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【自由とは──】旨〜subject〜

 約束の日を迎え、時刻は午後五時過ぎ。

 四時限目の受講を済ませ、すぐさまECRへ向かった命弥は、誰より先に応接用のソファーに着き、来たるべき来談者が訪れるのを待ち構えていた。

 目を閉じて下を向き、浅く指を組んだまま、静黙として動かない命弥の姿は、無窮の瞑想に耽っているようであり、またそれとは逆に、無想の瞑想に徹しているようでもある。

 この領域こそは、有為も無為も赦し得る、静寂の境。

 路無き迷者の歩みが昏き洞を鳴らせば、その勇敢なる彷徨の足音は隠者の元へと響き渡る。

 無窮の宇宙に臨みし迷者は、やがて運命の廻し手を掴み、閉ざされし心の扉を引くだろう。

「来たか…………」

 命弥が薄らと瞼を開く。

 その直後、ラッチ音が鳴り、部屋のドアが開いた。

「ちーわわっ」

 と、陽気な挨拶と共に部屋に入って来たのは、大きな手提げ袋を携えた深七であった。

「お前か…………」

 命弥は気が抜けたようにそう言う。

「うぅ……なんなの、その反応……言って置くけど、兄妹でも傷付くものは傷付くからね! まぁあ? 彩葉さんに比べたら? 華が無いのは認めますけど?」

 深七は不平を訴えつつ、拗ねた素振りで当て付けがましく自身を卑下する。

「そんな事が言いたいんじゃない……どうしてまた、お前までここに来たんだ。という話だ」

 命弥はそう言って憂鬱そうに頭を抱えた。

「え? どういうこと? パパに任命されたからじゃない。ECRの助手に……」

 深七は奇妙なものを見るように、きょとんとした顔をしてそう答える。

「一日限りの話だと思っていたんだがな────」

 命弥は厄介そうな表情をしながら、敢えて深七に聞こえるような声量でそう呟いた。

 その露骨なまでに嫌味ったらしい態度を見て、深七は暫し呆れ果てたような表情で黙ると、これ見よがしに大きな溜息を吐いた。

「お兄ちゃんってさ……。小難しい事ばっかり考えてる癖に、なぁーんか子供なんだよねー。社交性……ううん、社会性が欠けてるというか…………」

 まるで同級生男子を蔑むかのように、深七は残念そうな口調でそう言う。

「対人力が無いと? まぁ、自覚は有るが、俺のクソみたいな人生には必要の無いものだ」

 命弥は涼しげにそう返す。

「はいはい。何を心配してるのか知らないんだけどさ。今更そんな態度で突き放そうなんて、無駄というか、幼稚というか……馬鹿の一つ覚えになっちゃってるもの。お兄ちゃんにハードボイルドとか、ぶっちゃけ向いてないから」

 深七は見透かしたようにそう言う。

「やかましいわ……」

 大なり小なり図星だったのか、命弥は決まりが悪そうに苦い表情を浮かべている。

 そんな命弥の反応を受けてか、流してか、深七は少し悲しげに視線を落として嘆息する。

「一年前の事なのに、この人は覚えてないのかなぁ。やっぱり、打ち所が悪かったのかなぁ」

 深七は独り言のようにそう言った。

「何が言いたい……」

 しけた顔を引き摺りながら、命弥は話の意図を尋ねる。

「私が病院の窓から飛び降りた時、馬鹿みたいに後先考えず一緒に飛び降りて、必死に助けてくれたよね? あれさ。植え込みが無かったら、二人とも死んでただけだよ? それにあの時のお兄ちゃん、子供が駄々捏ねるみたいに泣きながら言ってたよね? 俺を独りに──」

 深七は剝れたような真顔で淡々と過去の事例を突き付けてゆく。

「分かった、俺の負けだ。その話はやめろ…………」

 命弥は少し慌てたように深七の話を中断させ、居た堪れない様子で顔を伏した。

「そう……? ならば良し!」

 深七は勝ち誇ったようにそう言った。

 敗北者らしく消沈する命弥をよそに、深七は意気揚々と反対側のソファーに着き、リュックからお茶請け皿と菓子、ファッション雑誌等を取り出して、我が家のように寛ぎ始めた。

 そうした奔放な振る舞いを見ても、命弥は文句を言う気力も失くした様子で項垂れていた。

 会話が止み、室内は途端に静まり返ったが、ここには気心の知れた兄妹が二人居るだけで、その無言の時間が気詰まりを生じさせる事はない。

 普段ならばそうであろうものの、蒸し返された話の内容が内容なだけに、命弥は悶々とした気持ちを拭えない様子で、憂わしげにこっそりと深七の顔を見つめては目を伏している。

