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【自由とは──】旨〜approach〜

 陽光も雑音も届かない。地上から隔絶されたこの仄暗い匣の中にはただ、錆びた鉄と湿ったコンクリートの匂いが漂うばかりで、行き場のない風は陰鬱な空気を滞留させている。

 デスクの前にだらしなく座ったまま動かない命弥の姿は、朽ち果て損なったECRの風景と見事なまでに同化し、周りのガラクタと殆ど区別が付かない有り様であった。

「来ないか…………」

 時折言葉を発する事もあるが、無論それは、誰に投げたものでもなく、誰が拾う事もない。

 或いは、自問自答や思考整理ですらなく、声を発したつもりもないのかも知れない。

 命弥の意識は今、この部屋よりもさらに内側の匣に閉じ籠っていた。

「……リオン・ユーティリー…………アイツの言う事はどこまで──────」

 世界の崩壊。創世士。あんな荒唐無稽な話を無条件に信じたわけではない。

 頭ごなしに否定するつもりもないが、あそこまで行くとあまりに大袈裟で妄想じみている。

 それでもリオンが言ったあの言葉だけは、確かな説得力を持って俺の脳裏に響いている。

〝全ての差異ある物事は虚無へと回帰する〟

 心臓を抉り出され、目の前に突き付けられたような気分にさえなった。

 ただ、誰もが自らの胸にそれがある事を知っているように、俺という存在が咎である以上、この命に罪がある事は分かっていた。

 根拠と言えるものは記憶に無い。だが、十年前に起きた災害の結末。それが罪を物語る。

 あの日、俺の居た町は無機とも有機ともつかない人型のような謎の物体に襲われた。

 建物は崩れ、炎は上がり、人は羽虫のように殺された。母と俺を先に逃がそうとした父は、一瞬にして四肢を跳ね飛ばされ、母は何か悟ったように俺を抱きしめた。

 悪い夢だ。そう思うしかなかった。あらゆる感情が一遍に駆け巡り、俺の意識は途切れた。

 だが、俺が再び目を覚ました時、そこにはもう何も無かった。

 何も無いまっさらな大地が、俺だけを乗せて、閑散と虚空を仰いでいた。

「…………俺は……何だ…………」

〝この命には償いの価値しかない。生きている事に罪があり、その咎に苦しむ事が償いだ〟

 目を閉じていればいい。この暗闇だけが、俺に残された妥当な居場所だ。

 外界に意味や本質が無いのだとすれば、ここと然して変わらないのだから、そう悪くない。

 こうして認識にさえ蓋をしておけば、分かり切った間違い探しに眩暈を起こす必要もない。

 自ら消える事が許されないのなら、今は静かにその時を待つだけだ。

 そう思うと途端に睡魔が襲って来る。

 深い沼に浸かったように身動きが取れない。

 じわりじわりと引きずり込まれ、意識が闇の底へと沈んでゆく。


        *        *        *


 命弥が眠りに落ちていたその頃、彩葉は同キャンパスで警備室の総合窓口を訪ねていた。

「えー……あのー…………やっぱりちょっと、どういう事だか分からないんですけど……」

 彩葉は愛想の良い笑みで警備職員の話を聞きつつも、何やら困惑している様子である。

「ええ、こちらにもよく分からんのですよ。貴方が落とし物を探しに来るかも知れないから、自分が戻って来るまで留めておいて欲しいと。それだけで……」

 そう応える警備員は高齢ではあるものの、下手な若者よりも溌剌としていて、とてもボケているようには見えない。

 しかしながら、彩葉には警備員の話がどうにも腑に落ちない様子で、両者は数分前から似たような問答を繰り返しているのであった。

「は、はあ……えーとー、私の立場から言うのも烏滸がましいとは思いますけど、その場合、何はともあれ遺失物を預かるものかと……。それはまぁ、直接感謝を伝えるのがベストだとは思いますよ。でも、お互い手間になるわけで……。落とし主に会いたがるのも何か────」

