではなく旅の者に見える」
「そこまでは考えてなかったけど」
「考えていた。景殿はそれを考えていた」
断言された。
景は否定する間もなく、紗那が立ち上がるのを見た。紗那は広間の奥にいる館の主のもとへ歩いていく。そこで何かを低い声で伝え、館の主が一つ頷いた。
十分もしないうちに、庭先に猟師風の男が現れた。笠を深くかぶり、荷を背負っている。山道を歩く者の格好だ。景が指示した覚えのない準備が、いつの間にか整っていた。
「あの人は」
「山の猟師だ。昨日、二人なら案内できると言った者の一人」
「もう一人は」
「残してある。逃げ道は二本あったほうがいい」
景は紗那の横顔を見た。
いつの間にか、紗那の判断には景の言葉の「次」が組み込まれている。景が「別の道から一人」と言えば、紗那はその先にある「残りの一人の使い方」まで考えている。KM-07の指示を景が半分に削り、紗那がその半分から別の半分を組み立てる。三人の頭が一つの判断を作っているのに、誰もそのことに気づいていない。
猟師が出ていくのを見送った後、景は縁側に座った。
北からは今日も米俵が来ていた。三俵。昨日と同じ数だ。多いのか少ないのか、景には分からない。ただ、広間にいる武士たちの顔を見れば、足りていないことだけは分かった。
足りない米で、何日持つか。
《現有備蓄と供給速度から試算。現在の兵数を維持した場合、八日間。兵数を二割削減すれば十二日間。ただし、士気の低下を考慮すると兵数削減は推奨しない。代替案。近隣の収穫前稲田から早刈り供出を交渉。あるいは、備蓄の一部を分散配置し、本陣の消費速度を見かけ上低下させる》
「早刈り……」
景は呟いた。まだ実っていない米を刈れと言っているのか。それとも、刈る交渉をしろと言っているのか。KM-07にとっては合理的な選択肢の一つなのだろう。だが景には、誰かの田んぼから青い稲を奪い取る絵しか浮かばなかった。
それは、できない。
景は小さく首を振った。
「分けるほうにする」
声に出すと、紗那が振り返った。
「何を分ける」
「米。全部ここに置かないで、何か所かに分ける。ここが焼かれたとき、全部なくなるのは嫌だから」
景の理由は単純だった。卵を一つの籠に入れるな。現代でも言われる話だ。だがKM-07の言った「備蓄の分散配置」とはたぶん意味が違う。景は「不安だから分けたい」と言っただけだ。
紗那は腕を組んだ。
「分けるとなれば、どこに置くかが次の問題だ」
「寺とか、山の上とか——」
「寺は西が怪しい。山は猟師に聞かねば隠し場所が分からぬ。となれば、北の村か」
「北の村って、味方になるかどうかまだ分からないところだよね」
「だからこそ、米を預ける」
景は目を丸くした。
「預けるって——あげるの?」
「預けるのだ。あの村にこちらの米がある。そうなれば、村は敵にその米を奪われたくない。守る理由ができる。味方に誘うより、味方にならざるを得ない形を作る」
景は黙った。
自分は「不安だから分けたい」と言っただけだ。それが紗那の中で、北の村を味方に引き込む策に変わっている。
正しいのかどうか分からない。ただ、紗那の目がいつもの「景殿は考えていた」という色をしている。否定しても聞かないだろう。
「……紗那」
「何だ」
「俺が言ったことと、お前がやろうとしてることは、たぶん違う」
「違わぬ。景殿は核を言い、私が殻を作る。中身が同じなら、それは同じことだ」
核と殻。
景はその言い方に少しだけ救われた。同時に、背中が重くなった。核なんて出した覚えはない。ただの不安だ。それなのに、紗那はそこから殻を作り、KM-07はその内側にデータを流し込み、景の知らないうちに「策」ができあがっていく。
名将の判断。
その実態は、三つの脳の隙間にたまたまはまった石のようなものだった。
