プロローグ
どうして、こんなにも単純な事に気が付かなかったのでしょうか。
結局のところ、何度別のやり方を試そうとも、一見そうしたように思えても、世界は一つの地続きで、物事の様相を表層的に捏ねくり回したところで、本質的な欠陥は何も変わらない。
答えは同じ地点に収束するのです。
色々と考えて、探りを入れて、挑戦して。
少し分かってきた事もあれば、未だにハッキリしない事もあって。
けれど、運命の流動からしてみれば、そんな努力は瑣末な悪足掻きで、私のやっていた事は虚しい独り相撲でしかありませんでした。
何よりも、まず一つ、取り返しの付かない失敗があるのです。
いえ、失敗というのも烏滸がましいのでしょう。
臆病者の罪。卑怯者の咎。愚か者の過ち。
そう言った方がしっくりくるのかも知れません。
何故なら、その失敗が示唆する事こそが、私の欠陥であり、この物語の本質なのですから。
どうりで上手くいかないわけです。
たとえ、あの時点からやり直せたとしても、こんな私が、こんな私にそぐわない正しい行動を選び直せたとしても、それはただ問題を先送りにするだけの行為にしかならず、この物語の大局は、やはり何も変わらないのでしょう。
それでも。分かっていても。どうしても。
一度始めたからには、簡単には諦められないというものです。
例えば、そう。
貴方はいつものように、薄暗い廃墟のような部室の奥で、古寂びたデスクに浅く腰を掛け、黙々と読書に耽っています。
そして、部屋の中央にある応接セットの方では、顔馴染みの婦女が一人、ぽつんとソファーに座り、貴方の対応を待ち侘びているとしましょう。
貴方はそんな婦女の様子を全くもって気にも留めない。
そういったような素振りを暫く続けた後、徐に口を開きます。
「今度はまた、何を企んでいるんだ、お前は…………。何度も言うが、ここは相談援助の……いや、更生援助とでも言うべきか……兎に角、そう言った場だ。いくら俺が暇だと言っても、無関係な人間を招いて談笑するなんて、体裁が悪過ぎる。用がないならお引き取り願おう」
貴方はお得意の顰めっ面でそう文句を言い、顔馴染みの婦女を煙たがります。
それなら、その婦女はとぼけた態度でこう返せば良いのです。
「一体誰に対しての体裁なんですか? まともなお客さんなんて、今日まで一度も見た覚えがないのですが……」
こういった売り言葉に買い言葉のような会話の流れは、二年前から何も変わりません。
裏を返せば、このやり取り自体には問題が無いと言う事です。
「ああ、ご尤もだ。それと同時に今、お前が客ではないと言う事も、証明されたわけだがな」
気怠そうな口調でありながら、貴方はしたりといった様子でそう言います。
「あら、お可哀想に。貴方という人は大学生にもなって、言葉の綾取りもできないんですね。勿論、私はここの唯一のお客さんですよ? もう少し丁重に扱った方が良いと思います」
婦女が小生意気な口調でそう言い返すと、貴方は憂鬱そうに溜息を吐きます。
「この自由人が、今更何を……。敢えて揚げ足の方を取った意図を、同じ大人であれば察して欲しいものだな」
貴方はそうぼやきつつも、内心ではもうとっくに諦めているはず。
「あのですねぇ、命弥君。恋人が作れないだけなら良いですよ? でも、友達くらいは作れた方が良いのではないでしょうか?」
婦女は他愛のない憎まれ口を装って、貴方に探りを入れます。
「恋人が居ないなんて、誰がいつ言った…………? まっ、ご察しの通りだが」
貴方は涼しい顔でそう言います。
貴方の放った無意味な指摘に一瞬、婦女の心臓が跳ね上がります。
「あっ。大丈夫です。知ってます」
「やかましいわ」
婦女の声は動揺で少しだけ上擦りますが、貴方は気付きません。
「ま、まぁまぁ…………でしたら、私が恋人になってあげる、と言うのはどうでしょう」