 彩葉は自身に非がある事を弁えながらも、控えめな口調で警備員の配慮の無さを指摘した。

「あぁー、いやいや、勿論こちらも預かるつもりでおりましたよ。しかし、手元に無いという事で……宜しくお願いします、と押し切って、何処かに行ってしまったのですよ。でもまぁ、すぐに戻って来るでしょう! なぁに、大丈夫! 怪しい人じゃないから!」

 警備員は事の経緯を説明すると、カラッとした声で彩葉を励ました。

 話が堂々巡りになっていた原因は、どうやら警備員の説明不足にあったようだが、この両者の食い違いが解けたところで、拾い主の不可解な行動の全てに説明が付いたわけではない。

 それでも結局、謎の拾い主を待つしかない彩葉は、引き攣った微笑みで相槌を打っている。

 途中から「あのー」という何者かの声がうっすらと加わって来ていたが、今も警備員は取り留めも無い話で場を繋いでおり、対する彩葉はその勢いに呑まれ、ひたすら愛想笑いを浮かべ続ける事しかできなくなっている為、誰もその第三者の声には気付いていない。

 届かざる呼び声は小さな唸り声へと変わってゆく。

 そして、次の瞬間。何者かの両手が彩葉の両目をそっと塞いだ。

「だぁ〜れだっ!!」

「ぅわぁぉ!? え、え? え?? 誰? 知らない……本当に知らない! え、怖いです。怖い怖い怖い。いや! 誰か! おじいさん! 警備員の方を呼んでくださぁ〜〜〜い!!」

 彩葉の背後から聞こえて来たのは毒気も無い少女の声であるが、それが絶対に知人ではないという確信と怪奇的恐怖で思考が壊滅したのか、彩葉はパニックを起こした。

「あのねぇ、お嬢さん…………」

 警備員は物言いたげでありつつも、それを諦めたような憮然とした表情で彩葉を見ている。

「あ、あの、えと、豊崎さんですね! す、すみません! とにかくここを離れましょう!」

 このような騒ぎになる事は予想していなかったのか。少女は居た堪れなくなった様子で顔を真っ赤にしながらそう言うと、強引に彩葉の手を引いて、そそくさとその場から逃げ出した。

 警備室を離れてから三分程も経つと、恐慌していた彩葉も少しは平静を取り戻した様子で、自身を脅かした張本人と共にキャンパス内を無言で歩いている。

 成り行きに流されて謎の少女に付いて来てしまった彩葉であるが、この状況が不条理であるという認識はあったようで、先程からずっと謎の少女の後ろで気不味い表情を浮かべていた。

「えーとー……これはどういった状況なのでしょうか〜……貴方は一体……」

 自身より幼い少女に対して、彩葉はおずおずとそう尋ねる。

 前を歩く少女はその足を止める事こそしないものの、彩葉の声に肩をぴくりと跳ねさせて、忍びなさそうに後ろを振り返った。

「そ、そうですよね。すみません。で、では、改めまして! 私は相野深七という者です! 友達にはみなのんとか呼ばれたりしています!」

 深七はぺこりと頭を下げて謝ると、場都の悪さを誤魔化すように元気良く自己紹介をした。

「あ、これはどうもご丁寧に……。私は豊崎彩葉という者です。友達は居たような居なかったような感じですが、小中学生の頃はホヘトやら天然水やらとイジられた覚えがあります」