「…………深七…………お前は──────」

 命弥はそう呟くように声を掛けるが、何か言い倦むように言葉を切った。

「うん? ………………なぁに?」

 深七は暢気な顔で雑誌を眺めつつも、命弥の声にはしっかりと反応を示し、口下手な子供と対話するように、少し間を置いてからもう一度、優しい声で命弥の話を尋ね直した。

「……いや……すまない……やはり聞き捨ててくれ」

「やだよー」

 辛気臭い表情で発言を取り下げる命弥であったが、深七は軽い口調でそれを拒否した。

「ああ。そうか………………何故だ……」

 命弥はノリツッコミのようにそう言って頭を抱えた。

「だって、言い辛い事かも知れないけど、やっぱり聞いて欲しいから声を掛けたんでしょ? お兄ちゃんが聞いて欲しい事なら、私はちゃんと聞かなくちゃいけないもの」

 深七は当然のようにそう言った。

「深詠さんの受け売りだな」

 命弥は薄い溜息を吐き、背伸びする子供を遇らうようにそう言った。

「んー、そうだったとしても、理由はちょっと違うかな……。ほら、ママってなんか、母性に溢れると言うか……すごい人だったでしょ? 私はあんな風には──────」

 深七ははにかんだような苦笑を浮かべながらそう話す。

「いや……誰でも難しいだろう、あんな風になるのは…………娘のお前がそう言うなら、な」

 共感か。慰めか。励ましか。その言葉の真意は掴み難いものの、少し悲観的な深七に向けてそう言った命弥の口調は心なしか暖かであった。

 そんな命弥を見て、深七がくすくすと笑う。

「ほんと、どこまで不器用なんだか……」

 深七は困ったように眉根を上げて、独り言のようにそう言った。

「なんの事を言っているのか分からないが、俺は手先も口先も、比較的には器用な──」

「はいはい! いいからいいからぁ。言いたい事、あったんだよね?」

 命弥が異議を唱えようとすると、深七はそれを強引に受け流し、話を本題に立ち返らせる。

「あ、ああ…………お前は……その………………見付けられたのか…………?」

 命弥は観念した様子でそう話すものの、伝え方に悩んだ挙句、対象語すらも省いたその問い掛けは、凡そ聞きたい事の趣旨など汲み取れるものではなかった。

「え……え〜っとー…………何を?」

 深七は気を遣ったような笑みを浮かべてそう聞き返す。

「…………あれだ……豊崎を説得する時に言っていた…………今有るものの尊さってヤツだ」

 命弥は斜め下に顔を逸らしながら、憂わしげな口調でそう言った。

 そこにどのような仔細があるにせよ、その問い掛けが二人の胸臆で深刻な意味合いを持ち、この場に重い空気を漂わせようとしている事は、命弥の曇った表情からして明らかであった。

 しかし、深七は命弥の顔をじっと見ると、何かに堪え兼ねたようにぷっと息を吹き出した。

「あはっ、あははははははっ! ふ、普通さ、改めて聞くかな、そんなこと…………ふっ……ふふふ……あのさ……お兄ちゃんってさ……ふふ……ほんっとキザだよねー……ふふふっ」

 どうにも笑いが収まらない様子の深七は、声を絶え絶えにしながらそう言った。

「いや、お前が言った事なんだが……」

 命弥は怪訝そうに眉を顰めてそう言った。

「そうなんだけどね。そうなんだけどさぁ。改めて言われると恥ずかしいと言うか。こう言うなんでもない時に話す場合って、普通それとなく聞かない? 例えばー……高校生活は上手く行ってるか、とかぁ。こんな陰気な部屋に通って楽しいのか、とかさ」

 と、深七はあれこれと注文を付けながらも愉快そうであった。

「ああ、それは色々と悪かったな……。で、どうなんだ」

 命弥は少し不機嫌そうに深七の指摘を受け流すと、ぶっきら棒な口調で質問を繰り返した。

「うん。見付かってるよ」

 深七が一考の間も無く返したその答えは、命弥の躊躇逡巡が間尺に合わない程に簡素なものであったが、そこに帯びた朗らかな深七の笑顔には紛れもない真意があった。

「そうか」

 納得したような素振りでそう言う命弥の表情には、まだ微かに不安の色が残っていたものの、深七から向けられた健やかな笑顔に対して、これ以上の野暮な詮索を命弥はしなかった。

 それからはただ、気の置けない兄妹同士の安穏とした時間が流れていった。

 そして、時刻が午後六時に差し掛かった頃。

 物音一つ聞こえなかった廊下の奥から、コツコツと行儀の良い足音が鳴り響いて来る。

 その律動はまるで刻限を告げる晩鐘のように整然としていて、緩みかけていた二人の気持ちを引き締め直すには誂え向きの調べとなった。

 やがて足音は門前で止み、草臥れた鉄の扉が叩かれた。

「どうぞ」

 深七が扉に向かってそう呼び掛ける。

 すると、建て付けの悪い鉄製のドアが不快な金属音を立てながら開き、ECR活動開始から初の来談者・豊崎彩葉が愛想の良い微笑みを携えて部屋に入って来た。

「それでは、お邪魔します」

 改まった口調でそう言うと、彩葉は席に進み、上座のソファーに腰を掛けた。

 マナーとしては違和感があるものの、深七はそのまま席をずれ、上座の一番奥に位置する形となった。

「よく来てくれた。なんのもてなしも無くてすまないが……と言うところだったが、どうやらうちの助手は優秀だったようでな────」

 命弥は彩葉に対して軽い謝辞を述べると、称揚とも皮肉ともつかない状況説明をしながら、深七に視線を遣る。

 ガラステーブルの中央には華やかなティーセットが並んでいて、深七は受け皿に乗った三つのティーカップに紅茶を注ぐと、それを彩葉から順に一つづつ差し出してゆく。

「粗茶ですが……」

 そう言って苦笑を浮かべる深七は、実際、自身の淹れた紅茶に自信が無い様子であった。

 深七が入室する際に持っていた大きな手提げ袋は、どうやら全て応接に備えた道具であったらしく、テーブルには他にも電気ケトルやシュガーケース等、様々なものが置かれていた。

「あ──────、ありがとうございます」

 彩葉はティーセットを惚《ほう》けたように眺め、心なしか寂しげな表情で深七に礼を言った。

「どうした。紅茶は苦手だったか?」

 命弥は彩葉の反応を少し奇妙に思った様子でそう尋ねた。

「えっ、えっ……? ごめんなさい。何となくイメージで選んじゃいました────」

 深七は特に根拠も無い命弥の発言に狼狽え、不安そうな目で彩葉を見ながらそう言う。

「あっ。やっ、なんでもないんです。えっと。わざわざこんな準備までして頂いて忍びないなと思いまして……」

 彩葉はそう言って気不味そうに肩を竦めた。

「そうか」

 些か怪訝そうな表情を残しつつも、命弥は淡泊な相槌で納得を示す。

「よかったぁ」

 深七はそう言って胸を撫で下ろしたが、結果的にはただ要らぬ不安を煽られただけである。

「すみません。変な心配を掛けてしまって…………それでは論談を……あやっ、えっとーー、相談! 相談に乗って下さるんですよね! さて、私はまず何をすればよいのでしょうか」

 場都が悪そうに話題を切り替えようとする彩葉であったが、些細な言い間違いを妙に焦った様子で言い直したり、その慌て振りを急な澄まし顔で強引に誤魔化して手引きを求めたりと、かなりグダグダな仕切りであった。

