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【自由とは──】序〜hypothesis〜

 眠気を誘う麗らかな日差しの下。帝都(みかどみや)大学キャンパス内は、午前中の講義を終えた学生達で賑わい始めていた。

 新学期の若人達を出迎えていた桜の花は、今やすっかり散り終えてはいるものの、あらゆる生命は活気付き、青春に陽気が増してゆくのは、いよいよこれからである。

 そのような雰囲気であるにも拘わらず、ここに一人、幽々とした森に潜む朽ちた樹木のようなオーラを纏いながら、威圧的なまでに陰鬱な表情でキャンパスを歩く男が居た。

「独り好きとは言っても……これではまるで、心理学者の被験体か何かだな、俺は────」

 黒いパンツに黒いTシャツ、黒いジャケットを羽織った、途轍もなく偏屈で陰気臭い青年、内藤命弥(めいや)は溜息混じりにそうぼやいていた。

 仲間は疎か、碌に客など訪れない、存在意義があるのかも怪しい薄暗い地下室に独り通い、来る日も来る日も大学が閉門するまで来談者を待つ。

 その不毛としか言いようのない日課を、内藤命弥はかれこれ一年近く続けて来たのである。

 何故ならそれは、義父であり、恩人であり、当大学の教授である、相野昭吾から命じられた相談援助活動の一環だからである。

 尤も、こんな子供のお遣いとすら言えない仕事で、学費やら生活やらの恩が少しでも返せるというのなら、それは願っても無い話だろう。

 本人もそのように納得はしているものの、気鬱に垂れ下がる瞼が軽くなる様子はない。

 それというのも、命弥にとって己が人生は、ただ生きる為に動くだけで十分だからである。

〝この命には償いの価値しかない。生きている事に罪があり、その咎に苦しむ事が償いだ〟

 常にその虚無的な思考を座右の銘に生きる命弥からしてみれば、そもそも大学生活そのものこそが、ゼロにイチを掛けるかの如く無用で煩わしいものであった。

 敷石の人道を不貞腐れた野良猫のように歩く、命弥。

 徐々に賑やかな通りから離れ、異様にひっそりとした区画の方へと足を進めると、そこには酷く老朽化した一棟の研究棟があり、命弥はその寂寥《せきりょう》とした建物の中へと入って行った。

 日中であるにも拘わらず、屋内を見渡しても人の居る気配は無く、照明や什器、掲示物等、所々撤去された様子が見られる。

 実際、一階のロビーに限らず、どの階層も、どの部屋も、似たような有り様であるのだが、この抜殻のような研究棟は、それもそのはず、命弥が通い始めるより以前から取り壊しが予定されていたのである。

 諸事情により正式な決定が下されていないものの、代替となる新棟が既に別の区画で完成している為、殆どの関係者が移転を終えた状態である。

 その寂れた旧棟の階段を地下へと降り、罅《ひび》割れた壁が囲う暗い廊下を奥へと進むと、五つのドアを通り過ぎた先に、ECRというルームプレートの付いた同型のドアがある。

 また、その鉄製のドアの中央には〝来談者以外の立入りを禁ず〟と大きく書かれたA4用紙が貼り付けられていた。

 命弥はそのドアの前で立ち止まると、改めて憂鬱そうに俯きながら溜息を吐いた。

「…………まっ、厄介な好事家が現れないだけ、まだマシと言ったところか──────」

 そう言い訳のように自分を納得させ、命弥はドアノブに手を掛ける。

 わざわざ声にした自己暗示には、何の効果も見られないが、冴えない顔を引き摺りながら、命弥は草臥れた鉄の扉を開けた。

 そこは物置のような事務所。或いは、書斎のような応接室とでも言うべきだろうか。

 入口から向かって正面奥には、古寂びたデスクが一式あり、部屋の左右両端に並んだ大型のスチールラックは、十二畳程ある部屋面積の三割以上を占めている。

 また、それらのラックの上から三段目までは、哲学書やプログラミング関連の書籍が丁寧に並べられているが、それより下段の全ての収納スペースには、電子基板をはじめとするPCのジャンクパーツのような物々や、端子の無いケーブル群、用途不明な鉄屑等、様々な機械部品が無秩序に詰め込まれている。

 そして、この酷く明かるさに乏しい部屋の天井を見上げてみれば、直管型のベースライトが五台備え付けられている事が分かるが、年季の入ったそれらは殆どが本体の寿命を迎えているようで、全くもって点灯していない。唯一通電しているラック寄りのベースライトも、二本組の蛍光灯が息絶え絶えに光を放っているといった具合である。

 実質、この部屋の光源を担っているのは、簡素なシェードを被った四灯の白熱電球であり、それらのペンダントライトは、事切れたベースライトの蛍光灯に巻き付いたコードによって、各箇所に一灯ずつ点々と吊るされている。

 このような鬱然とした景観の中で、強いて相談室らしい箇所に目を向けるとすれば、二対のシックな革製ソファーと重厚感漂う長方形のガラステーブルである。部屋の中央に設置されたその格調高い応接セットの存在は、この相談室をかろうじて対談の場たらしめていた。

 いずれにしてもこの部屋は、カウンセリングルームを名乗るにしては、あまりにも退廃的な空間であり、真っ当な感性や普遍的な価値観を持った人間であれば、自ら進んで関わろうとは思えないような有り様であった。

 ところが今、扉を開けた命弥の視線の先には、長髪の麗人がソファーに一人、軋んだ蝶番の音に気付いた素振りもなくぽつりと座っている。

「──とうに……本当に私は、沢山の──ちを──にじり────にして──した…………。だから──て───わないといけません…………。そう、これは───の─────」

 麗人はテーブルの前で祈るように手を組みながら、何やら独り言を呟いていた。

 その謎めいた言動を訝しむように、命弥は入口の前で立ち留まったまま、彼女の様子をじっと窺っていたが、やがて悩ましげに視線を外し、少しだけ顔を俯けて一考すると、意を結した様子で一歩足を踏み出した。