 その場の空気感に合わせたのか、彩葉は少し戯けた調子で名乗り返した。

「あははっ。彩葉さんって面白い人なんですね」

 深七は無邪気に笑いながら人懐っこい口調でそう言った。

「はい。意外と話しやすいタイプだと自負して……っていや、そう言う事ではなく──」

 和やかな雰囲気に呑まれそうになった彩葉だが、辛うじて話の脱線を食い止める。

「あっ! 落とし物の事なら安心して下さい! 私は持っていませんが、お兄ちゃんが責任を持って預からせて頂いているので」

 深七は恰《あたか》も彩葉の不安を察したかのような素振りで先回りの回答をする。

「そうですか。お兄さんがうちの大学に…………ん? だとしたら、どうして貴方が?」

 彩葉はそう言って、不思議そうに深七を見つめる。

「あ、あはは……どうしてなんでしょうね〜……へへっ?」

 深七は少し上擦った声でそう言いながら、訳も無くヘラヘラとしている。

 二人が歩き出してからここまで、既に幾つもの学舎の前を通って来たが、この先の区画にはもう何の施設もない。

 基、それを敢えて具体的に換言するのであれば、二人の居る区画を抜けた先にあるものは、もう何の施設でもない抜け殻の建造物だけなのである。

「あっ、あのー……。え、えっとー……そのお兄さんてまさか、解体予定の棟に居座っている偏屈な…………ってそんなわけないですよね! すみません。失礼な事を言ってしまって」

 最奥の施(・)設(・)に近づくに連れて、彩葉は持ち前のにこやかな容貌を徐々に引き攣らせてゆき、きょろきょろと辺りを見回しながら、前を歩く深七へ向けて自問自答のように話し掛ける。

 しかし、深七は何も答えない。段々と静けさを増す道の中をひたすら歩き続けている。

 いよいよ雲行きが怪しくなり、彩葉がぴたりと歩を止めた。

 その気配に気が付いたのか、深七も少し遅れて歩を止める。

 そうして僅かの間、両者は膠着状態に陥ったが、彩葉の決断と行動は深七よりも早かった。

 彩葉は左脚をそっと後ろへ引きながら、体の向きを半周を変え、全力疾走の構えに入った。

 方や、後ろめたそうに俯いていた深七であるが、少しして意を決したように口を開く。

「あの…………彩葉さんは────」

 そう話し掛けながら、深七は自身より背の高い彩葉の顔を見上げるように振り返った。

 しかし、その視線の先にはもう誰の姿も無い。

 深七は暫く虚空を見つめた後、自らの業を恥じるように再び深く俯いて、遣る瀬無さそうな面持ちをしながら、また何気なく彩葉と歩いて来た道に視線を向ける。

 その敷石の道にはただ、人知れず踏み潰された蛾の如く物悲しい、豊崎彩葉の姿があった。

「えぇえ!?? ど、どうしたんですか!??」

 深七は驚いて目を見張りつつも、慌てて彩葉に駆け寄った。

「大丈夫です。寧ろ今、私の心は清々しい。まるで、弟子達の足を拭うイエスのような気持ちなのです。喩えこの身が土に汚れようとも、人々の業に塗れたこの大地を拭えるのならいい。分かりますか? 健やかなる世界はこうして築かれるのです」

 転んだ時のショックに依るものか、彩葉の精神は駄目になっていた。

 いじけて立ち上がろうとしない彩葉に、深七は苦笑を浮かべつつ、優しく手を差し伸べた。

「何はともあれ…………まずは手当てをしましょう。ねっ」

 それから旧研究棟に入るまで、深七は怪我の応急処置を理由に彩葉を意のままに誘導した。

 命弥との関わりを隠すには無理があったものの、結果として、彩葉をECRのドアの前まで連れて来られた深七は、自身より十五センチ程背の高い彩葉を担ぎながらも、爽やかな安堵の表情を浮かべていた。

 しかし、ドアの正面に立った途端、またもや彩葉の様子がおかしくなった。

「……無理。私、やっぱり無理です! 情緒不安定のイカれ女だって絶対思われてます!!」

 彩葉はシリアスな表情でそう言うが、思われているか否かでなく、側から見れば事実としてそうなのである。

「大丈夫ですって! 悪いのはお兄ちゃんなんですからっ!」

 深七は些か語気を強めてそう説得する。

「で、でもでも、私が妙な態度を取ったのも、彼を挑発したのも、みんな事実なわけで!」

 彩葉はドアを開けようとする深七に縋り付きながらそう言う。

「困っている女の子を冷たく遇らったのも事実です! あのポンポコピーには謝らせます! だぁーかぁーらぁー!!」

 深七は伸し掛かる彩葉を引き摺りながら、必死にドアノブへ手を伸ばす。

 そうして二人が騒いでいると、ECRの扉は自ずと内側から開いた。

「誰がポンポコピーでも構わんが、ここで騒ぐのはやめてくれ。音の反響が酷いものでな」

 そう言って二人を出迎えた命弥は頭痛に苛まれたような顔をしていた。

「まぁまぁ。こうして彩葉さんも来てくれたんだから」

 深七は命弥の苦情を軽く受け流して部屋に入って行く。そしてそのまま、背中に担いでいた彩葉を上座側のソファーに座らせると、小型のリュックから可愛らしげなポーチを取り出し、その中から消毒液や絆創膏、ガーゼ、テーピングテープ等を選んでテーブルに並べた。