「ん……? まぁ……ECRの理念からすれば、お前は多少イレギュラーな来談者だからな。確かにこちらとしては悩ましいが…………何をすればいいとは、少し妙な疑問だな」

 命弥は自然と受け答えしつつも、彩葉の質問に少しだけ違和感を覚えた様子であった。

「え、そう? 寧ろ、カウンセリングとしてイレギュラーなのがここで、妙なのはお兄ちゃんだから、彩葉さんの疑問は当然だと思うけど……ってゆうか、レギュラーとか居たの?」

 深七は何の気も無い様子でそう言うが、放たれた正論の矢は余す事無く核心に突き刺さり、反論の余地も無い命弥は、苦々しく奥歯を噛み締め、ピクピクと顔を引き攣らせている。

「…………まぁいい。確かにECRとしては、初めに言って置かなければならない事がある。ここで行われるのは思想の解体と整合だ。その為にまず一つが、お前の抱える命題について、その経緯や思考を詳らかに開示して貰う必要がある。そしてもう一つ。この論談に於いては、道徳や常識、既成観念に捉われる必要はない……。ここはECR、自問と追究の匣だ」

 命弥は流れるように論点を切り替え、彩葉への返答として対談に際しての前口上を述べた。

「お兄ちゃん……そんな気取った言い回しでペラペラ話されても、何が何だか分からないよ」

 深七は残念そうに命弥を見ながら、彩葉の気持ちを代弁するようにそう言った。

 主張は様々あるにせよ、ECRでの対談に於いて、これ以上に簡潔な説明も無いのである。

 しかしながら、気の利かない形式ばった進行をしている事は、本人にも自覚があるようで、命弥は決まりが悪そうに顔を強張らせながら閉口している。

「いえ。大丈夫ですよ、深七ちゃん。それではまず、何からお話ししましょうか」

 既に覚悟が決まっていたからか、彩葉は命弥の前口上をすんなりと受け止められたようで、自ら円滑に話の進行を促した。

「あ、ああ。そうだな。始めよう…………」

 彩葉の異様な順応性に対して、命弥は少し面を食らった調子でそう言った。

 そうして、ECRの論談はようやく幕を開けた。

「予め尋ねて置きたいんだが、お前は実際、自殺を考えているのか…………? や、質問には考慮したいのだが、俺はまだ悩みの輪郭すら掴めていない状況だ。先日お前は『解放』という言葉を使ったが……つまり趣意としては、自由を得る事。それでいいのか……?」

 命弥がそう訊ねるのは、論談の取っ掛かりや、議題となる本人の欲求を確かめる為であり、他意は無い。自らの推量を織り交ぜながら、慎重に彩葉の意思を訊ねる。

「どうでしょう…………自分でも分からないんです。でも、自殺についてはきっと、命弥君の勘違いですよ。生きるのも死ぬのも、今の私にとっては同じ位に意味の無い事ですから……。まぁ、自由を求めていたのは確かですが、本質的にはそれも違うと言いますか────」

 そう語る彩葉には以前訪れた時のような戯けた素振りは無く、真面目にありのままの心境を伝えた様子である。それでもやはり、豊崎彩葉という人間の掴み所の無さは健在であった。

「そうか……分かった。いや、分からんが……。真っ当なカウンセリングなら、それが普通の患者なのだろうな。自覚している限りでいい。悩みの種となった出来事を教えてくれ」

 命弥は先日の失敗から対応を改めたのか、寛容な構えで聴き手に努める。

「はい。まず、私は豊崎の家に生まれ──」

「待て。何処の豊崎さんか知らんが、生い立ちまで語る必要は────……いや、まさかな」

 彩葉の取り留めも無さそうな語り出しに、早くも異見を挟まずには居られなくなった命弥であったが、何か彩葉の語り出しが妥当である理由にでも思い当たったのか、はたと言い淀む。

 会話の途中で勝手に自問を始める命弥に、彩葉は苦笑を浮かべていた。

「あの……すみません。先に言うべきでした。何だかはしたないような気がしまして…………まぁ、端的に言いますと、トヨサキ自動車の豊崎です」

 彩葉は少し恥じらい気味にそう説明する。

 すると、それまで隣で静聴していた深七が「え!?」と大声を上げて目を剥いた。しかし、何故かすぐに腑に落ちたようで、彩葉の姿をまじまじと見ながら何度も頷いている。

 命弥も一瞬唖然とはしたものの、その表情は感心とは程遠いものであった。

「そうか……しかし、こんな物置部屋を訪ねて来るとは、物好きな御令嬢様も居たものだな」

 呆れたような口調で命弥はそう言った。

「いえ、確かに父が継ぐ話にはなっていますが、それはまだ先のお話なので、令嬢を指すなら叔母のイメージが強いかと。私は単なる孫娘です」

 彩葉は澄ました顔で杓子定規な答えを返す。

「庶民からすれば大体同じなんだが…………いや、すまない……話の続きを教えてくれ」

 余計な口を挟みがちな命弥であったが、俄に空気を読んだ様子で話題の方向を修正した。

「私には幼い頃から婚約者がいました。と言っても、私の場合、元々親交の有る御家の方との婚約でして、政略的な意味合いは薄いのですが……」

 彩葉は淡々とした口調でそう語る。

「そうか……単に婚約から解放されたいといった悩みではなさそうだな」

 命弥は彩葉の口振りから心情を推察するようにそう言った。

「それは────、そうですね…………。でも、もしそうだとしたら、どうしますか……?」

 彩葉は少し返答に詰まりつつも、概ね命弥の推察を是認している様子であったが、代わりに興味本位じみた質問を命弥へ投げ掛けた。

「話は早い。お前は自由だ。親を説得するなり、好きなヤツと駆け落ちするなり、親の意向に従うなり、好きなように生きればいい。成否はどうあれ、それらを試行する事なら可能だ」

 命弥は快刀乱麻を断つように淡々と答えを提示した。

「成否はどうあれ……ですか」

 彩葉は納得とも不服ともつかない表情で命弥の言葉の一端を復唱する。

「ああ。自由な決断が幸福に繋がるとは限らない。外界に於ける結果と各々が自由である事は別問題だからな。だが、意思や試みといった志向性は直接的に縛られてはいない。そもそも、この世界なんて最初から全て有りのままに出来ていて、一度決まった経緯が覆らないだけだ」

