【三百五十一 猪八戒、沙悟浄の苦しみを知る】
静寂が宝林寺を包む夜。
煌々と照る満月が不気味さを打ち消している。
沙悟浄と猪八戒は宝林寺の小さな厨で夕食の後始末と朝食の仕込みを終えていた。
玄奘は孫悟空と玉龍と共に先に休んでいる。
「手伝ってくれてありがとうね、悟浄ちゃん。 やっぱり手数が多い方が片づけも楽ちんだわ」
「そうか。 役に立てたのなら何よりだ」
そう言って厨を出ようとする沙悟浄に、猪八戒が声をかけた。
「待ちなよ悟浄ちゃん。 そんなに早く戻らなくても、お師匠さんには悟空ちゃんたちがついているから大丈夫だよ」
その手には茶器が揃えられている。
猪八戒は沙悟浄の返事を待たずに茶器を卓の上に並べ、手際よくお茶の準備を始めた。
「やっぱり夜になると少し冷えるよねぇ。 お部屋に戻る前に楽しまない? お兄さん秘伝の、薬・草・茶」
猪八戒はもったいつけるように片目を瞑り、沙悟浄に席に着くよう促した。
そして彼が座るのを確認すると、猪八戒は急須に薬草を詰めお湯を注いだ。
湯気と共にふわりと甘辛い香草の香りが厨に漂う。
それから猪八戒がお茶うけに出したのは干し芋と生姜の砂糖漬けだ。
「これくらい、台所を握るものの特権にさせてもらわないとね」
「では、ありがたくいただこう」
玉龍に見つかったらうるさそうだ、と沙悟浄は苦笑して薬草茶に口をつけた。
夜の空気に冷えた体に、小さな炎が点るようにじんわりと温まってくる。
「お師匠さまにも飲んでいただきたいな」
「持っていったら?」
しかし沙悟浄は猪八戒の言葉に首を振った。
「いや、俺は……八戒が後で持っていってくれ」
「え? オレが? 別にいいけど……悟浄ちゃん、最近お師匠さんと何かあった? なんだか距離がある気がするんだけど……」
猪八戒が生姜の砂糖漬けを薬草茶に浸しながら
訊ねると、沙悟浄は茶杯をじっと見つめてしばらく黙っていた。
そして、薬草茶で唇を少し濡らしてから大きなため息をついた。
「こないだお師匠さんが斬られたことが何か関係している?」
「それもあるが……」
(あるんだ……やっぱりね)
猪八戒は特に驚くそぶりもせず、黙って干し芋を齧った。
(さて、悟浄ちゃんが話してくれるまで、どれくらい時間がかかるかね)
しかし猪八戒の予想に反し、沙悟浄が話し始めるまでそんなに時間はかからなかった。
「お師匠さまの、あの血の匂いを嗅いでから俺は……お師匠さまのことを……」
「うん」
沙悟浄が小さな声でポツリポツリと呟き始めたので、猪八戒は聞き漏らさないように食事を止めた。
「衝動的に切り裂いてしまいそうでこわいんだ」
さすがに猪八戒も予想外の言葉に驚いて沙悟浄を見た。
「えっ……それは、また……あの、どうして?」
猪八戒の戸惑いに、沙悟浄は疲れたような表情で力無く笑った。
「玉果の血の香りがあれほどまでかぐわしいものだとは思わなかった。 俺はあの香りが忘れられないんだ」
「そんなに……なのか?」
玄奘が斬られた時一番近くにいたのは沙悟浄で、その香りを猪八戒は嗅いでいない。
だから普段から意志の強い沙悟浄の憔悴ぶりを見て、玉果の血とはよほどのものなのだろうと恐ろしく思った。
「おかしいだろう。 守るべき大切な人を……大切な人の血を欲するなんて」
「いや……」
「なあ八戒、俺はどうしたらいいかな……あの方を害さないためにいっそのこと、破門していただいて遠くに行ったほうが」
「いやいやいや、ちょっと待ってよ!」
沙悟浄を呆然として見つめていた猪八戒だが、慌てて立ち上がり言葉を遮った。
「悟浄ちゃん、流石にそれは、ちょっと……えっと、待ってよ、ね? オレも一緒に考えるからさ、破門だなんて……そんな早まらないでよ」
とは言うものの、猪八戒も憔悴する沙悟浄に対してどう答えたらいいのか分からないのだった。
「すまない、八戒。 突然こんなことを言われても困るよな」
「いや、オレから聞いたんだし……教えてくれてありがとな。 オレも一緒に考えるからさ、あまり思い詰めるなよな」
力無く笑う沙悟浄に、猪八戒はそう言って干し芋を手渡したのだった。




