第三話 「嘘」
わたしの十五歳の誕生日が近付いていた。そして、アストラも同じく15歳を迎える。
夏――朝の庭では、今年も白い朝顔が咲いている。
丸い花弁の上で朝露が光り、そのすぐ下では、星の花――アストランティアが静かに揺れていた。
あの日、スカビオサによって枯らされたはずの花は、元気に咲いている。黒く染まり、光を失い、もう二度と咲かないと思っていた。けれど、わたしの涙を受けるうち、花は少しずつ色を取り戻した。
そして今では、何事もなかったように咲いている。もちろん、それを魔女が見逃すはずがなかった。
*****
数年前のある朝、黒い霧と共に突然現れたスカビオサは、アストランティアを見て初めて眉をひそめた。
「ごきげんよう、可愛いグローリー。……おかしいわね」
細い指先が花弁へ触れる。相変わらずの黒いドレスを身に纏っていた。
「確かに枯れたはずなのに――いったい誰が戻したの?」
紫の瞳が細められた。わたしは首を傾げる。
もちろん知っているわ。でも、教えるつもりはないのよね。絶対に知られてはいけない。だから。
「さあ?」
全く興味がない答え方をした。魔女ーースカビオサはしばらく花を見つめていたけれど、やがて興味を失ったように笑った。
「まあいいわ」
そう言って消えていった。
*****
あの時わたしは気付いた。アストラから言われた言葉を思い返す。『お前の涙は、呪いを弱らせる』そう、魔女は知らないの。わたしの涙のことを。そして、アストランティアが戻った理由も。
わたしは独り、ある作戦を立てていた。これは、誰にも話していない、わたしだけの秘密。アストラにもね。朝露を集めること、花を育てること、魔女を観察すること。少しずつ、本当に少しずつーー数年をかけて。
十五歳の誕生日に向けて。わたしは、魔女を騙す準備を続けていた。少しずつ、会話や内容も変えていった。
朝露を集めながら、わたしはいつものように他愛もない話をしていた。花壇の話、新しく咲いた朝顔の話、侍女達の失敗談。
「グローリー、お前、最近変だ」
不意に、アストラが言った。どきりとしたけれど顔には出さない。
「そんなことないです。アストラの気のせいよ?」
なるべく自然に答える。
「お前、隠し事してるだろ」
低い声に、わたしは思わず息を止めた。さすがに鋭い。アストラは昔からそうだった。姿は見えなくても、顔が見えなくてもアストラは妙なところで勘が良い。
「していません」
わたしは笑って嘘をつく。
「してる」
「していません」
「してる」
「していません」
「してる」
子供みたいなやり取りに、思わず吹き出しそうになる。だけど、次に続いた声は、少しだけ真面目だった。
「……グローリー、何を隠してる」
胸が痛む。だって言えないから。言ったら、 きっと反対される。だから……。
「秘密です」
わざと軽く答えてみた。二人の間に長い沈黙が落ち、やがて。
「俺は、嫌いだ」
ぼそりとアストラが呟く。
「えっ」
思わず固まる。
「そういうの」
なんだか拗ねた子どもみたい。『嫌い』なんて初めて言われたな。アストラの言葉は当然だ。自分で決めたことなのに、自分が傷つくなんておかしい。その言葉がズキズキと痛い。でも、全ては魔女の信用を得るためだった。何度も何度も、自分へ言い聞かせる。朝露を集めるため、作戦を成功させるため、全部必要なことなのだと。
その日もわたしは、朝顔の咲く庭でニコニコ笑う。いつものようにアストラと話しをしながら。
「昨日の星はどうでしたか?」
そう聞きそうになって、ぐっと飲み込む。
「そういえば」
わたしは明るい声を作った。
「もう星のお話はいいです。星なんて見れないんだから」
胸が、ズキズキと鳴る。違うよ! 本当は見たい。ずっと見たいと思ってる! アストラが見ている夜空を。
天の川も星祭りも全部。
「それより違うお話をしましょう? ね?」
返事はなかった。朝顔が悲しげに揺れ、アストランティアも静かに揺れている。
「……そうか」
アストラが言ったのは、それだけだった。怒ったよね……。それとも呆れちゃったかな……。傷付けた。どんな顔をしているのか分からない。分からないけど、その短い言葉が、今まで聞いたどんな声より遠く感じた。喉の奥が熱い熱を持つ。それでも、わたしは笑った。魔女が見ているかもしれないから。絶対に、やり遂げる。
*****
これは、後で分かったことだけど、わたしの作戦はただの思い付きではなかった。
王宮の古い書庫の誰も入らないような奥の奥で、一冊の古びた書物を見つけたのだ。革の表紙は色褪せ、文字もほとんど消えかかっている。そこに記されていたのは古の魔女達について――魔女を退けるための、一つの薬についてだった。
――星明かりの薬――
材料:夏の陽を浴びた朝顔の朝露。
星の花『アストランティア』花弁
夜明けの光
朝顔の心からの涙
朝顔の『涙』って何かな? 脳裏を過ったのは、アストラの言葉。アストラを想って流した涙。
記載された材料を集めて作る、古の魔女へ効く特別な薬。最初は信じられなかった。まるで童話みたいじゃない? でも、わたしの涙でアストランティアが再び咲いたこと。全てが、一冊の書物と繋がった。
こうしてわたしは、十五歳の誕生日までに 星明かりの薬を完成させると心に決めた。誰にも話さず、アストラにも話さず。独りで、絶対にあの魔女を騙してみせる。ただし、一つ問題があった。星明かりの薬を作れたとしても、本当に効果があるのかは、分からなかった。