 命弥は迷いの無い口調でそう答える。

「ええ、分かりますよ。自由である事は自在である事とは違うって話ですよね。どんな状況下でも、その時どう生きるかを決めているのは、結局自分でしかなくて、デメリットやリスク、可能不可能、思い込み等はあっても、選択そのものは縛られていない。けれど、外界の結果は個々で成り立つものではなく、それこそ万物万象の自由が織り成す統合的なものなのだから、外界が各々の意図する形にならないのは、多種多様に離在する自由な存在の原理。ですよね」

 彩葉は滔々とそう言い連ね、自身の解釈の当否を確かめる。

 それはまるで、命弥の思考を丸ごと読み取ったような明瞭すぎる解説であった。

「あ、ああ……。我々は既に世界の可能性の一端だ。まぁつまりは、外界の有りようを自身の自由と混同すれば、自由に織り成された外界の経緯と矛盾し、不自由などという認識の齟齬が生まれる。が、実際は根源から今に至るまで、我々万物は自由に世界の経緯を決定して来た。人は飽くまで、その選択や結果を後から悔やんだり憎んだりしているに過ぎない」

 僅かに戸惑いの色を浮かべた命弥であったが、胸の中に生じる異物感を抑え込むようにして簡素な相槌を打つと、泰然とした姿勢を貫きながらそう話を続けた。

「そうですね。それが真理なのかも知れません。でも、実態にそぐわない極論だと思います」

 彩葉は冷静に異論を呈する。

「確かに人間の自己主義的な観念からすれば極論だが、客体的な観点から蓋を開けてみれば、寧ろこちらが実態だと思うが? 存在する以上はそこに経緯があり、その経緯が無ければ自由は愚か我々は存在しない。そして、その経緯は誰が定めたものでもなく、意識無意識に問わず常にこの世の全ての在るが儘によって成された事だ。それを今更になって自意識が不都合だと宣《のたま》ったところで、お前という名の物質集合体は在るが儘に集まり集められた事を知っている。無自覚であった事が不服なら、そうさせる現象を魂とでも呼んでみればいい。まぁ何にせよ、我々は常に我々万物が自由に選び取った経緯の中で、これからも自由に現在を形作るだけだ」

 命弥は彩葉の指摘に動じる事なく淡々とそう説いた。

「現在する経緯に一々ケチを付けたがるのは単なる我儘だって言うのは分かります。ですが、物質的な有りのままと、自我が求める精神的な自由を一緒くたにするのは、現実的ではないと思いますし、それで元々自由だと言われましても…………では、例えば命弥君は自殺も殺人も自由だから好きにすればいいと?」

 彩葉は命弥の言い分を受け止めつつも、社会的倫理観に訴えるようにそう問い掛けた。

「ああ。俺はこの論談に於いて、主義を掲げるつもりも無ければ、善悪を語るつもりも無い。ただお前が納得できる道を適切に判断できるよう、その迷いの核となる観念の本質を追究し、お前が真に望む姿とは何かを模索するだけだ。それが当人の本懐なら試みは止められない」

 命弥は特に意地を張った様子もなく冷徹にそう明言した。

「えっ…………そう、なるんですか?」

 自ら疑義を呈したにも拘わらず、彩葉は戸惑った様子でそう聞き返す。

 横で二人の対話を聞いていた深七は不満そうな顔で口を開けたが、命弥は逸《はや》るなと言うように片手を少し上げ、深七が声を出す前にその物言いを制止した。

「ただし。それは大抵の場合、合理的な判断ではない。お前がそれを選択するというのなら、俺はお前の根本にある欲求や充足性の観点から、その手段を否定する事になるかも知れない。たとえお前が悲観主義の自殺志願者か、快楽主義の殺人嗜好者であったとしてもな」

 命弥は毅然とした態度でそう言った。

 前言の冷淡さとは裏腹に至極人道的な命弥の方針を聞いて、安堵した様子の彩葉は心なしか喜ばしげに頬を緩めていた。

「そういう事でしたか…………まぁ、そうですよね──────。あっ、いえ。言いたい事は分かりましたけど、貴方の言う自由は、カントの言うような社会性を前提とした合理的選択の自由には反してますし、一体どういった理屈でその行動の非合理を説明するのでしょうか」

 一時は和らいだ表情を見せる彩葉であったが、議論そのものに納得した様子ではなかった。

「あのなぁ……。別に論証するのは構わないが、この話はお前の悩みと何か関係あるのか? そうでなければ、論じたところで何の役にも立たないと思うが……」

 命弥は煩わしげにそう言った。

「そうですねぇ…………無くはありません──────」

 曖昧な言葉でもそう返答するあたり、この話を続けたいという彩葉の意志は堅固のようで、簡単には引いてくれなさそうなその表情を見て、命弥は観念したように溜息を吐いた。

「分かった……だが、いいか。今ここで言える事は、俺の推量と抽象的な私見でしかない」

 命弥はそう言って念を押し、次に話す内容がECRの本分ではない事を予告する。

「はい」

 と、彩葉は頓着の無い様子で返事を返した。

「まずは自殺志願者の場合だ。少なくとも当人の主観としては、自死で解決される問題はほぼ無いと言える。例えばその理由が逃避である場合、苦悶や窮地から脱する事が主目的であり、その根本的な趣意や欲求は心身の平穏や充足という事になるだろう。則ち、それらを達成する為の手段が逃避だ。しかし、自殺という行為は心身を至極の窮地に追いやる行為でしかなく、その行動の先に逃れた自身の存在が無いのなら行動原理として完全に破綻している。そして、この方式で考えれば、主目的が復讐や尊厳の保守、計画的な献身の場合も同様の事が言える。結局、月並みな答えにはなるが、自殺とは精神の極度な摩耗による判断力の低下、または思考の錯乱によって単一的な思考に陥り、手段を目的と履き違えてしまっているだけで、実際には他に合理的な選択は幾らでもある。死後の世界の有無など論じ得ないが、仮に有る方に賭けていたとしても、それ以外の全ての可能性を投げ打つに足る行為ではない。人は意図せずしても死ぬものだ。どうせ何もかも捨てるのなら、その全てを注ぎ込んで、死ぬまで逃げればいい。まず捨てるべきなのは命ではなく、死にも勝る自己欺瞞なのかも知れないな」