 くたくたになった彩葉を颯爽と介抱する、深七。

 今一状況が呑み込めてない様子の命弥は困惑した面持ちのまま、密やかに自分のデスクへと戻って行った。

「すみません、深七ちゃん。色々お世話をかけてしまって…………」

 彩葉は失態を恥じるように小さくなってソファーに座っている。

「ん……まぁ、何があったかは訊かないで置く…………。しかし、深七……お前はそもそも、何をしにここに来たんだ?」

 命弥はデスクに肘をついて気不味そうに指を組むと、まずは気軽な相手の方へ話題を振る。

「何って……まぁ、相談もあるんだけど…………お兄ちゃんの助手に任命されたから?」

 深七はきょとんとした顔をして、質問の意図を探るようにそう返答する。

「え? 知らなかったんですか? てっきり、命弥君が仕組んだ嫌がらせかと」

 彩葉は拍子抜けしたようにそう言った。

「それは嫌味なのか…………? いや、そうだな……すまなかった。先日の事は謝ろう」

 命弥は少し怪訝そうに眉を顰めたが、嫌味を言われるのも道理だとすぐに思い直したのか、神妙な顔で謝罪し、粛々と頭を下げた。

「ねっ、大丈夫だったでしょ、彩葉さん。お兄ちゃんは凄まじく不器用なだけなんです」

 深七は彩葉に微笑み掛けながらそう言った。

「はい…………それは……良かったのですが──────」

 彩葉はそう歯切れの悪い返事をしながら、困ったように愛想笑いを浮かべている。

「パスケースの事か? それならしっかり預かっている。これはこの通り返そう」

 命弥は応接用の席に移ると、パスケースをテーブルに置いて彩葉の方へ差し出した。

 彩葉が軽い会釈をしながらそれを受け取ると、命弥は神妙な面持ちで更に話を続ける。

「その上で。もし良かったらだが…………改めて、お前の相談に乗らせて貰えないか……?」

 普段ならぶっきら棒な命弥だが、虫のいい話を持ち掛けるだけに言葉選びは慎重であった。

 そんな命弥の申し出に対し、困ったように目を伏せて黙り込む、彩葉。

 その思わしからぬ反応を見て、命弥もまた視線を落とし、悲観的な面持ちで黙り込んだ。

 静寂に淀んだ鬱めかしい空気が両者の間に立ち込める。

 二人の様子を見兼ねた深七は「あのっ──」と声を上げ、何やら間を取り持とうとしたようであったが、丁度それと重なるようにして、彩葉が緩やかに口を開いた。

「いいんです……。もういいんですよ、命弥君。その話は…………。これ以上先に進めても、誰も幸せになれません。意味が無い事に気付いてしまったんです。だからもう──────」

 彩葉は何か悟ったような穏やかな微笑みを浮かべてそう言った。

「そう……だな……。俺にできる事なんて、結局は高が知れている。無理強いはしない」

 命弥は返す言葉も無いといった調子で、自分自身を見限るように悄然と肩を落とした。

「ちょっと待ったぁーーーー!!!」

 急に大声を上げて立ち上がる、深七。

「ふぉわっ!!?」

「何だお前は……」

 目の前に居た彩葉は喫驚して仰け反り、命弥は不快そうに眉を顰める。

「深七だよ。それよりお兄ちゃん! 諦め早過ぎ、卑屈過ぎ! ここは何の為にあるのよ!」

 と、深七は活を入れるように命弥の消極性を指摘した。

「ま、まぁまぁ、深七ちゃん。命弥君は私に気を遣って────」

 彩葉は少し戸惑った様子で深七を宥める。

 その向かい側では大義そうに溜息を吐いた命弥が「あのなぁ」と、深七の聞き分けの悪さを窘めようと口を出しかけていたが、深七はそれを気にも留めずに奔放な態度で話を続ける。