古い書物に書かれていただけだ。しかも、何百年も前の話かもしれない。もしかしたら、誰かが作ったおとぎ話なのかもしれない。
朝露を集めても、花を育てても、涙を流しても、全部無駄になる可能性だってある。
それでも、わたしは止められなかった。何もしなければアストラは一生、呪いに囚われたままだ。わたしだって、夜を知らないまま終わる――それだけは嫌だった。
失敗するかもしれなくても、笑われるかもしれなくても、それでも。わたしは朝露を集め続け、朝顔を育て続けた。
*****
わたしは、毎年夏には朝顔の咲く庭へ立ち続けた。だけど、わたし達は、少しずつ話さなくなった。以前なら朝の話をしたり、星の話をしたり。天の川や、見たことのない景色の話をしていた。ずっとずっと聞き飽きることのないアストラの声、会話。
今は違う。わたしが避け、アストラも追及しない。だから自然と、会話は短くなっていった。
「おはようございます」
「……ああ」
たったそれだけの日もある。朝顔が揺れ、アストランティアが揺れる。だけど、最初は庭へ通うことだけはやめられなかった。どんなに会話が減っても、どんなに気まずくなっても。朝露を集めるためだけじゃなくて、作戦のためだけでもない。
「今日は晴れですね」
返事がなくても話す。
「新しい花が咲きました」
聞いているのか分からなくても話す。
「……そうか」
時々、アストラが答える。それだけで、少しだけ嬉しくなってしまう自分がいた。わたしは翌朝も、朝顔の咲く庭へ向かった。そこに行けば、アストラがいる気がしたから。
魔女スカビオサは、わたしの前へ何度も現れた。朝の庭、朝顔の咲く回廊、時には王宮の温室にまで姿を見せた。わたし達の様子を見に来ているようだったけれど、その度に、わたしは同じ演技を続けた。
星には興味がなくなったから、夜の話も聞きたくない。アストラのことは、もう気にしていない。そんなふりを何年も、何年も続けた。
その結果。スカビオサはすっかり気を良くしたように紫の瞳を細めて笑う。
「賢い子ね、グローリー。ようやく分かってくれたのね」
わたしも笑う。従順な姫の顔で。
「ええ」
胸が痛んでも、絶対に悟られないように。そうしているうちに、わたしは調薬を覚えた。王宮の薬師に頼み込み、古い書物を読み漁り、朝露を集め続けた。
そうして時々、出来上がった薬を、スカビオサへ贈った。
「まあ、これは?」
魔女は嬉しそうに瓶を眺める。
「若さを保つ薬です」
そう答えると、スカビオサは上機嫌で笑った。もちろん、そんなの嘘だった。効果はあるの。けれどほんの一時だけ。一日もすれば元へ戻る程度のものだ。
魔女は疑わなかった。むしろ、かなりわたしを気に入っているようだった。完全に油断して、わたしを信じていた。
*****
そして――十五歳の誕生日。日の国を挙げての祝宴。
白い花々が舞い上がり、人々の祝福の声が街中に溢れ、王宮中が祝福に包まれていた。
けれど、わたしの胸だけは静かだった。何年も待った日。何年も準備した。失敗は許されない。ゆっくり深く息を吸う。15歳の誕生日がやってきた。ぎゅっと小さなガラス瓶を握りしめる。もし、この薬が本物なら、ほんの少しでも希望があるなら、わたしは賭けてみたかった。
わたしは、真っ先に朝顔の庭へ向かっていた。朝露が光り、白い朝顔が揺れる。そしてその隣では、アストランティアが静かに咲いていた。
八年間――毎日のように通った場所だった。わたしとアストラを繋いだ場所。手の中には小さな硝子瓶。瓶の中の透明な液体が、朝日を受けて淡く輝いていた。
「アストラ……15歳の誕生日おめでとう」
きっと返事はないだろう。そう思い、背を向けた瞬間、ひどく懐かしい聞き慣れた低い声が響く。
「……待て」
胸がどくりと跳ねた。
「グローリー、何を隠してる」
わたしは思わず目を伏せた。数年ぶりだった。アストラが、本気でそう聞いてきたのは。
朝顔が風に揺れる。けれど今日は、それが妙に寂しく聞こえた。
「何も隠していません」
何事もない顔で今日も笑う。
「嘘だな」
静かな声が返ってくる。その声だけで、胸が痛かった。
「……どうしてそう思うの?」
最後まで演技を続ける……そのつもりだった。
「おまえ」
アストラは小さく息を吐いた。
「昔はもっと下手だったよ。嘘。すぐ声に出てたけど、今は上手くなった」
祝宴の音楽が流れている。華やかな誕生日。本当なら、笑っているはずの日なのに、どうしてこんなに苦しいの?
「グローリー」
昔と変わらない声で優しく名前を呼ばれる。
「俺は」
一度言葉が途切れた。
「おまえが思ってるより、ずっと怒ってる」
わたしは息を呑んだ。
「何年だ? 何年一人で抱えてる」
胸がぎゅっと締め付けられる。知られてる。全部ではなくても、気付かれていた。ずっと……。
わたしは首を振った。
「終わったら話します」
「終わったら?」
「はい」
硝子瓶を握り締める。透明な液体が、小さく揺れた。
「だから」
今日も笑う。泣きそうになるのを堪えて。
「あと少しだけ、待っていてください」
会話を切るように、背を向けた。会場の大扉がゆっくり開いた。
眩しい光、盛大な拍手。十五歳の誕生日会が今、始まる。




