第四話 「秘密」
ゆっくりと、大きな扉が開いた。眩しい朝の光が差し込み、思わず目を細めた。その先には、白い花々で飾られた広間が広がっている。
朝露を模した硝子飾り、金色の装飾、高い天井から降り注ぐ朝日。
そして、わたしの姿を見た瞬間、大きな拍手が沸き起こった。
「グローリー姫殿下!お誕生日おめでとうございます!」
祝福の声が響く。笑顔、歓声、音楽。今日はわたしの十五歳の誕生日だった。日の国を挙げての祝賀祭、本来ならただ幸せな一日になるはずの日。けれど、わたしの胸は不思議なくらい静かだった。緊張しているのか、怖いのか自分でもよく分からない。ただ一つだけ分かることがある。
今日で終わらせる! この日のために、何年も準備してきた。大切な人に何年も嘘をついて、何年も朝露を集めた。だから、もう後戻りはしない。出来ないの。
わたしはゆっくり歩き出す。姫として、何も知らない十五歳の少女として誰にも気付かれないように。ドレスの袖の奥で、小さな硝子瓶を握り締めながら。
「まあ、盛大なお祝いだこと。お誕生日おめでとう、可愛いグローリー」
黒い霧を纏いながら、女は楽しそうに笑った。
ざわめきが広がる。王族達が立ち上がり、騎士達が一斉に剣へ手を掛けた。
「姫殿下、お下がりください!」
誰かが叫んだけれど、わたしは一歩前へ出た。やっぱり来たのね。貴女なら、必ず来ると思ってた。
「陛下、王妃殿下」
広間の奥で、国王陛下が険しい顔をしている。わたしは静かに微笑んだ。
「皆様も」
ゆっくり会場を見渡す。不安そうな顔、怯えた顔、困惑した顔。たくさんの視線が集まっていた。だから、わたしははっきりと言った。
「大丈夫よ」
広間が静まり返る。
「この方はわたくしのお客様」
ざわり――再びざわめきが広がった。予想していなかったのか、スカビオサは目を瞬く。そして、いつかの不気味な笑みをこぼした。
「まあ、嬉しいことを言ってくれるのね」
その声に、わたしもしっとり笑う。何年もかけて磨いた、完璧な笑顔で。
「今日はわたくしの誕生日ですもの」
ドレスの袖の中で、硝子瓶を握り締める。あと少し……
本当にあと少しだ。ドキドキと鼓動する。
「おとなになったのね、グローリー」
魔女は、まるで本当に招待された貴婦人のように優雅に一礼した。
「光栄だわ」
わたしも微笑む。胸はうるさいくらい鳴っているのに……表情だけは崩さない。ここまで来たのだから、失敗するわけにはいかない。
「実は」
わたしはゆっくり口を開く。
「お渡ししたいものがあるのです」
スカビオサが目を細めた。興味を持った時の顔、わたしは知っている。だって何年も観察してきたんだから。
袖の中へ手を入れると、小さな硝子瓶。透明な液体が、朝日を受けて静かに輝いていた。魔女は嬉しそうに笑う。
「誕生日なのに、私がいただいていいの?」
「ええ、いつもお世話になっていますから」
わたしは、頷く。もちろん嘘よ! けれど、スカビオサは疑わない。完全に、わたしを信じている。
「これは?」
紫の瞳が瓶へ向けられ、広間中の視線も集まる。わたしは微笑んだ。何年も練習した100%完璧な笑顔で。
「若さを保つ薬です」
その瞬間、スカビオサの瞳が輝いた。わたしは知っている。魔女が何よりも失いたくないものを。だから、ずっと贈り続けてきた。少しだけ若返る、少しだけ効く薬を、信用を積み上げるためにコツコツ――今日この日のために。
スカビオサは瓶を受け取り、細い指先で硝子に触れ、そして、何の疑いもなくゆっくりと栓を抜いた。
すっかり広間は静まり返っている。誰も動かず、誰も声を出さず、ただ、15歳の姫と魔女を見つめている。
そんな中、スカビオサだけが上機嫌だった。
「本当に良い子になったのね。昔はあんなに、夜に憧れていたのに」
「ええ。子どもでしたから」
胸が痛む。けれど笑う。笑え! 最後まで優雅に、堂々と、最後の最後まで。
「だけど、今ははっきり分かります」
わたしは続けた。
「朝は朝のまま、夜は夜のままでいい。それが一番幸せだと」
スカビオサは満足そうに笑った。完全に信じている。
わたしの言葉も、わたしの笑顔も、全部! だから、早く飲むのよ! 魔女はやっと瓶を持ち上げた。朝日を受けて、透明な液体がきらりと光る。
「嬉しいわ、グローリー。本当に」
スカビオサは微笑んだ。瓶へ口を付けようとして――
不意に止まる。
広間の空気が変わった。ぞくり――嫌な予感が背筋を走る。スカビオサの視線が、ゆっくりわたしへと戻った。
「……そういえば」
紫の瞳が細められる。
「今日は、あの星の王子の話をしないのね」
心臓が止まりそうになった。広間の誰も意味が分からない。けれど、わたしだけは知っている。その名前がどれほど危険なものか。
「昔は毎日のように話していたのに」
スカビオサは笑うけれど、その瞳は笑っていなかった。試しているのだと気づく。最後の最後でわたしを信じるか、疑うかその狭間で。わたしは落ち着くように静かに息を吸った。
にっこりと微笑む。
「いらないのなら、お返し下さい」
広間が静まり返る。スカビオサが目を瞬いた。予想外の言葉だったのだろう。
「あら、冷たいのね」
「そうでしょうか?」
わたしは首を傾げた。
「だって」
肩を竦める。
「興味のない話なのですもの」
8年間、ずっと胸の痛みに耐えたのよ。昔よりずっと痛い。だから笑う。何も知らない姫の顔で。
「星のお話も、夜のお話も、もう卒業しましたの」
スカビオサはじっとわたしを見つめる。心を覗き込む紫の瞳が細くなる。
お願い! 気付かないで。あと少しだから……。すると、ふっとスカビオサが言った。
「そう、良い子ね」
わたしは確信した。魔女は完全にそう思ったのだ。スカビオサは再び瓶へ視線を落とす。朝日を受けて、透明な液体がきらきらと輝いた。
「それなら、遠慮なくいただくわ」
魔女は迷いなく瓶を傾けた。透明な液体が、魔女の喉を通っていく。ゴクリと一滴も残さず最後まで。全部飲み干すまで見届ける。
広間は静まり返っていた。誰も動かない、誰も声を出さない。わたしだけが、ぎゅっと手を握り締めていた。
どうかお願い効いて! アストラが陽の光を浴びても、生きていられますように!