 しかし、再び部屋の方へ視線を戻した命弥は、目前の異様な光景に二の足を踏んだ。

 得体の知れない光の粒が無数に部屋中を漂っていたのである。

 仄暗い部屋に散らばった粒状の光は、空中を彷徨う塵埃のようにゆっくりと浮揚しつつも、時に素早い動きでまちまちに飛び交い、ふっと消えては、またそこかしこに現れる。

 それはさながら夕闇に舞う極小の蛍のようで、哀しげに手を組んだ麗人が明滅する光の粒に抱かれたそのさまは、この朽ちかけた部屋に幻想的な風景美を齎していた。

 命弥は当惑した表情で立ち尽くす。

 彼女は何者なのか。何の目的でここへ訪れ、今ここで何が行われようとしているのか。

 視界を奪う不可思議な光景は、この場にいくつもの疑問の種を蒔いていた。

 無論、それらの謎を独力で解く術など命弥には無い。

 忙しなく脳内を駆ける電気信号をどれだけ思考に注ごうと、怪奇に遭ったその瞬間はただ、更なる疑問が次々と連鎖的に芽吹くだけである。

 たとえそれが分かっていても、予期せぬ出来事を前にして波立った心は、無意識にも事態を把握せんとして思考の川を奔流させてゆく。

 命弥はまさにそのような様子で固まっていた。

 基、そのはずであった。

 しかし、今この瞬間。ふと気付けば、何か重要なものが欠けていた。

 問題の彼女がどこにも居ないのである。

 知らぬ間に退室したのか。特殊な方法で姿を眩ましたのか。否、そういった話ではない。

 そもそも、彼女とは一体、どこの誰の事を指していたのか。

 急にベクトルを失った当て所ない思考の川は、無価値な記憶の残滓となって海馬に停留し、脈絡の無い認知欲求だけが慣性のように自身へ問い掛ける。

 〝彼女〟とは何だ。

 それは有るはずのない疑問。

 意識と認識が食い違う。

 そこに疑問があるならば、当然〝彼女〟は存在するはずだ。

 しかし、そんなものは初めから、どこにも存在しなかった。

 意識《れんぞく》する現在と認識《だんぞく》する現在が鬩ぎ合い、世界が一瞬ぐにゃりと歪む。

 強烈な目眩が命弥を襲った。

 平衡感覚を失った命弥は咄嗟に左手で戸当たりを掴み、おぼつかない両足を力尽くでその場に踏み留まらせると、苦悶の表情を浮かべながら、もう片方の手で額を抑えた。

 自身の認知する不条理な世界に命弥は息を乱す。しかしながら、それら超常に対する命弥の姿勢はどこか落ち着いていて、こうして直接的に危害を被った今でさえも、冷静にゆっくりと状況を見極めようとしている様子であった。

 命弥は眩惑に抗うように、薄く開いた目で辺りを再確認する。

 現実的に考えてみれば、この世のほぼ全ての矛盾や二律背反は、人の空想や誤認、無分別、偏向思考等を孕んだ、観念の暴走。無知なる迷妄。

 即ち、この場合も答えは二つに一つである。

 そこに誰かが居た事が幻覚だったのか。そこに誰も居ない事が錯覚なのか。

 眉間を摘み、首を振り、命弥はもう一度外界に目を凝らす。

 やはり〝彼女〟は居た。

 命弥が視線を向けた応接用ソファーには、確かに長髪の麗人が座っている。

「もう──ちゃいました…………これで何もかも終わりに──────」

 麗人は掠れた声で何か呟いた。

 白いワンピースと薄茶色の長髪、冠のように留められた三つ編みは、比喩的に彼女の透明感を演出してはいるものの、幽霊やホログラムのように実体が無いといった様子ではない。

 命弥はまだ釈然としない面持ちであったが、妙に諦念じみた短い溜息を吐くと、その重い足を部屋の中へと進める。

 一歩二歩と框を跨ぎながら、命弥はソファーの麗人に声を掛けようとして口を開いた。が、それと同時にふとある事に気付いて足を止めた。

 未だに室内を漂い続けている光の粒。それらをよく見ると、テーブルやソファー、スチールラック、その他諸々、この部屋のあらゆる有体物から発生している事が分かる。

 現状、備品等に著しい欠損は見られないまでも、この部屋が由々しき状況にある事は明らかであった。

 命弥は部屋の全容を眺めながら、呆れたように後退りすると、蝶番側のドア枠に肘をつく。

 見知らぬ麗人と不可解な超常現象。

 これらの怪異並びに、ECRと名の付くこの部屋の危機的状況を前にして、命弥が発した声は悲鳴でも驚嘆でもなく、やはりまずは溜息であった。


        *        *        *


「やあ。待っていたよ、命弥君。何事においても消極的な君が、わざわざ慌てて教授室に押し掛けて来たって事は……賽は投げられた、ってところかな?」

 と、デスクから椅子を半回転させて振り返った男は、相野昭吾。

 命弥の恩人であり、義父でもある、帝都大学理工学部の大学教授である。

 そのように徳の高いであろう人物の教授室はと言えば、とても人様を迎え入れられるような状態とは言い難い、雑然とした有り様であった。

 本や書類は所構わず床に積まれており、壁際では二メートル程の山となって堆積している。

 そんな足の踏み場も無い部屋で、命弥の急な来訪に応じた昭吾は悠然として構えていた。

「賽を転がしていた張本人が……よく抜け抜けと言えたものだな────」

 命弥は閉めたドアに背中を凭せ掛けると、腕を組みながら昭吾に視線を飛ばす。

「いやぁ、ようやく来訪者がねぇ。正直不安だったけれど……うん。重畳だよ、命弥君」

 非難の声もそっちのけに独り感慨に浸る昭吾は、ニンマリとした顔を命弥へ向けた。

 けろりとした昭吾の態度に「おい…………」と低い声を投げ、呆れ返ったようにその様子を眺める命弥であったが、少しすると、不満に堪えていた息を短く吐き出した。

「昭吾さん。アンタには恩がある。それにまぁ……何を考えているのかは知らないが、それも悪行ではないのだろう。だがな……。ああいう類の厄介事に俺を関わらせるべきじゃない」

 落ち着いた口調でそう言いつつも、命弥は何か焦慮している様子であった。

「何年経ってもブレないねぇ、君は……。色々勘違いしているよ。僕が君を引き取ったのは、君を知った者としての勝手な義務感だ。君が恩を感じる事は無い。それに僕はとっくに君の事を家族だと思っている。当然、深七《みなの》と同じように、君の幸せも願っているんだよ」

 昭吾は飄々とそう諭す。

「なら、この状況はなんだ……。前々からおかしいとは思っていたんだがな。カウンセリングを称しながら、あの部屋は客を迎えるようになっていない。寧ろその逆だ。誰も寄り付かない廃れた旧棟に、同好会ですらない謎の慈善活動。その上、アンタは広報も不要だと言う……。それでも誰のお陰か、悪い噂には事欠かない。ECRは決して内側からは開かないそうだ」

 命弥はうんざりした表情を見せながら、ECRについての不審点を上げてゆく。

「それが僕の仕組んだ罠だって……? 場所に関しては単に都合が良かっただけだし、広報に関しては君に期待していないだけだよ。大体ねぇ、僕が怪談なんて言い広めると思うかい? あれは単なるメタファーだよ。あの部屋を宣伝する際に出てしまった、君に対する軽い愚痴のようなものさ……。しかしまぁ……それがまさか、そんな形でねぇ…………」

 昭吾は呆れ果てた様子でそう言う。

 それでも命弥は、昭吾の言い分に対し、煩わしげに眉を顰めながら溜息を吐いた。

「全てが嘘だとは言わない……が、詭弁のように聞こえるな。そも、まともな環境で活動したところで、素人の相談援助なんざ、誰も受けようとは思わない。その上でだ。今やあの部屋は誰の関心も得ない非公認の部室ではなく、謂く付きの不気味な倉庫として認(・)知(・)されている」

 命弥はそう言って、先程挙げた不審点を更に掘り下げる。

「不本意ながらそう言う事らしいね。でも、相談者が来ない理由は他に色々あると思うなぁ。君の性格やあの部屋の有り様は……まぁ、置いておくとして……相談室の志向がアレではねぇ…………で、仮に人が来ないのが僕のせいだったとして、それがどうかしたのかい? 物臭な君にとっては好都合じゃないか」