「私、思うんです。幸せってきっと、今有るものの尊さに気が付く事なんじゃないかなって。だから、彩葉さん。やっぱり探してみませんか? 幸せに気が付く為の方法を────」

 深七は天衣無縫にそう言ながら、人懐っこい微笑みを浮かべて彩葉に右手を差し伸べた。

 それを呆然と見上げていた彩葉は、再び気不味そうに目を伏せて黙り込む。

 先程にも増してどこか重々しいその沈黙は、一時の躊躇いや心理的抵抗としては捉え難く、憂いを湛えるように伏せられた彩葉の瞳には、哀愁や悔恨、或いは後ろめたさというような、何かしらの仔細を伴った具体的な心情が潜んでいる様子であった。

 それでも、深七は差し出した手を下げずに柔和な笑みで彩葉の返事を待っていた。

 彩葉はその様子をチラリと窺い、また少し俯くと、暫くして徐に口を開く。

「…………そうですね……。せっかくですので、最後までやり通しましょうか」

 そう決断した彩葉は朗らかな笑みを深七に返した。

 願っていた通りの返答に、深七はパッと笑顔を咲かせ、嬉しそうに体ごと大きく頷いたが、所在を失った右手は心なしか寂しげに胸元で組まれていた。

「おい。いいのか……? かなり抵抗があるように見えたが────」

 命弥は気遣わしげに彩葉へ問い掛ける。

「まぁその、何と言いますか。物は試しという事で……。それに、こんな幼気《いたいけ》な少女が立派な考えを持っているのに、大人が逃げ腰では立つ瀬が無いというものです。臥薪嘗胆ですね!」

 彩葉は両手の拳を胸の前に小さく掲げ、少し戯けた調子で自身を奮い立たせた。

 そうして命弥の疑問に応える彩葉の傍で、深七は何故か愕然と口を開けたまま、剥製のように固まっているのだが、彩葉はその事に全く気付いていない。

「それは言い過ぎだろう……。それとな、豊崎。これは別段価値の無い情報だが……コイツは今年で17歳。つまり、高校二年生だ」

 命弥は腕を組み、憂わしげにそう言った。

「私の発育に価値は無いと…………へへ……」

 深七はやさぐれたような薄笑いを浮かべ、項垂れながらその場を離れていく。

「あ、ちが、あの、深七ちゃん。私の感性がお粗末なだけでして……そそれに高校生でしたらまだまだ育ち盛りで……い、いえ、そのままでも十分素敵です! 若くて羨ましいです!」

 慌てて失言を取り繕おうとする彩葉だが、必死になればなるだけドツボに嵌ってゆく。

「彩葉さん、もうやめて!!」

「そうだ。やめて置け…………然もなくば……俺の命が無いぞ」

 その声を聞いて我に返った彩葉が正面を向くと、泣きながらチョーク・スリーパーを掛ける深七と、もう数秒で他人事のように失神するであろう命弥の珍妙な有り様がそこにあった。