夕方になり、館の主が広間に人を集めた。今日の報告と明日の動きを決める場だ。景はその中央に座らされた。隣に紗那がいる。館の主は上座にいるが、視線は景に向いている。
武士たちの顔を見回す。十五人。昨日より一人減っている。誰がいないのか景には分からなかったが、全員が気づいているらしく、その空いた場所に誰も座らなかった。
「西の偵察は戻りません」
景が言うと、広間が静まった。
「別の道から一人、出しました。山の猟師です。明日の夕方までには何か分かるはずです」
紗那が続けた。
「米は分けます。一箇所に置かぬ。北の村にも預ける。こちらの蓄えを守ると同時に、村が動く理由を作ります」
武士たちが頷く。その頷きの中に、景の言葉がどこまで入っていて、紗那の翻訳がどこから始まっているのか、もう誰にも分からなかった。景自身にすら分からなかった。
館の主が静かに口を開いた。
「鹿島が、川向こうの渡しに人を置いたという知らせがあった」
広間の空気が凍った。
川向こうには津田がいる。そこに鹿島まで合流すれば、渡し場を押さえられる。飯も味方も、川を越えて来られなくなる。
景の胸元が震えた。
《敵対二勢力の合流による包囲態勢の構築と評価。渡河点封鎖は物資・増援の遮断を意味する。最優先、渡河点が完全に封鎖される前に北方からの物資ルートを確定。次善、渡河点とは別の渡渉可能地点を特定し——》
言葉が途中で消えた。景の頭が処理を放棄したのだ。最優先と次善。それだけが残った。
「まだ、置いただけですよね」
景は自分でも驚くほど静かに言った。
「置いただけなら、まだ締まっていない。締まる前に、北からの道を決めましょう。それと——渡しだけが川を越える方法じゃないはずです」
紗那が頷いた。
「渡しを押さえるのは、目に見える手だ。敵は見えるところを塞いで、こちらの動きを測ろうとしている。ならば、見えぬところで動く」
景はそこまで言っていない。「渡しだけが方法じゃない」と言っただけだ。だが紗那はそこから「見えぬところで動く」を引き出し、武士たちはそれを「軍師殿の策」として受け取っている。
翻訳が、また一段速くなっていた。
広間を出ると、夜の風が頬を打った。
庭の隅に積まれた空俵が、月明かりの中で人の影のように見えた。あれは景が思いつきで並べたものだ。それがいつの間にか「偽兵」として機能し、鹿島側の偵察をいくらか鈍らせていると紗那が言っていた。本当かどうかは分からない。
景は暗い空を見上げた。
「KM-07」
《待機中》
「味方、飯、逃げ道。あと敵が間違える道。四つだったよな」
《はい。現時点の優先度は、第一に北方同盟の確定、第二に備蓄分散の実行、第三に代替渡河点の特定、第四に情報欺瞞の継続》
「全部いっぺんにか」
《はい》
「無理だろ」
《人的資源が限定的であることは認識しています。優先順位に従い、順次実行を推奨》
「順次って、何日で?」
《理想的には三日以内》
「三日」
景は目を閉じた。
三日で、味方を確定し、米を分け、川を渡る別の場所を見つけ、敵の目をごまかし続ける。一人の人間がやることではない。
だが景は一人ではなかった。
紗那が隣に立っていた。
「三日、もつか」
「もたせる」
紗那が短く言った。
景は頷いた。頷くしかなかった。
返事のない寺。戻らない偵察。渡しに置かれた鹿島の人。細くなっていく道の先に、まだ景の知らない戦が待っている。
けれど今夜、景が分かったことは一つだけだった。
三日という数字は、KM-07にとっては最適な期限だ。紗那にとっては覚悟の単位だ。そして景にとっては、震えながら地図を指さし続ける時間の長さだった。
同じ三日が、三人の中で全く違う重さで存在している。
それでも、三人とも同じ方角を見ていた。