 昭吾は他人事のような顔でそう言う。

「逆だ。稀に噂を嗅ぎ付けた好事家どもが来るようになってな。面倒が増えている」

 と、命弥は昭吾の苦言など御構い無しに不服そうな表情を浮かべた。

「否定する気もないと……。いや、申し訳ないね。僕が迂闊だった」

 積極性の欠片も感じられない命弥の反応に気を削がれ、昭吾はしらけた口調で非を認めた。

 その謝罪の言葉に含意するものが、自責や反省などではなく、話を完結させんが為の譲歩である事は明らかであるが、それ以上に命弥は〝迂闊だった〟と言う昭吾の発言に懐疑の視線を向けていた。

「どうかな。実際、それなりの人数に知れ渡った事は確かだ。大抵の人間は忌避するであろう部屋が、この大学構内に存在する、とな。人目を憚る行為には丁度いい場所だ。少なくとも、そんな条件に誘われるようにして訪れたのが、あの妙な超能力女というわけだ……」

 命弥は核心に切り込むようにそう言った。

「つまりなんだね?」

 昭吾は澄ました顔で尋ねる。

「簡単な話だ。無人の忌み部屋が惹き付ける者は、さて……。排他の隠者か、好奇の愚者か。無論、そんな者なら顔色を窺うまでも無く、俺が追い払うだけだ。しかし、釣られたのが魔女の首だったとしたら────」

 命弥はそう問い掛け、遠回しに昭吾の自白を求める。

「要するにこうかい、探偵さん? 特定の精神状態が超能力に関係していると推理した君は、ECR設立の真の目的が能力者を誘い込む事にあると断定し、こうして首謀者である僕を糾しに来た。どうだい? 合っているかな? 僕の被害妄想だと良いけれど……或いは君の」

 昭吾は揶揄うようにそう言った。

「違う……のか……?」

 命弥は訝しげに眉を顰める。

「まぁ、否めない部分もある。しかしねぇ────。そもそも、あの相談室にニッチな志向性を加えたのは君自身だよ? 来訪者の篩い分け云々で疑われてもなぁ……」

 そう言って苦笑を浮かべる昭吾は、心なしか悲しげな様子であった。

 二人の会話は途絶え、少し気不味げな沈黙が訪れる。

 と、思われたのも束の間。

 壁際に堆積していた二メートル程ある本の山が、突如として軽い雪崩のように流れ落ちた。

 命弥と昭吾の視線は自然とそこに集まる。

 崩れ出した本の山をよく見ると、何やらその下には、白い丸型テーブルとパステルブルーのソファーが埋もれているようで、その天板や肘掛けが中腹から微かに姿を覗かせていた。

 文字通り山の形を成したその重積は、元々ソファーの足周りや、座面の隅、シートの上部に積まれていた本に加え、テーブルに積まれていた大量の本が倒れてできたもののようである。

 突然動き出したそれらの堆積物を、命弥は怪訝そうに見つめ、昭吾は平然と眺めていた。

 すると間もなくして、二波目の雪崩が起こる。

 山なりは一斉に崩落し、一波目を超える夥しい量の本が流れるように床へ広がり落ちると、埋もれていたソファーが朧げながら顔を出す。しかし、それで終わりではない。

 座席一杯に残留した本を突き除けるように、謎の少女が上体を起こして現れたのである。

「当たらずも遠からず、といったところだね。彼が何かしなくても、其方は元々そういう巡り合せにあったという事だよ」

 出し抜けに現れるなり、少女は淡々とした口調でそう言った。

 どこか浮世離れした雰囲気の少女であるが、その独特な存在性は容姿からも窺える。

 彼女の有する紫色の瞳と黄金色の髪の毛は、それだけで世界的に希少な個性であるのだが、更にそれらはどういうわけか、見る角度によって極光のように色揺らめいていた。

 しかし、何より奇抜なのは、その髪が今、ひとりでにツインテールを結っている事である。

「丁度よかった、リオン君。やはり君の予言は当たったよ。何やら事が動き始めたようだ」

 自室に潜んでいた只ならぬ少女に対し、昭吾は何の不信感も無い様子である。

「…………。昭吾さん。他人《ひと》の恋愛にケチを付けるつもりは無いが……その歳で未成年の少女に手を出すのは、色々と不味くないか……? 深七の事もある」

 命弥は気不味そうな面持ちで目を逸らし、勝手な憶測で昭吾を諌めた。

「違うよ……。まず、相野君。此方《こなた》は創世士として世界の挙動を感知しただけで、これは予知じゃない。それとそこの青年。外界侵食系『根源』の叡智をその身に宿す者だよね。命弥君、でいいかな? 此方と相野君の間に愛執や恋慕といった感情は無い。単なる協力関係だよ」

 と、律儀に説明する少女だが、座面に足を伸ばしたまま、誰にも顔を向けていない。

「そうそう。協力関係さ。世界の崩壊を止める為のね……。とは言え、単なるとは酷いなぁ。友人だとか、同志だとか、他にも言いようがあるだろうに……」

 昭吾は常軌を逸した主張をさらりと済ませ、リオンの淡白な物言いに苦笑している。

「…………。昭吾さん。彼女が言っている事もよく分からないが……少女の戯言を真に受けたおっさんの譫言《うわごと》を、人はどう思う? そうだ。色々と辛い。分かるよな。深七の事もある」

 命弥は穏やかな口調でそう説得するが、飽くまで反論の余地を与えない姿勢である。

 ただ、少女の明らかな特異性を目の当たりにしながらも、その本人や昭吾の言い分を一様に聞き捨てる命弥の態度には、それ相応の不自然さがあった。

「命弥君。疑いは尤もだけど……娘を人質のように引き合いに出すのは、やめてくれる?」

 昭吾は切なげな顔で諭すようにそう言った。

「あまり信用が無いみたいだね、相野君……あ、それとも、此方みたいな人類とかこういう話自体が其方にとっては突飛過ぎたのかな? 確かに其方は殆ど地球人みたいなものだからね。じゃあ、これならどうかなぁ?」

 少女はそう言うと、両手を皿のようにして前へ出した。

 すると、その両手から三十センチ上方の虚空一点に、部屋中の光が瞬く間に吸い寄せられ、同時に教授室全体はサッと暗がりに包まれる。そして、一点に集まってゆくその光はみるみるうちに嵩を増し、サッカーボール程の球体となって少女の手の上に浮かんでいた。

 光の球は尚もその光束を強めるが、それに見合わず、周囲には二十ルクス程度の明るさしか及ぼしていない。

 その一連の現象を見て、命弥が動揺するのは勿論の事、昭吾も困った表情を浮かべていた。

「あー違う違う、リオン君。さっきの話、ちゃんと聞いていたのかい? 別に彼はそういう事に理解が無いわけではなくて、関わりたくないから常識人のポーズを取っているだけなのさ。だから、そのレーザー球はお外でやろうね」