 命弥は大雑把にも几帳面にもならない塩梅で真面目にそう私見を述べた。

「なるほど。そうですね。意見の一つとして参考にさせて頂きます。ただ、誰もが必ずしも、生きる理由や欲求を持っているとは限りませんよね? 確かに、死がゼロで、生がイチなら、イチを選ぶのが無難でしょう。苦境で生き続ける事をマイナスイチと捉えても、それは観念上の基準値が高いだけで、事実上は無より小さい存在なんて無いんですから、生をマイナスだと捉えて、ゼロを高く見積もるのは誤認識と言えるでしょう。それでも意識や認識というものはそういうものです。どこまで理性的に現実を突き詰めても、その答えは観念の域を出られず、絶対的である真実なんて相対的には導き出せない。裏を返せば、ゼロなんていう絶対値だって仮定に過ぎませんよ? だから……そうですねぇ……虚数のような心情だって有って然るべきだとでも言いましょうか。ゼロより上でも下でもなく、たとえ仮想的概念であったとしても、勘定に入れなければ認識上の辻褄が合わないのです」

 彩葉は命弥の主張を素直に受け止めつつも、人間の実態を説くように異論を唱えた。

「そうだな……。そもそも、ECRの本分は既存の倫理観に則して正否を付ける事ではなく、当人が当人の中で最適な答えを導き出せるよう、思想の追究を援助する事だ。その結果として自殺を選ぶのなら……この通り、一応は持論を以て止めようとは思うが、それは飽くまでも、俺のエゴでしかない。後は価値観の問題だ。その違い方によっては水掛け論にしかならない。いや。正直なところ、俺もゼロ寄りの人間でな。寧ろ感性の点では腑に落ちたくらいだ……。もういいか?」

 命弥は彩葉の意見にあっさり納得を示すと、ECR本来の意義に立ち返るとともに、自身に悲観主義や希死念慮と対立する信条が無い事を暗に告げた。そうして、決断そのものの正否をここで論じ合う事の不毛さを改めて示唆すると、命弥は本題へ戻りたい意思を仄めかす。

「あ。えーとー……粗探しのような真似をして置いて恐縮なのですが、一応最後まで聞かせて頂けますか? 殺人嗜好が当人の充足にならない理由。少しだけ気になっちゃいまして……」

 彩葉は多少悪怯れつつも、命弥に対して論証の続行を求めた。

「殺人嗜好者か……正直なところ、半分以上ハッタリで言った事なんだが、非合理性なら幾らでも上げられる。まず、ソレが人間社会で生きる者ならば、自身を守る最低限の秩序を自らの意志で破壊している事になる。これは生存活動と矛盾した即物的欲求だ。そも、嗜好としての殺人行為など、社会的な環境とその恩恵があってこそ成立するものだ。自身の活力を得る為に自身の生活とその原動力を脅かし、社会的動物の社会的性能を衰耗させるなど愚かに尽きる。尤も、嗜好に理屈など要らないと言われればそれまでだし、戦乱の中でなら合理性も立つかも知れない。但し、結局のところそれは現人類の営みとしては破綻していて、自らの死や破滅を望む欲動に等しい。欲求は欲求のまま留め、妄想や仮想の中で発散させるのが、自身にとって最善の判断だろう。だが、どんな道理を当人に説いたところで無駄な話だ。何故なら彼らは、理性的な思考力や協調的な感受性に於いて、致命的な脆弱性を抱えている。或いは、身に余る情欲にも似た衝動に突き動かされているからだ。よしんば、どれだけ知性的な言動、合理的で整合性のある主張をしていたとしても、それは人という一動物、又は人類外の道理であって、人間という社会的動物としての道理はそこに無いだろう。逆に、その生物としての合理性は、その生物によって異なるわけで、人間の立場を以て否定しても意味は無い。則ち、その各個体自体の在り方を論理的に否定する事は凡そ不可能に近い。ただ、快楽や嗜好そのものに、また別の起因が有るケースなら話は違って来るかも知れない。しかしながらその場合であっても、論談がまともに成立するとは思い難いな……。まぁ、当人の在り方としての正否はともかく、人間社会から公正にみれば、基本的には共存できる妥協点が無いのだから、後は別の生き物として、狩るか狩られるかの関係になって来る。差し詰め、そこにはもう論談の由は無い」

 決まりの悪そうな口振りで語り始めた命弥であったが、達観的な視点から冷静に論理を組み上げ、先程と同様に噛み砕いた形で澱みなく持論を述べた。

「なるほど……まるで放射性物質ですね。瑕疵を抱えた不安定な精神が、存在性の確立と安定を求めて暴れ狂う。その趣意は発散か補給か。まさに知性体の壊変といったところですね」

 彩葉は異議を唱えるでも意見を返すでもなく、ただの感想を口にする。

 その素振りが感心や納得の表れなのかは窺い知れないが、これ以上言う事が無い様子であるのは確かであった。

「言い得て妙だな……。要は思想の解体と整合なんてしようもない。壊れたものが壊れた故の思考や言動をする。その事自体には何ら矛盾も無く、当人にとっては相応の選択でしかない。ソレを社会性に嵌め込んで導こうと言うのなら、ソイツに施す処置は人格の解体と再構築だ。俺の出る幕はない。どうだ? これで満足したか?」

 命弥は彩葉の比喩表現に感服しつつ、そこに自身の主張を付け加えると、些か草臥れた口調で納得の程を尋ねた。

「はい。なんだかんだ言って命弥君は、自殺も殺人も肯定できる人間ではないのだと」

 彩葉は飄々とそんな事を言う。

「さぁな……。俺は中立的に意見を述べたつもりだ。その存在が存在する事実があるならば、一先ず現状を受け止め、意義を見出し、見極める事が、人類の選択して来た人類の在り方だ。従って、生きる事や生かす事で解決するのが順当な道筋になる。それだけじゃないのか?」