お願い! 数年かけて集めた朝露、育て続けた朝顔、アストランティアの花。全部、無駄じゃありませんように。
スカビオサは空になった瓶を見て、満足そうに笑った。
「美味しいわ」
何事もなかったように、瓶を返そうとする。ダメだったの? 不安に思った瞬間……。
——ぴたりと魔女スカビオサの動きが止まる。
広間の空気が変わった。
「……あら?」
スカビオサが首を傾げる。紫の瞳が僅かに揺れた。
わたしの心臓が跳ねる。すると、スカビオサの手から、硝子瓶がするりと離れ……ガシャーン! と音を立てながら散らばった。魔女の指先から、モクモクと黒い煙が立ち始める。
「……なに?」
初めてだった。スカビオサの声に、戸惑いが混じったのは。黒い煙は少しずつ増えていく。指先から腕へ、黒いドレスの裾へ長い間まとっていた夜が、剥がれ落ちていくようだった。
「ああ……私の体が! なによ! ……これ」
スカビオサの笑みが消える。広間がざわめいた。騎士達が顔を見合わせ、王族達も息を呑む。けれど、わたしは動かない。ずっとこの瞬間を待っていたのだから。何年も。
「グローリー」
スカビオサがわたしを見る。初めて見るひどい顔だった。いつも余裕そうに微笑みを浮かべていたのに、今はそんな面影はなく、その瞳には、恐怖の色が見える。
「あ、あなた、いったい何を飲ませたの? はぁ、はぁ……」
わたしは静かに答える。この時を待っていた、何年も胸の奥に隠してきた言葉を、ようやく口にする。
「星明かりの薬ですわ」
広間の窓から注ぐ、白く優しい朝の光。それは、夜明けそのものだった。スカビオサの瞳がギョロリと見開かれた。
「そんなもの……」
「そんなもの、もう残っているはずが――」
言葉が途切れ、黒い煙が、肩からさらさらと零れ落ちていく。美しかった銀髪は錆び付いた色に変わり、黒いドレスが揺れる。
「どうして……」
紫の瞳が、わたしを見つめる。信じられないものを見るように。
「どうして作れたの? はぁ、はぁ、あなたみたいな小娘に作れるはずが」
数年間、何度も考えた。何度も迷った。失敗するかもしれないと思った。
「朝露を集め、朝顔を育てました」
黒い煙が舞い、スカビオサが苦しそうに息を呑む。
「そして」
わたしは続けた。
「アストランティアを咲かせました」
きっと、誰も意味は分かりはしない。でも、スカビオサだけは分かっているようだった。
「まさか……あの花を」
わたしは頷く。
「あの日」
胸の奥にしまっていた記憶を思い出す。黒く枯れていく花と零れ落ちた涙。そして――再び光を取り戻した星の花。
「あなたが枯らしたアストランティアは、何度でも咲きました」
スカビオサが後ずさる。怯えたように一歩、また一歩とスカビオサが下がる。
「嘘よ」
小さく首を振る。
「そんなこと出来るはずがない! お前のような娘に」
「出来ます」
わたしは静かに言った。何年も言えなかった言葉を口にする。
「だって、わたしは一度も、アストラを諦めたことはありませんから」
その瞬間、どこかでシャラン……と何かがほどける音がした。
スカビオサの表情が大きく歪む。優雅でもなく、美しくもない。憎しみと怒りに赤く染まった顔。
「おのれ――小娘が!」
広間へ声が響くと、黒い煙が吹き荒れた。錆びた色の髪が大きく揺れる。
「黙れ、黙れ、黙れ!」
紫の瞳が燃えるように光る。
「何が諦めなかったよ! 何が朝と夜よ! 希望? 馬鹿な娘!」
広間の窓ガラスが震えた。燭台が倒れ悲鳴が上がる。
騎士達が駆け出そうとする。
スカビオサは嗤った。
「これで終わらせてなるものか!」
黒い魔力が渦を巻く。床に散らかった無数の硝子の欠片が、宙へ舞い上がる。広間中から悲鳴が上がった。
「グローリー!」
魔女が叫ぶ。
「おまえさえ! おまえさえいなければ! せめて、お前だけでも消えろ! "朝の輝き"」
スカビオサはそう吐き捨てるように言うと、煙と化した手を勢いよく振る。無数の硝子片が銀色の雨みたいにわたしへ向かって飛んだ。
避けられない! ――時間が止まったみたいだった。誰かが叫んでいる。お父様、お母様、騎士達。けれど間に合わない。わたしは目をぎゅっと瞑る。
――アストラ! 心の中で呼んだ。
その時。
夜が現れた。朝の祝宴の真ん中に、黒い影が、わたしの前へ降り立っていた。