 昭吾は少し慌てた口調で少女の行為を制止する。

 それを聞いた少女が飄々とした様子で「そう」と応えると、部屋は一瞬にして明るさを取り戻し、光の球は徐々に薄く小さくなって消えてゆく。

「無茶苦茶だな…………。ポーズと言うが、昭吾さん。俺が実際に怪異を目にした回数なんざ高が知れている。幼少の頃の事件と、昼間の女。そして、そこにいる素っ頓狂な少女だけだ。まして、世界の崩壊なんて言う最大級に漠然とした話、矢庭に聞かされたところでなぁ」

 命弥は呆れたようにそう言って、わざとらしく肩を竦める。

「まぁいいよ。此方も本当は、世界を救える自信なんか無い。ただそういう役割に当たってしまったってだけ……それは其方も同じだよ、命弥君。どうせこれから否応無く異変に関わって事実を知る事になる。だから信じる必要なんてない。でも、聞きたい事があるなら答えるよ。此方が知っている事ならね」

 少女は涼しげな顔でそう言った。

「妙にスカした子供だな……。それ以前にまず、お前は誰だ」

 命弥は怪訝そうに眉を歪め、ぶっきら棒にそう尋ねる。

「や、此方は子供じゃぁ……まぁいっか。リオン・ユーティリー。ホセネという星界の人類。其方たちの観念で言うところの異星人だよ。よろしくね」

 そう自己紹介したリオンは、愛想の良い微笑みを浮かべている。

 しかし、命弥の立っている位置からでは、その顔が殆ど見えていなかった。

「…………。お前が宇宙人だと言うのも突飛な話だが……これから宜しくしようと言う相手に一ミリたりとも顔を向けたがらないのは、お前の星の作法なのか?」

 命弥は不快というよりも、不可解そうに眉根を寄せた。

「それは…………ごめんね……此方には其方を直視する事ができないんだよ。意識でもしない限り『有』としての個々の存在性なんて普段は見えないものなんだけど、其方は別格だった。下手をすれば精神が崩壊するかも知れないから────」

 リオンは深刻そうな面持ちでそう話す。

「何だ? やはり俺は喧嘩を売られているのか?」

 と、命弥は訝しげな顔を更に引き攣らせていた。

「いや……説明させて貰うけど、いい? 人は物事を概念化したり、細分化して認識する事でより明瞭に世界を捉え、更にその構造や因果を解析する。でも実際には、個々を纏めた全てが世界と言うよりも、一つの『有』という事象と、その変化が、世界という様相を成している。個々というものは飽くまで、自我や観念に依って生じていると言えるよね? 勿論、此方にも主観はあるけど、全ての無線神経を通して『有』の様態が感知できるんだよ。それが視覚等を介すると、その焦点に世界の繋がりが集約され、『有』の側面としての対象の存在性が──」

 リオンは誤解を解くのに夢中なのか、命弥の理解も待たず、延々と説明を続けようとする。

「もういい、分かった…………いや、分からんが…………」

 辟易した命弥がリオンの釈明を制止すると、ぎこちない空気だけがこの場に溜まってゆく。

 すると、調子の噛み合わない二人を見兼ねた様子で、昭吾が軽い咳払いをした。

「やれやれだよ、このコミュ障どもは、落ち着きたまえ。リオン君に悪意は無い。今はそれで十分だろう。細かい事情は追々話すから、命弥君は先ず、現状を把握する為に必要な事だけを聞いてくれよ」

 世話が焼けると言いたげに、昭吾は二人の会話を取り持つ。

「その言いようには納得いかないが……まぁ、俺自身も実際、アンタらの言う事を疑える程、まともな人間じゃないしな。取り敢えず聞くだけは聞くが、俺に一体何をさせたい」

 一方的な言い分に眉を顰めつつも、命弥は不満を呑み込んでリオンに質問する。

「させたい……? う〜ん…………創世士を見つけて欲しい、かな」

 リオンは命弥の言葉に小首を傾げ、少し悩むと、その場の思い付きのように答えを返した。

「それ自体よく分からんが……そもそも、それはさっきお前の事だと語っていなかったか?」

 命弥は怪訝そうに確認する。

「そうだよ。摂理を移行させる内界。それが同時に二人もいるなんて前代未聞なんだけど……存在を保とうとする『有』の反作用かな。崩壊の渦は既に二つできているから────」

 リオンはソファーに伸ばしていた足を下ろし、やや深刻な面持ちでテーブルに肘をついた。

「そう言われてもな……。何よりもまず。こっちはその、崩壊というのにピンと来ない」

 話を聞くとは言ったものの、命弥は懐疑的な姿勢を崩さない。

「予兆なんてそんなものだよ。見て取れる時にはもう、目の前に結果があるって事だからね。此方の星界のように……。起因や現象は概念化されてこそ判別できる問題だから、実際に調査や比較をする必要がある。此方はただ、世界《うちゅう》の流動が示す方向性を感知しただけ────」

 散らかったテーブルの上で顎杖をつきながら、冷静にそう語る、リオン。

 しかし、空《くう》に揺蕩う極光を遠く見つめるようなその瞳からは、仄かに愁いが感じられる。

「そうだな……目に映るものが全てだと思うのは、俺の浅はかな了見だった。だが、人探しは別だ。創世士がどんなものか、俺は知らない。同類のお前が探した方が合理的だと思うが?」

 自身の浅慮な態度を反省する命弥であったが、リオンの語る『創世士』やら『崩壊』やらといった話の概要そのものには、依然として腑に落ちた様子でもなかった。

 それに対してリオンは、困るでも焦るでもなく、諦念めいた苦笑を浮かべる。

「創世士である事に特有の性質はないから、此方にも人物の特定まではできないんだよ……。創世士は『有』を確固たるものにする為の変化を促す仕組み。世界の意識的な役割を、便宜上担うものでしかない……。まぁ、その機能の一端を利用すれば、世界の変容を大まかには感知できるけど、基本は一般のホセネ人と変わらないんだよ。人並み以上なのは光学くらいかな」

 リオンは心苦しそうな表情を浮かべながらも、すっかり匙を投げているようであった。

 そんなリオンの調子を見て、命弥は呆れたような顔をしていた。

「要するに、何だ。お前にも知る術が何も無いって事か? なら、俺には尚更判らないだろう…………まさか……俺を視認できないヤツを虱潰しに確かめろ、だとか言わないだろうな」

 命弥はそう言って、迷惑そうに眉を顰める。

「まさか……。其方は今まで通り、相野君から言われている事を続けてくればいいよ。新たに発生した創世士は、多分ホセネの人間じゃない。此方と同じ基準では判断できないと思うよ。ん〜、だからね。特に其方が何かを起こす必要はないんだよ。それは言ったはずだけど……」