戯れに交わす誹り合いの中に、切なる願いを忍ばせて、婦女はそう言います。
「気でも狂ったか……」
何も知らない貴方はそう一蹴します。
「それは貴方です。なんですか、その失礼な反応。良い提案だと思いますけどね。私にはここへ来る理由ができますし、貴方には美しい彼女ができます」
飄々とした口調で、婦女はそう言います。
「ベタなツッコミは控えて置くが……まさか、本気で言っているんじゃないだろうな?」
貴方は怪訝そうに眉を顰めます。
「ええ。本気も本気ですよ。どうします? 今しかチャンスはないかも……」
余裕な小悪魔を気取って、婦女はもうひと押しします。
すると、貴方は静かに本を閉じ、視線はこちらに向けないまま、重たげに口を開きます。
「そうだな。これが真剣な話なら…………駄目だな」
貴方はまだ、その婦女の提案に対して半信半疑な様子ではありつつも、改めて一考するように間を置くと、真面目な口調でそう結論を出します。
予期していた事とは言え、変わらない事実を突き付けられる苦痛は堪え難いものです。
それ以前に、この婦女の精神はもうとっくに、破け散る寸前まで擦り切れていたのです。
「………………どうして、ですか……?」
貴方に見られないよう、婦女は少し俯いて、下唇を噛み締め、どうにかこうにか平静を装いながらそう訊ねます。
「俺にそんな甲斐性は無い。第一、今の状況でさえ俺は反対なんだ。こんな廃れた場所に入り浸って、人生の貴重な時間を潰すべきではない、とな」
貴方は冷静な口調でそう言います。
「どうして……どうして貴方はそうなんですか? 誰にとって何が大切かなんて、人それぞれじゃないですか」
それが無益な弁駁だと分かっていても悔しさは抑え切れません。
「そうだな…………だが、駄目だ」
貴方は婦女の言い分を肯定しつつも、その答えが覆らないものだと目を向けて示します。
「……やっぱり、居るんじゃないですか……そういう人」
やり切れない思いは幼稚な嫌味になって、惨めな婦女の口を衝きます。
「いや、居ない……ただ、どうだろうな。俺の中にあるものが、責任感から来るものなのか、家族愛や義理人情なのか。それとも、それ以外の何かなのか……。俺にも分からない」
問い質される謂れなんて無いのに、優しい貴方は自ら誠実に心情を語ります。
けれど、貴方が誰の何について話しているのか、婦女にはさっぱり分かりません。
この際どうでもいいとすら思っているのです。
「────いいです……いいんですよ……その人がなんであろうと、私は別に気にしません。それでも駄目ですか……? 大切なら、大切にすればいいし、捨てられないなら、捨てなくてもいい。忘れられないなら、忘れなくてもいい。難なら二番目でも、キープでもいいんです。それでも私は────────」
とっておきの愚案が、死にもの狂いの懇願が、破れかぶれの慟哭が、張り裂けそうな胸の奥から茫然自失の隙を突き、乾いた声帯を通って、婦女の口から無機質に流れ出しました。
貴方は気不味そうに目を伏します。
「都合のいい女、というやつか…………。今だに俺は、お前がどういう人間なのか掴めない。それでも、容姿端麗、英俊豪傑なお前にそう言い寄られるのは、正直言って悪い気はしない。しかしな……すまない。俺にはやはり、どうしても失望させられないヤツがいる」
貴方は婦女を軽蔑するでもなく、ただ婦女の真意を量り兼ねた様子で眉を顰め、婦女を辱めないようにそれとなく言葉を選びながら、錯乱した婦女の提案を丁重に断ります。
とまぁ、当然こうなるでしょう。
いえ、流石にこれは、例え話の方に問題がありましたね。
では改めて、こうしましょう。
例えば、そう。
貴方は…………いえ、やめましょうか。
例え話なんて、何の意味もありません。
貴方もいい加減、飽き飽きでしょう。
今度こそ本当の物語を、初めから──────。