 自身の論調に偏りがある事を示唆するような彩葉の感想に対して、命弥は別段機嫌を損ねた様子ではなかったが、その評価が本当に適切かどうかをただ確かめるようにそう反問した。

「ふふっ、そうですね。すみません、知ったような事を…………お話を戻しましょうか」

 そう春風にくすぐられたように微笑む彩葉の表情はどこか儚げであった。

「それは助かる……。一応、自由について私見を付け足せば、自由に決めようと決めなかろうと、全ての存在性とその働きは可能性の選択と不可能性の決定だ。それは無論、内界か外界かに拘わらず、我々は常に世界という現象下で自他の道程を築き合うという事。言い換えれば、この世にある自由とは、自身を自身で縛り、他者と互いに縛り合う事のみと言える。しかし、それらの道理を悟り、常に自らの自由な選択によって、現在の自分が在るという事を自覚して人生を歩むのであれば、それはまさしく、自然物でありながら人として心身共に自由な存在と言えるのだと俺は思う。と言ってもまぁ、この答もまたECRの本分とは別の話だ」

 命弥はそう言って、これまでの彩葉の問いに対する答えを締め括った。

「そうですね。きっとそうやって受け止められる強い人もいるのかも知れません。私には……できそうにありませんが──────」

 彩葉は仔細ありげにそう言うと、伏した目を密やかに深七の方へ向けた。

「まぁ……な。容易な事ではない。俺自身もそう割り切れるとは言えないが、その意識を頭の隅に置いておくだけでも意味があるとは思っている。だが、お前の本題は別にあるんだろ?」

 命弥は当たり障りの無い返答をすると、頃合いを見計らったように話の焦点を戻す。

「そうですね。婚約そのものについては、正直何も疑問を抱いていませんでした。幼い頃から当然のように言われて育ちましたし、自由恋愛というものも経験がなかったもので、付き合いの長い幼馴染とそのまま家族になるような感覚でしょうか……」

「なるほど。自由など考える余地も無いという意味でなら、俺にも分からなくはない……」

 彩葉が同意がてらに事情を説明すると、命弥は少し共感を示すように相槌をする。

「そういう当然が辛く感じる時期はありましたけどね。豊崎の者としてだとか、御家に嫁ぐ者として恥の無いようにだとかで、家に帰れば稽古だ修業だと、碌に友達作りはできませんし、好きな事もできませんでしたから」

 彩葉は幼い頃の自分を恥じるように照れた苦笑を浮かべながらそう語った。

「それはまた古典的な話だな……」

 命弥は呆れ混じりに少し眉を顰める。

「ええ。他のご家庭がどのようなものかは知りませんが、資産家の中でも今時は珍しい部類の家庭なのかも知れませんね。でも、一族経営を続ける方針上、身内の失態から綻びが生じないよう努めるというのも、分からない事ではありません」

 彩葉は平然とそう言った。

「つまり、問題はそこでもないと」

 命弥は言外の意味を汲み取ってそう確認する。

「まぁ……はい。少なくとも高校に入る頃までは疑問を抱きませんでした。今思えばそれが、空々しくも平穏な日常だったのかも知れません──────」

 彩葉は自嘲気味に微かな笑みを浮かべながらそう言った。

「日常なんてものは所詮錯覚だ……」

 忌々しい記憶が脳裏を掠めたのか、命弥はどこか不貞腐れた表情で私見を挟んだ。

「ええ。まぁ、そうですね、確かに」

 些か無闇にも思える命弥の指摘に対し、彩葉は意外にもあっさりと納得を示した。

「あ、いや……悪い…………今のはこちらの不手際だ、続けてくれ。それから何が起きた?」

 特に反感を食らったわけではないにも拘わらず、命弥は場都が悪そうに目を伏せて謝ると、すぐさまECRの本分に戻って質問を続けた。

「は、はい……。高校一年の冬頃の事です。私の幼馴染は事故に遭って、そのまま帰らぬ人となりました。そこからでしょうか。私がおかしくなってしまったのは────」

 不自然な命弥の態度に少し調子を狂わされつつも、彩葉は聞かれるがままに話を続ける。

 懊悩の所以を辿る彩葉の過去語りは、ついにその暗がりの前へと差し掛かった。

「……そうか………………聞かせてくれ」

 命弥は重たい相槌を打った後、一度だけ深い息遣いで呼吸を整えると、覚悟を決めたように冥暗なる道程の続きを訪ねた。

「病院に駆けつけた私は、彼が死んだ事実をこの目で確認しました。勿論、悲しかったです。それまで感情に鈍かった私が発狂するくらいに苦しくて……。毎日のように泣き続けました。やがて涙は枯れて……ある日、私はふと考えてしまったのです。考えなければよかったのに、考えてしまった。何がそんなに悲しくて、怖いのかと……」

「怖い?」

 彩葉の言葉から少しずつ滲み出る異様さに、命弥は怪訝な表情を浮かべていた。

「ええ……。確かに彼との死別は悲しかった……ですが私には、彼に対する愛執も無ければ、恋い慕う気持ちすら無かった。この喪失感は最愛の人を失った悲しみとは違っていたのです。そして、それに気が付いた瞬間、私は直ぐに分かってしまいました。私が悲しかったのは……空っぽだった私自身だと……。豊崎の価値観に疑義も納得も無く、幼い頃の不満さえも忘れ、いつしか豊崎の孫娘という名の機械のように生きていた私の中には、私が入っていなかった。名家の妻になるという名分を失った私は、絡繰りもない虚な人形になってしまったのです」

 そのような歪な心情をどこか事も無げに語る、彩葉。

 命弥は一頻り話を聴き終えると、目を伏せて暫し黙考する。

「………………野暮な事を聞くが、縁談がそれ切りというわけではないよな?」

 再び視線を上げた命弥は、悩みの方向性に間違いがないかを確認するようにそう質問した。

「はい。一年後、新たな婚約相手が決まりました……。そうですね。もしその時にほっとしたのなら、或いはもし嫌悪感を抱いていたのなら、私はまだ、私を取り繕えたのかも知れない。けれど、やっぱり何も感じませんでした」

 そう語る彩葉の声には、淡泊とすら思える程の落ち着きがある。そして、まるで物語を話すかのように自身を俯瞰視したその態度には、どこか核心に迫るような緊迫感が欠けていた。