 リオンはそう言って、命弥の大きな勘違いに困ったような微笑みを浮かべた。

 詰まるところ、これまでの問答は最初から、命弥を働かせる為の説得などではなく、命弥が置かれている状況を、命弥本人に理解させる為の解説でしかなかったのである。

「否応なく関わるってやつか…………そう言えば、その理由をまだ聞いていなかったな」

 先程よりは少し聞く耳を持った表情で、命弥はそう問い掛ける。

「それはね。其方も創世士同様、世界の行方を指し示す羅針盤だからだよ。其方が遺伝の末に収得した『根源』の叡智は、提示された世界の在り方を裁定する最後の秤…………少なくとも此方はそう捉えてる。でも、だからこそ、その理は決して実証してはいけない。そうなれば、其方は世界を飲み込む収束の穴と化し、全ての差異ある物事は虚無へと回帰する」

 どこか憐れみを含んだような表情でリオンはそう告げる。

 それは傍から聞けば、荒唐無稽で突拍子もない単なる言い掛かりのような内容であった。

 しかし、当の命弥には何かしら思い当たる節あるようで、リオンの放った意味不明な文言に怒りも笑いもせず、ただ仔細ありげに視線を落とすと、今までの話を熟慮するように顎に手を当てて沈黙した。

 この場に居る全員が三者三様に黙り込み、静まり返った部屋に重たい空気が満ちてゆく。

 そう思われたが、命弥が意を決するまでにそう時間は掛からなかった。

「────分かった。留意しよう。世界やら宇宙やら話の規模は馬鹿げているが、最後の文言だけは妙に腑に落ちた。少なくともお前は、俺に潜在する何かを知っているようだ」

 命弥は淡々とそう言うが、その口振りはどこか、お縄に掛かった咎人のようでもあった。

 そんな命弥の返答に、昭吾は良くも悪くも気が抜けた様子で息を吐く。

「やれやれ。そこで腑に落ちてしまうのかい、君は…………。ともあれ、これからの君には、もう少し周囲に対して友好的に接する事を勧めるよ。何せ結局のところ、肝心な創世士の特定自体は極めて厳しい状況だ。迂闊に喧嘩して、仲違いになるのだけは避けたいからね」

 昭吾は場を和ませるように命弥を揶揄った。

 すると、リオンは調子外れにも感慨深そうな顔をして唸る。

「なるほど……。ホセネでは見解の不一致で対立する事は稀にあっても、感情的な啀み合いはあまり無いからね。気が回らなかったよ……。今回の女性はどう? いい仲になれそう?」

 昭吾の冗談混じりな意見を間に受けたリオンは、無垢な表情で命弥《おとこ》と女の相性を尋ねた。

 その素っ頓狂な言動に昭吾が失笑し、リオンは訳も分からず愛想笑いを浮かべている。

 しかし、命弥の表情だけは何やら少し強張っている。

「豊崎彩葉(いろは)……どこか胡散臭い女だが、一応この大学に在籍しているのは事実らしい…………だが……まぁ、はっきり言って…………もう二度と会う事は無いかも知れない」

 命弥は場都の悪そうな表情を浮かべながら二人にそう告げた。

 ECRに豊崎彩葉という女性が訪れたのは、今から五時間程遡って昼一時頃の事である。

 室内のあらゆる物が粒状の光を放ちながら、じわりじわりとミクロのペースで蝕まれゆく。

 その不条理な状況を前にして、命弥は深い溜息を吐いた後にこうぼやいた。

「気の利いた廃品置き場だと思っていたが……そうか…………とうとう出たか────」

 命弥は入口枠に肘を付いたまま、垂れ下がる頭をその腕で支えた。

 それまで他の物音には何一つ反応を示さなかった豊崎彩葉であるが、その悪口だけは偶々耳に届いたのか、祈るように組んだ手をそのままにハッと顔を上げる。

 すると同時に、ECRに立ち込めていた奇妙な現象も、霧が晴れるようにパタリと止んだ。

「えっ…………? 今、何と言いました?」

 彩葉は驚いた表情をしているものの、慌てた風は無く、命弥の発言を冷静に聞き返した。

 鬱々と俯いていた命弥は、不意に彩葉から声を掛けられ、のそっと顔を上げる。

「ん……? ああ………………いや、何も」

 命弥は多少思考を巡らせた様子であったが、結局は御座成りな返答でお茶を濁した。

「いえ。言いました。私の事を、あたかも幽霊や妖怪を指すような言葉で『出たか』と」

 彩葉は邪念の無い顔で淡々とそう主張する。

「そうか?」

 命弥は平然とした顔で白を切る。

「はい。言いました。余所者を忌み嫌う原住民かの如く『この村から立ち去れ』と」

「いや。それは言ってない」

 およそ乗りと弾みだけで付け加えたのであろう、彩葉の意味不明な難癖に対し、きっぱりと否定する命弥の表情は、最早失言した事への後ろめたさすらも忘れたかのように冷めていた。

「覚えているじゃないですか……」

 洒落が大滑りして気恥ずかしくなったのか、不服を言う彩葉の声は小さい。

「こんな廃墟で陰気に呟く長髪の女を見れば、大抵それは幽霊と言っても過言じゃないだろ。寧ろ、さっきの部屋の状況から見て、お前はその最上級に位置するな」

 開き直る命弥だが、少しだけ彩葉に気を利かせたのか、主張が冗談めいている。

「なるほど。幽霊の最上級。つまり私が、御仏の如く尊い存在に見えたと…………マルです」

 彩葉は真剣な顔で相槌を打つと、命弥の言葉を独自の解釈で受け止めて満悦の様子である。

「…………頼む。用が無いのなら帰ってくれ」

 命弥は彩葉の顔をじっと見つめた後、神妙な態度で頭を下げ、彩葉にお引き取りを願った。

「せ、切実ですね…………。でも……私だってそう簡単には──────」

 唐突に態度を変えた命弥に戸惑いつつも、彩葉は引き下がる気配を見せず、微かな声で何か言いながら目を伏せた。

 超常的な厄介事を殊嫌厭する命弥であったが、彩葉の深刻そうな表情を見つめると、諦めたように溜息を吐いた。

「何か悩みがあるのなら相談には乗ってやるが……? そう言えばお前、これで終わりにするだとか言っていたな。まさかとは思うが、首でも吊るつもりだったのか────?」

 もしそうだとすれば下らない。命弥はそう言いたげな口調で彩葉に問い掛ける。

「────。さぁ、どうでしょう。貴方に教える必要、ありますか?」

 反発的な返答をする彩葉だが、その声は穏やかで、どこか寂しげでもあった。

「そうだな……。なら、とっとと帰れ。紛いなりにも、ここは俺の仕事場だ」

 命弥は面倒臭そうに素気無い言葉で彩葉を追い払う。

「では、こうします。私がお客さんになるので、貴方にはそのまま仕事をして頂きましょう」

 彩葉は命弥の意見など聞いていないかのように、飄々とした態度で勝手に話を仕切り始め、名案とばかりに都合のいい方向に話を展開させた。

「お前はここが何をする部屋なのか知っているのか?」

 命弥は怪訝そうな表情でそう言った。

「ええ。ですので相談です。もし、私が自殺をするとして、それは悪い事なのでしょうか」

 臆面もなく相談を持ち掛ける彩葉だが、言い方はまるで議論を仕掛けるかのようであった。

「知らん……。残念ながらここは、ものの良し悪しや道徳を究める場所では無いのでな……。大体、そんな大層なものを俺のようなクズに決められた日には、世間様も迷惑ってものだ」