「み、深七ちゃん!? え、やっ、不味いです! 本当に締まってます! 目が! 命弥君の目が逝っちゃってます! 逝っちゃってますからぁ!!」

 彩葉は深七の奇行に驚くと共に、どこか遠い天上を眺める命弥の瞳に慌てふためいた。

「えっ……!」

深七もまた我に返り、命弥の首からさっと両腕を解いた。

 しかし、その判断は遅からずも早からず。

 命弥の意識は、この世知辛い物質社会を既に離れていた。

 それから幾ばくかの時間が過ぎ去り、陰々滅々としていたECRの室内にはいつの間にか、愛らしい小鳥たちが囀るような明るく和やかな雰囲気が漂っていた。

 何も知らずにゆっくりと意識を取り戻す、命弥。

 その目前には、和気藹々とお洒落談義に花を咲かせる彩葉と深七の姿がある。

 何やら深七は三つ編みの練習をしているようで、冠のように編まれていた彩葉の髪を解いて結び直している。

 そして、そんな深七の頭髪もまた、彩葉と同じく冠のように編まれていた。

「…………。おい…………」

 気絶した自分を放置してお洒落談義などに花を咲かせる二人の様子をじっと見つめながら、命弥は酷く呆れ果てた表情で低い声を投げた。

「えっ……!? やっ、これはあの〜、無闇に起こしてはいけないものかと思いまして……」

「ち、違うのお兄ちゃん! 起こそうとはしたんだよ? でも────」

 彩葉と深七はビクッと肩を跳ね上げ、あたふたと言い訳を始めた。

「……まぁ……それはいい。だが、豊崎にも予定や都合があるだろう。とっとと始めるぞ」

 命弥は若干不満げな表情を残しつつも、ソファーにだらしなく凭れ掛かった背中を起こし、早々とカウンセリングの態勢に入る。

「まず……そうだな……初めに言って置くが、ここで行われるのは──────」

 普段の無気力さとは打って変わり、命弥はキリッとした姿勢と面構えで前口上を語り出す。

 ところが何故か、彩葉と深七は先程よりも更に気不味そうな顔で下を向き、あたかも命弥の言動が場違いであるかような空気を無言で漂わせている。

 その異様なムードに戸惑った命弥はぴたりと話を止め、二人の表情を改めて確認するように右へ左へ視線を振った。

 すると、彩葉は忍びなさそうな上目遣いをしながらも、困惑した命弥の視線に応えるようにおずおずと口を開いた。

「えーとー……誠に言い難いのですが──────」

 彩葉は沈黙を破ったものの、肝心な内容の部分で気後れしたように言い淀む。

 そのもじもじとした仕草をまじまじと見ながら、命弥は怪訝そうな眉の皺を一層深める。

「ごめんね……そのー…………もう閉門の時間が迫ってるみたい……」

 深七は明後日の方向に目を逸らしつつ、少し上擦った声で命弥に事実を伝えた。

「なっ──────」

 命弥は愕然と目を剥き、怒気を孕んだ表情で少し口を動かすが、来談者である彩葉の手前、その不満を見苦しく声に出したりはせず、ただ物言いたげに深七を見つめた。

 まさしく憤懣遣る方無しといった具合である。

 しかしながら、そのような感情が湧く事すら命弥の空虚な日常においては珍しく、慣れない

心の昂ぶりに早くも疲れた様子の命弥は、喉元まで出かかっていた言葉を溜息に変えて鼻から抜くと、萎んでゆく風船のようにしょんぼりと肩を落とした。

「明日! また明日、改めて相談に乗って貰えますか? ええ、そうしましょう!」

 彩葉は気詰まりな空気を突き破るように勢い良くそう勧めた。

「う、うんうん! そうだよ! それが良いよ!」

 深七はここぞとばかりに声を張り、彩葉の提案に同調した。

「そんな事は分かっている…………だが──────」

 命弥は不服そうな表情で深七を一瞥し、憂鬱そうに目を伏せながらそう言うと、気遣わしげな視線を彩葉の方へ向けた。

 すると、その物言いたげな視線に応じるようにして、彩葉ははにかんだような優しい笑みを命弥に返した。

「私なら大丈夫ですよ。覚悟は決まっていますから」

 彩葉は穏やかな口調でそう言う。

 無論、その言葉が意図するところは、不都合や不平不満、心変わりによる来談拒否が無い事を自身の心境を以って表明し、命弥が抱えている憂慮や懸念を緩和する事にあるのだろう。

 ただ、彩葉の嫋やかな言の葉には、どこか誤植程度の瑣末な違和感も感じられた。

「……そうか…………」

 たとえ、どのような心根がその違和感の奥に秘められていたとしても、他でもない彩葉自身の口から固い来談の意志を聞けた事に変わりはない。

 命弥は重箱の隅を啄くような真似を憚り、短い相槌だけを彩葉に返した。

 こうして、ECRのカウンセリングは明日の午後に日を改めて行われる事となった。


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