 それでも、彩葉の語った彩葉に欺瞞や誤想はないのだろう。

「そうか…………」

 少なくとも命弥はそう認めた様子で相槌を打った。

「私はずっと、達観しているつもりでいました。人生や価値観は人それぞれで、他人は他人、私は私なのだと……。馬鹿みたいですよね。そもそも私には、自分の意志も思想も価値観も、何も在りはしなかったというのに」

 豊崎彩葉の人格は心柱《しんばしら》の無い楼閣のようなものであった。

 そんな自身の有り形を自嘲するように、彩葉は薄い笑みを浮かべていた。

「それで……お前はどうしたいんだ?」

 命弥は淀む事なく質問を続ける。

「どうしたいのかなんて分かりません…………けど、そうですね。私は私の中身を欲しているのかも知れません」

 彩葉の返した言葉は願いや望みというより、まるで自己分析から出した解答であった。

「そうか…………。思想も価値観も無いと言うのなら、解体も整合もできない。お手上げだ。ECRでは他者の考えを無理に植え付けるような事はやっていない。思想も価値観も人格も、資質と環境を材料に自ら築き上げるものだ。ここの本を漁れば参考程度にはなると思うが」

 命弥は冷静な口調でそう告げる。

「ちょっと、お兄ちゃん!? それじゃあ……何て言うか…………身も蓋もないよ……」

 そう慌てて声を上げた深七だが、反論は思い浮かばず、姿勢が段々と縮こまってゆく。

「豊崎。お前の家の方針が良いか悪いかはともかく、それを受け止め、自分自身のものとして生きて行くのなら、それもまたお前の思想だ。そして、時には改めて然るべきものでもある。だが、お前の場合。そこに丸っ切り自分の意思が無かった……そういう事だな?」

 命弥は念を押すように彩葉の本心を問う。

「そうですね。極端に言えば、私は自分で考えて生きた事がなかったという事です」

 彩葉は過去の自分を客観視するように、はっきりとそう答えた。

「なら、これからそうすればいい。難儀な事ではあるが、何ら不思議な事は無い。幼少の頃に置き去りにして来た自分自身が、今そこに在ると言うだけの話だ」

 命弥は事も無げにそう言った。

「そうなのでしょうね……。でも、どうせ何も叶わないのだから、置き去りにしたままの方が良かったのかも知れません──────」

 彩葉はそう言いながら、殺風景なガラステーブルを眺めている。

「そうだな。月並みな表現だが、お前の状況は籠の中の鳥と言えるのかも知れない…………。だがもし、その扉が開くのだとしたら、お前はどうする……?」

 命弥は何か策でも有るような口振りで彩葉にそう問い掛けた。

「勿論、迷わず籠を出るのでしょうね。私は私である事を欲してしまいましたから────。もし、私が本当の鳥なら、籠の中も外も関係は無いのでしょう……。貴方の思想を借りれば、鳥はきっと何処に居たとしても自由なんです。外の世界と引き換えに平穏を掴み、火事で逃げられずに焼死しようとも。自然のままに大空を飛び、捕食される事になろうとも。生存本能の赴くままに、自身の一生を貫くんです。でも、私は籠の中を不自由だと思ってしまいました。籠の外を自由だと思ってしまいました。だから、私が私として選んだ道で生きて死ねるのなら……私は必ず外の世界を望むでしょう──────」

 彩葉の披瀝にはどこか、演劇の独白にも似た白々しさがあった。しかし、その悲哀を帯びた虚しげな瞳は言葉以上に彩葉の心境を語っていた。

「承知した────。それなら一つ当てがあるのだが……相野昭吾を知っているか?」

 命弥は彩葉の思いを受け止めると、すぐさま次の段階へと話を進めた。

「ええ!?」

 不意に父親の名前が挙がり、深七が狼狽える。

「く、詳しくは知りませんが、確かこの大学の理工学部に在籍している教授だったかと」

 深七の反応を見て、彩葉はほんの少し戸惑った様子でそう答える。

「ああ。その相野教授は一般的にはあまり知られていないが、特定の研究機関や一部の関係者の間では、神と称される程の人物だ。国内に於いては、俗に言う政財界の中、先端技術で鎬を削るような経営者達の間でも、密かにその名が知られているらしい」

 命弥は細かい事情を暈《ぼか》しつつも、相野昭吾がどれほど秀逸な人物かを語った。

「つまりそれが……どう言う事なんです?」

 彩葉は全くピンと来ない様子で小首を傾げた。

「相野昭吾はこの愚妹の父親であり、俺の義理の親でもある。どうにかお前の意志に沿うよう間を取り持って貰おうと思ってな」

 命弥は平然とした顔でそう言う。

「いやいや、お兄ちゃん。そんな勝手なこと言っちゃって大丈夫……?」

 と、深七が怪訝そうな視線を命弥に向けた。

「そうですよ。大体、どうにかって何です? 命弥君が婚約者になるとか?」

 彩葉は深七に同意しつつも、命弥の目論見を素朴に訊ねる。

「そんなわけないだろう。政略結婚ではないという話が本当なら、その婚約は大なり小なり、お前の人生を考えた上での事だと思う。何処の馬の骨とも知れない男に、大切な娘を売るような事をする親だとは思えない。それにだ。流石の俺も、昨日今日会ったばかりの人間と婚姻を結ぼうとは思わない。安心しろ」

 彩葉に不信を抱かれると思ったのか、命弥は淡々とした口調でいながらも、邪な意図が無い事を徹底的に示すかのように自分の考えを述べる。

「そうですね。流石の私も、馬の骨とは結婚したくありません。虫唾が走ります」

 そう言う彩葉の表情は、穏やかを通り越して異様にニコやかであった。

「刺々しいな……。俺はお前の都合を考えて言っただけだ。万一俺と婚約なんて事になれば、それこそ、虎穴を逃れて竜穴に入るようなものだろう。それにどの道、相野昭吾を民間企業に引き入れるのは現状不可能だ。俺とお前が婚姻を結ぶ意味は全くと言っていい程に無い」