 命弥はそう言いながら、彩葉の座るソファーを通り過ぎ、デスクの椅子に腰を下ろした。

「え…………。だってここは、Ethics《エシックス》・Counseling《カウンセリング》・Room《ルーム》ですよね? 悩める人を倫理学の観点から相談援助する。そうゆう場所なんですよねぇ?!」

 狐に摘まれたような顔になりつつも、彩葉は焦ったようにそう確認する。

「違うな。厳密には、来談者の認識や観念、偏見等を解体し、悩みの核心と向き合いながら、当人が真に最適だと思える道を改めて整合していく。そういった志向の相談室だ」

 命弥は淡々とした口調でそう言った。

「大体同じじゃ無いですか!」

 一見屁理屈にも思える命弥の訂正に、彩葉は突っ込みを入れた。

「お前が捉え違いをしているから違うと言ったんだ。この部屋は各々にとっての合理的な答えを突き詰める場でしかない。求めるのは当人が思う良し悪しであり、その肯否や選択もまた、当人が決める事だ。つまり、普遍的な良し悪しについて断じる場ではない。まぁ、何にせよ。事情も知らない俺に応えられる事は何も無い」

 命弥は背凭れに体を預け、無気力にそう告げた。

「あのー、関わりたくないからって、わざとやっていませんかぁ?」

 と、彩葉は疑いの眼差しを命弥に向けた。

「否定はしないが、まず前提として言って置こう。ここは飽くまでカウンセリングルームだ。倫理学講座でもなければ討論会でもない」

 命弥は煩わしげに道理を説き、彩葉との問答を拒む。

「だからぁ……そこは普通、私の質問に相談の趣意があると考えますよねぇ」

 彩葉は苛立ちを含んだ声でそう言った。

「ああ。だがそもそも、どうして話を迂曲させる? 悩みがあるのなら、事情を話せばいい。詮索されたくないのなら、立ち去ればいい。そのどちらも取らず、何故お前はここに居座ろうとする?」

 命弥は冷静に彩葉の言動の不整合性を突き詰める。

「それは────」

 彩葉が口籠もる。

「第一、自殺は手段でしかない。動機や目的が分からない以上、良いも悪いも言及できない。不毛な行為である事だけは明らかだがな……。単刀直入に言おう。お前の言動は不審過ぎる」

 依然として無気力な姿勢で話す命弥だが、その目はしっかりと彩葉を見据えていた。

「不審って、そんな…………じ、事情を話すにしたって、段階とか、話の流れが────」

 彩葉は言葉を詰まらせ、弱々しく言い訳を重ねる。

「ならばこちらも段階を踏ませて貰おう。お前は最初、ここで何をしていた?」

 気怠そうに頬杖をついた命弥は、彩葉の言い分を逆手に取り、根本的な不審点を追及する。

「………………解放です……」

 命弥の疑問に答えたつもりなのか、彩葉は独り言のようにぼそりとそう言った。

「は…………?」

 彩葉の放った唐突な一語に理解が及ばず、命弥は眉を顰めてその意味を聞き返す。

「些末な事です」

「おい────」

 けろっとした顔で強引に話を打ち切った彩葉に、命弥は不満げな低い声を掛ける。

 言うまでもない不満を敢えて言葉にはしない命弥であったが、彩葉は発言の隙を突くようにさっとソファーから立ち上がった。

「ミステリアスな出会いにトキメキませんか? 危うきに近寄らずですか? 男色家ですか?中二病ですか? 私だったから良いものの、あまりつれない態度ばかり取っていると、女の子に嫌われちゃいますよ? バツですよ、バツ!!」

 彩葉はそう捲し立てながら命弥に迫り、デスクの上に手をつくと、子供を嗜めるかのように人差し指を立てた。

「何がバツだ。馬鹿馬鹿しい。冷やかしなら帰れ。そうで無くても、なるべく帰れ」

 命弥は額の前に突き出された彩葉の手を退け、冷めた口調でそう言った。

「ふぅ〜ん……でも、そんなに私の事が煩わしいのなら、質問に答えた方が早いのではないでしょうか。答えが無いからってはぐらかしているだけではありませんか? そうですよね? なぁ〜んだ。所詮は弁を弄するだけですかぁ。これだから文系は軽視されるんですよ」

 彩葉はデスクの前から離れつつも、命弥の視界に入る一番近い棚の方へ寄り、哲学書の並ぶ一角に手を伸ばすと、本の角を一冊ずつ指で引っ張りながら、分かり易く反感を煽っている。

「安い挑発だな。答えなら出ている。理解力が無い故の偏見か。傲慢さ故の先入観か。自身でよく考えもせず、既成概念に囚われ、先人の積み上げた智恵を笠に着る事しかできないくせ、他人の思想や見解にはケチを付けたがる。そう言った虚栄心の権化をよく目にするが、そんなものは理系文系以前に、単なる科学教の信仰者でしかないと思うが?」

 涼しげな顔でそう論じる命弥だが、口数と嫌味の長ったらしさからして、心中穏やかでない事は明白である。

「そ、それ、私の事を言ってるんだとしたら、流石に言い過ぎじゃないですかねぇ!?」

 意図した結果とは言え、あまりに辛辣な皮肉の応酬に、彩葉は狼狽えながら抗議する。

「存在の問いを始めれば、万物万象に対して人間の追究し得る根拠なんて、常に暫定的なものでしかない事が分かる。聡明な者ほど世界の不確かさを知っていると言う事だ」

 命弥は勝ち誇ったような澄まし顔でそう言った。

「確かにそうですが……結局、貴方に答が無い事を正当化しているだけのように聞こえます」

 彩葉は拗ねたように言い返す。

「一方的に押し掛けてその言い草か……。俺はただ、迂闊な事を言いたくないだけだ。そも、俺にその命題を解く義理は無いし、正当化する必要も無い。寧ろここで言いたいのは──」

 命弥は頭を抱え、うんざりとした表情で弁明するが、その手間は途中で省かれた。

「己の無知を知ろうともせず物事を推し量る輩は、己が優位性を誇示したいだけの能無しだ。膨れ上がった自尊心を守る事に精一杯で、自分で自分の答えすら探せなくなったのか、と」

 命弥の言わんとする事を淡々と言い当てる、彩葉。

「あ、ああ。そう言う事だ……」

 彩葉の解釈が余程適確だったのか、命弥は些か気圧されたようにそれを肯定する。

「無知を知らない……ですか……。皮肉な言葉ですね。そのままお返ししたいくらいです」

 呟くようにそう言う彩葉には、これまでには何となくあった陽気さが消えていた。

「堂々巡りで話にならん……。こちらはその無知を補う為に事情を尋ねていたのだが……?」

 彩葉の天邪鬼ぶりに辟易した様子を見せながらも、命弥は冷静な答えを返す。

「結局……何をどうしても、貴方の気持ちは変わらないと言う事ですね」

 彩葉は虚げに視線を落としてそう言った。

「当然だ。生きるか死ぬかの悩みに、何も知らない赤の他人が口を出す方がどうかしている。たとえお前が納得したとしても、俺が俺の言葉に後悔する。そんなものは御免だ」

 命弥はそう言って、彩葉に背を向けるように視線を逸らした。

「そうですよね。いえ、いいんです。それを確かめる為にここに来たんですから…………でも…………でも、酷いなぁ。今回は気にも留めて貰えなかった。私、何か間違えましたかねぇ」

 彩葉は掠れた弱々しい声で独り言のようにそう言った。

「悪いが、言っている意味が分からない」

 命弥は少し振り返り、横目で彩葉の顔を覗いた。

「それでいいんです……決めていたんです……分かっていたんです…………なのに────」

 そう言う彩葉の頬には、部屋の灯りを反射した一筋の濡れ跡がうっすらと浮かんでいた。

「ま……待て。勘違いするな。俺はなにも、お前を困らせる為に対応を拒んだわけでは無い。相談に乗る以上、俺にも責任が生じる。要は、悩みがあるなら率直に話せという事で……」

 命弥は彩葉の涙に当惑しつつも、平静を装うようにこれまでの対応を釈明する。

 しかし、どれだけ理屈を並べたところで、一度流れ始めた涙が急に止まるはずもなかった。

 眉根も口元も歪めない彩葉の泣き顔は、薄く罅割れたグラスようで、目元に小さく湧き出た水滴が滲むように少しずつ頬を伝い、顎先からポロポロと滴り落ちる。

「違うんです……。分かっているんです……。悪いのは私で、間違えたのは私で……私は……自分の足元も見えずに、人の心を踏みにじって……自分勝手な事ばかり繰り返して────」

 彩葉は少し顔を伏せながら、何か自身に言い聞かせるようにそう言った。

「わ、分かった。取り敢えず何が言いたいのか、順序立てて説明してくれ」

 命弥は冷静ぶった口振りで彩葉を宥めようとする。

 しかし、その声に顔を上げた彩葉の表情は、切なげながらどこかさっぱりとしていた。

「簡単な事ですよ、命弥君。ここに来る資格なんて、私には初めから無かったって事です」

 爽やかな微笑みでそう言うと、彩葉は短く一礼して部屋の出口へと歩き出す。

 その背中を命弥はただ茫然と見送る事しかできず、重たげに閉まったドアの余情から後味の悪い静けさが立ち込めると、命弥はデスクに肘を立てて俯き、煩うように頭を掻きむしった。

 以上、それらのやり取りが豊崎彩葉との出会いの全容である。

 命弥はECRで起こったその出来事をできるだけ忠実に昭吾とリオンに語った。

 すると、それを聞いた二人は難しそうな顔で腕を組み、何か苦慮するように小さく唸ると、口を揃えて喋り出した。

「なるほどぉ…………最低の甲斐性無しだね」

 旧知という程の仲でもなさそうな昭吾とリオンであるが、今この瞬間ばかりは心がピッタリと重なったようである。

「妙なところで宇宙規模の同調性を見せるな。態度に問題があった事は認めるが、別に間違った事は言っていないだろう」

 命弥はそう言って腕を組み、居心地が悪そうに二人から視線を外した。

「間違えたくないから何もしなかった、ではないのかな……? どう思うかね、リオン君」

 昭吾は核心を突くような事をサラッと言いつつ、ティーセットが並んだ食器棚の方へと足を向けると、背中越しに軽い口調でリオンへ話を振った。

「意地悪だと思う。相野君が……。でもまぁ、そうだね。此方も命弥君も同じかも知れない。傷付きたくない、傷付けたくないからと言って、結局はただ問題から逃げ続けているだけ……そう言いたいんでしょ?」

 何故か自分が責められているかのように返答する、リオン。

 それらの言葉に何を思うのか。命弥は伏し目のまま、席を立った昭吾の方へ視線を移した。

 当然、その視線の先に見えるものは、素知らぬ顔でコーヒーブレイクの準備に取り掛かる、とぼけた中年オヤジの後ろ姿だけである。

 呆れるほど飄々としたその背中を見て、命弥は何がしか諦念を抱いたように瞼を閉じると、気怠そうに薄い溜息を吐いた。

「お前……いや、リオンだったな。昭吾さんとの関係性は今一分からんが、今後関わっていくなら気を付けた方がいい。このオヤジは知らぬ間に善意を押し付けて来るタイプの人間だ」

 うんざりした口調でリオンにそう告げる命弥であったが、その物憂そうな表情には心なしか腹を据えたような気概があった。

「そんな事よりもだ。話を聞く分に、これが命弥君を隔離する実験だとすれば、概ね大成功と言っていいんじゃないかな。彼女が創世士である根拠は無いけれど、成果としては上々だ」

 再び自身のデスクに戻った昭吾は、ホットコーヒーを一口啜ると、何事も無かったかのように話を本題へ移そうとする。

 そんなインスタントな話題転換と大雑把なものの言い方は、この繊細で辛気臭い空気を吹き飛ばす起爆剤としては意外にも効果的であった。

「その言い方はやめてくれないかな。此方まで神経を疑われてしまうよ」

 リオンはそう言いながら顔を引き攣らせる。

「薄々気付いていた事だ、今更どうでもいい…………それで……?」

 命弥は不愉快そうに眉を顰めつつも、冷静に現況の説明を催促する。

「探偵君の読みはあながち間違ではないのかも、といったところかな、はは……。リオン君が説明したじゃないか。僕達もまだ何も分からないんだ。ましてや、地球人が統界《とうかい》性感覚機構を覚醒させるなんて予想外だったよ……。しかし、その子が創世士なら或いは────」

 昭吾は弱った調子でそう返答する。

「どうかなぁ。確かに創世士なら無線神経系が自動でアクティブ化されるのには頷けるけど、『境界』を使うには外界へ信号を送る知能も必要になる。もしも彼女が自力でその能力に覚醒したのだとすれば、創世士とか関係なく、そもそも彼女自身に『境界』を扱えるポテンシャルがあったって事にならない? 若しくは全部、崩壊の渦による影響だとか……。まぁ何にしても、此方らは今、異変の渦中に居るって事。『境界』の有無は当てにし過ぎない方がいいよ」

 リオンは昭吾の考えを否定し切らないまでも楽観的にはなれない様子であった。

「トウカイやらキョウカイやら、何の事だかさっぱり分からんな…………。しかし、リオン。俺はここ一年、殆ど他人との関わりを持っていない。つまり、俺と創世士が否応無しに関わるというお前の説が正しいのなら、豊崎の件はまさに、その状況に該当するんじゃないのか?」