 彩葉の態度に今一合点がいかないといった調子の命弥は、眉を顰めながらそう釈明する。

「お兄ちゃん。一旦黙った方がいいかも…………取り敢えず説明だけ続けて」

 深七も困惑している様子ながら、命弥の釈明が逆効果である事だけは感知したようである。

「あ、ああ。と言っても、これ以上俺から説明できる事は無い。あとは昭吾さんに丸投げだ。御聡明な博士《はくし》らの事情なんて俺には分からん……。まぁ、単なる想像でものを言うとすれば、例えば、とある講義で出した論文が相野教授の目に留まり、修士課程を経る事を前提として、相野昭吾率いる研究プロジェクトに、正規の研究員として招待される……とかな」

 昭吾と口裏を合わせたわけでもない命弥には当然明確な案など無く、その発言は一聴すると無謀にも思えるが、命弥の態度は強ち投げ遣りという風でもなかった。

「そんな出鱈目が通るでしょうか。私の専攻は化学ですし。第一、大学生の論文程度で──」

「てゆうか、お兄ちゃんはパパを詐欺師にでもするつもりなの!?」

 命弥の浅慮な提案に、彩葉と深七の非難の声が殺到する。

「落ち着け。飽くまで俺が見繕った安直な例え話だ。もっと現実的な事。嘘にならない小規模な事でいい。普通なら民間企業に関わりを持てない偉人級の工学者と、個人的にでもパイプが繋げるなら、間接的であれ、将来的であれ、何らかの優位性が持てると見込めるだろう……。重要なのは、豊崎家の価値観から見た時、豊崎彩葉の進路が、その婚姻と同等以上に有意義である事…………そしてそれがトヨサキグループにとって、一部の信用を損なうというリスクに見合うものなのかどうか……と言う事だ」

 命弥は相野昭吾の名を当てにする本当の目論見を説明した。

「…………そうですね。確かに上手く行く可能性はあるかも知れません」

「ホントに!? すごい、お兄ちゃん!! や……この場合、すごいのはパパかも?」

 命弥の考えに彩葉が納得を示すと、深七は自分の事のように浮かれている。

「悪かったな。他力本願の駄目兄貴で……なんて、不貞るのも烏滸がましい程にその通りだ。そんな事より、豊崎。依然として浮かない顔だが、何か問題でもあるのか?」

 命弥は深七の軽口に付き合いつつも、芳しいとは言い難い彩葉の表情を見逃さなかった。

 肯定は賛同ではない。それを重々承知している様子で命弥は不備を訊ねた。

 そんな命弥の対応が意外だったのか、彩葉は戸惑ったように目を伏し、上目で命弥を見て、また逸らし、あの、だから、その、などと意味を成さない単語ばかりをぽつりぽつりと言って口籠もる。その様子は、自制にも、躊躇いにも、葛藤にも見えた。

「彩葉さん……?」

 深七が心配そうに彩葉の顔を覗く。

「頼む。率直に言ってくれ。このままお前を帰したら、俺は前回と変わらない間抜けになる。街灯に狂うカナブンでもあるまいし、二度も三度も醜態を演じるメンタルなんて俺には無い」

 滑稽な言い回しで重苦しさを紛らす命弥だが、その表情に朗らかさは無かった。

「カナブンですか…………いえ、命弥君は間違っていませんが……初めに言いましたよね? 自由かどうかは本質的な問題じゃないって……。結局これは、自分の滑稽さに気付いたというだけのお話なんです。実際に自由になったとして、私に何ができるのでしょう……。きっと、人生を持て余すだけですよ…………だって私には、やっぱり何も無いんですから」

 取り繕うような薄い笑みを浮かべながら、彩葉はそう言った。

「で、でも、彩葉さん! 彩葉さんは……その────」

 そう言いかけた深七が何を思い、何を言おうとしたのかは定かではないが、当人が自覚している事に対して、旧知の仲でもない者が異論を挟む事自体が野暮である。

 それを諭すかのように、命弥は片手を少し上げて深七の発言を制止した。

「その通りなのかも知れない……だが、心を整理する為の余裕位はあっても損は無い…………いや、違うな……。なまじ猶予があるだけ、徒にお前の心を掻き乱すだけなのかも知れない。人を救う力なんて俺には無い。答えを押し付ける事がそうでない事も分かっているつもりだ。ただそれでも……お前がその手を伸ばすのなら、俺はその手を掴むつもりでいる」

 命弥は冷静に彩葉の答えを受け止めつつも、援助の意志は変わらずにECR《ここ》にあるという事を摯実に彩葉へ伝えた。

 その気持ちに対して、彩葉はこれまでで一番の朗らかな笑みを返す。

「はい……ありがとうございます────。さて、そろそろ閉門の時間ですよ。深七ちゃんは未成年ですから、しっかり送ってあげてくださいね、命弥君!」

 彩葉は湿っぽい雰囲気を断ち切るように刻限を告げると、戯けた仕草で深七の両肩を掴み、陽気な口調で二人の帰宅を促した。

 そんな彩葉の横顔を、深七はまだ気掛かりな面持ちでそっと見つめていた。

 ECRの記念すべき第一回目を飾る論談はこうして、どこか釈然としない空気を残したまま幕を閉じた。

 彩葉が後腐れ無い素振りで立ち上がると、すっかり黙り込んでしまっていた命弥と深七も、それに引っ張られるようにして帰り支度を済ませ、それぞれがECRの出口へと向かう。

「ところで、豊崎……少し気になっていたんだが、お前は何処で俺の名前を知ったんだ?」

 彩葉が扉を開ける間際、最後尾にいた命弥がふと思い出したようにそう尋ねた。

 命弥の問い掛けに反応し、彩葉の身体は一瞬だけ硬直したようにも見えたが、少しすると、仔細らしい沈黙に堪え兼ねたように笑いを吹き出した。

「命弥君って意外と抜けてますよね。少し調べれば分かる事じゃないですか……あ、それと。部屋の戸締りはしっかりした方がいいですよ! 鍵はちゃんと返しましょう! ECRだって私物じゃないんですからねー」

 振り返った彩葉は冗談めかした口調でそう言った。

 しかし、ドアノブを掴んだ彩葉の右手は微かに震えていた。

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