 込み入った話には付いて行けないものの、命弥は自身の所感から素朴に疑問を投げ掛けた。

 その命弥の見解に対して、昭吾は頷きつつも複雑な表情を浮かべていた。

「うん。ここまで顕著に反応を示されると、僕も希望的に捉えたくなる。少なくとも候補ではあるはずさ。けれど実際、リオン君の言う事も尤もなんだ…………」

 昭吾は論拠の乏しさに気付いていた様子でそう言う。

「豊崎彩葉の動向が世界の異変に関係しているのは確かだよ。だけど、彼女が創世士なのか、別の案件なのかは何とも……。例えばね。この世界が均衡を保つ事で成立する、留め具の無い天秤のようなものだとすると、其方はその支点に位置する者なんだ。左右で釣り合う物を同時に移し合うのが基本的な変化なら、比重の偏りを補うように天秤棒がズレるのが『異変』で、支点に座す者は必然的にあらゆる干渉を受ける。言わば、必定の受動的観測者なんだよ」

 リオンは天秤の代わりに、ペットボトル、定規、消しゴムを使い、命弥の状況を解説した。

「要は、俺が極度の巻き込まれ体質で、異変のどの部分に関わっているかまでは特定できないと…………なら結局、俺を使って得られた成果というのは何だ? あの異能の事か?」

 会話の流れに焦ったさを感じた様子の命弥は、複数の疑問を一遍に呈示する。

「それもある。しかし、その前にいいかい、命弥君。境界は異能ではない。人類の極致が誇る知能と感能。即ち、個々に備わる特殊性ではなく、生命に潜在する普遍的な可能性なのさ」

 昭吾は命弥からの質問を脇に置き、重要な事のようにそう指摘をした。

「確かに多少の語弊はあったけど、今は本題から説明した方がいいかな。これは相野君の推論なんだけどね。結論から言うと、この星にある崩壊の因子は、人の思考や情緒にとある一定の働きを与えているようなんだ。そして、それが及ぼす作用は────」

 話が脱線する事を見兼ねたリオンは、昭吾の推論を代弁するが、自身の考えではない故か、明確な解までは言い切らず、後は言わずもがなと言うように、その答えを命弥に任せた。

「希死念慮……か──────」

 これまでの話の流れを鑑みて、すんなりと昭吾達の見解を察した命弥であったが、心なしか釈然としない様子でもあった。

「そう……世界の崩壊なんていう宇宙規模の話は、自然現象で考えると埒が明かないのでね。差し当たり人間社会に焦点を絞ってみたんだ。取り分け、出生や死亡、失踪等の比率や変動、原因を見比べたりしてね。そこで目に付いたのが自死率だ。日本でも近年になって取り上げられているだろう? 15年以上も安定していたものが、ここ2年程で急増している」

 昭吾はデスクの引き出しから薄いファイルを取ると、命弥の足元へ軽く投げた。

「ただ、それは地球に於いての話で、その他の星界の状況を考えると多々疑問は残るね」

 リオンは賛否曖昧な調子でそう付け加える。

「そもそも。そんなものは単なる社会現象だ。事態の深刻さはともかく、奇異な事ではない。過去にもそんな傾向の例は幾らでもあるだろう。異変とやらがいつ始まった事かは知らんが、こじ付けにすらならない。流石に宇宙規模の崩壊に結び付けるのは飛躍し過ぎていないか?」

 命弥はそう異論を唱えつつも、足元のファイルに手を伸ばし、中の資料に目を通す。

「その通りだ。皮肉な事に、問題そのものは長期的に見れば珍しくもない。常、人の愚かさや侭ならなさは、そう容易に改善するものではないからね────。だからこそ、僕は違和感を覚えたのさ。まるで自死率の悪化を補うように減少する、殺人や傷害の発生率にね」

 昭吾はそう言うと、どうぞというような手振りをして、資料の確認を奨めた。

 調査結果を睨むようにして確かめる命弥は、不服とも納得ともつかない表情でいる。

「此方も一先ずはその線で考える事にしたよ。何せ此方の直観だと漠然とし過ぎてるからね。でも、相野君。どこぞの軍関係者から聞いた話はしなくていいの? 統計的な比率だけで話を進めるより、そっちの方が真に迫ると思うけど────」

 リオンはそう言って、何か含みのある視線を昭吾に向けた。

 その提言に昭吾が弱った笑みを浮かべていると、命弥は訳知り顔で目を伏した。

「昭吾さんの知識や研究成果はその大部分が公表されていない。要は、それだけ繊細な問題を抱えているという事だ。誤解を生むような発言はしない方がいい…………だが────」

 命弥は昭吾の立場を気遣いつつも、もう手遅れだと言わんばかりの視線を本人に向ける。

「いいとも。僕の技術の事なら勘のいい連中には気付かれているし、会議でも度々突かれる。今回のはそこで拾った話だ。僕の懸念点は寧ろ、君に変な深読みをされてしまう事さ」

 昭吾は清々しげにそう言った。

「やれやれ……其方らは妙な関係だね。信頼が有るのに、信用は無いんだから」

 リオンはそう軽口を叩きながらソファーに凭れ掛かる。

「そういう事だったか…………すまない……」

 命弥は自身の厄介な性分を恥じるようにぼそりと詫びた。

「ああ。返す言葉も無い……。さて……話の流れから大体の予想は付くだろうから、ざっくり言ってしまうけれど、僕の調査結果を如実に表したような場所がある。ズバリ、紛争地域だ。戦況の優劣や、交戦中、停戦中を問わず、何処も異様なパニック状態だ……。分かるかね? 誰も彼もが他人《ひと》殺しをやめて、自分殺しに御執心というわけさ」

 昭吾は遣る瀬なさそうに口の端を吊り上げ、異状も平常も殺伐とした人間の性《さが》を揶揄する。

「要は、殺意の逆行……ううん、幻覚や洗脳の可能性もある。この異状が作為か、無作為か。発症は他動的か、自動的か。今は何も分からない。だから、其方がす(・)べ(・)き(・)事は────」

 リオンは深刻な表情で現況を語ると、末尾に何か言い欠けてそれをやめた。

「創世士を見つけ出す事。それはもう了承した。だが、先程話した通り状況は最悪だ…………まぁ……豊崎彩葉がもう一度あの部屋に来る可能性もゼロではないんだが────」

 釘を刺されたと思ったのか、命弥は渋い表情でそう返答する。

 そして、ジャッケットのサイドポケットから二つ折りのパスケースを取り出すと、交通系のICカードが入った内面を広げ、悲観的な所作でリオンと昭吾達にそれを見せた。

「懐事情にもよるねぇ………………そうだ、丁度良い。君がダメなら助手を手配しよう」

 昭吾は思案顔でコーヒーを一服挟むと、急に論点から外れたような事を言い出した。

「いや……趣旨を説明してくれ……」

 突拍子も無い昭吾の提案に戸惑い、命弥は訝しげに昭吾の考えを問う。

 そんな命弥に対して、昭吾はただ潔白振った微笑みを返すだけで何も喋らない。胡散臭さを感じた命弥は繰り返し説明を要求するが、昭吾は「まぁまぁ」とお茶を濁すばかりである。

 そうして、身内同士の滑稽なやり取りが繰り広げられる中。

 リオンは独りソファーに横たわり、自身が言い欠けた言葉の続きを憂いげに呟いていた。

「創世士と共に歩み、この世界を崩壊とは別の答えに導く事…………なんて、無茶を言っても仕方ないよね。それがどういう事なのか、此方にも分からないんだから──────」

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