第二話 「白星」
朝の庭へ、黒い霧がゆっくり広がっていく。
「——あら」
女の声だった。甘く、優しい声なのに、聞いた瞬間ぞくりと背筋が冷える。わたしは思わず朝顔の蔓を握り締めた。
「グローリー、下がれ」
「で、でも」
「早く」
初めて聞く声だった。静かなだけじゃない、本当に焦っているみたいな声。その時、わたしの目の前で、空気がゆらりと歪んだと思ったら、黒い霧の中から、一人の女が現れた。長い銀髪、夜みたいな黒いドレスに深い紫の瞳。
「まあ--“朝の輝き”本当に朝の花のようだこと。なんて醜い」
女はわたしを見ると、嬉しそうに目を細めた。その視線にぞくり、とする。逃げなきゃ! そう思うのに、足が動かない。
女はゆっくり近付いてくる。黒いドレスの裾が、朝露の残る石畳をつるりと静かに滑っていた。
「やめろ」
アストラの声が響くけれど、女はただ笑うだけだった。それから、温度のない冷たい指先が、そっとわたしの頬へ触れる。
「っ……!」
「可愛いお姫様、ご機嫌よう。ねえ、星の王子様? そこで指をくわえて見ていなさい」
紫の瞳が、"見えない誰か"を見つめる。
「魔女! 黙って去れ!」
「フフ……威勢はいいけど、声だけで助けられるの? 何もできない、可愛いアストラ。助けられるなら、やってみなさいな」
夏なのに、夜みたいに冷たい。
「グローリーに……触るな」
アストラの声は、ぞっとするくらい冷たい。わたしはゴクリと息を呑む。さっきまで、少し不機嫌で変な王子だったのに。今の声はまるで、本当に“夜”そのものみたいだった。
魔女ーースカビオサは、面白そうに目を細める。
「怖い声! 可哀想なアストラ」
氷みたいな指先が、 わたしの頬をゆっくり撫でた。
「おまえはこの姫へ、指一本触れられやしない。そう……指一本もね」
「やめろ」
低い声と同時だった。ぶわり、と夜風みたいなものが吹き抜ける。
「きゃ……!?」
次の瞬間、わたしの身体が強く後ろへ引かれた。朝顔の花が大きく揺れ、パラパラと、朝露が零れ落ちた。
そして、さっきまでわたしが立っていた場所へ、漆黒の棘のような闇が突き刺さり、石畳がじゅっと音を立てて黒く焦げた。
「……っ」
誰かが、わたしを庇っている。夜みたいに冷たい気配が、すぐ側にあった。
「グローリー」
傍らで、アストラの声がする。見えないのに、ちゃんとそこにいると分かった。胸が、どくどくとうるさい。
「あら? ちゃんと守れるじゃない。ずいぶん……精悍になったこと」
スカビオサは、クスクス笑っていたが、その瞳は、少しも笑っていない。
「でもね、アストラ」
魔女はゆっくり空を見上げる。
「夜明けはもうすぐよ」
その言葉に、わたしもはっと空を見上げた。東の空が、少しずつ白く染まり始めている。朝が来る! その瞬間ーーパリン、と目の前で、淡い光が弾けた。
「……え?」
呼吸が止まる。光は、わたしのすぐ傍らの花から落ちていた。
「アストラ……?」
「見るな」
即座に返ってきた声は、苦しそうに掠れていた。
「朝が、来る……」
苦しそうな声だった。花弁は、ぱらぱらと硝子の欠片のように散っていく。わたしは思わず花へ手を伸ばした。
「アストラ!」
「……だめよ! 消えないで」
その瞬間、くすりと魔女が笑った。
「星の王子様は……悪い魔女から姫を守ったナイトってわけね」
スカビオサは、夜明け前の空を見上げる。
「朝は、星を壊してしまう」
東の空が、さらに白く染まっていく。それに合わせるように、アストラの気配が少しずつ薄くなっていた。
「いや……!」
胸が苦しい。今日会ったばかりなのに。顔も見えていないのに。どうしてこんなに苦しいのか、わたしには分からなかった。
「グローリー」
アストラが小さくわたしの名前を呼ぶ。その声は、もう随分遠かった。
「泣くな」
「でも……!」
「俺は平気だから」
「さあ、おやすみの時間よ、アストラ」
魔女の視線の先には、朝顔の隣の白い星みたいな花。アストランティアが、ふわりと浮かび上がる。スカビオサは、面白そうに目を細める。
「これが“星の花”」
細い指先が、花弁へゆっくり伸びた。
「やめて!」
わたしは思わず叫ぶ。
「触るな!!」
同時に、アストラの声が鋭く響いた。けれど、魔女は嗤う。
「ああ、困っているのね。これがなきゃ、楽しいお話もできなくなるから。可愛いグローリー、可愛いアストラ」
黒い指先が、白い花弁へ触れた瞬間。
「……っ」
星の花弁が、一枚ずつ黒く染まっていく。光が静かに消えていった。
「いや……」
わたしは震える声を漏らす。見えないのに、アストラが傷付いていることだけは分かった。
「これでいいのよ」
スカビオサは、萎れていく花を見つめながら静かに笑う。
「可愛いグローリー」
黒い指先が、そっとわたしの頬へ触れた。
「夜へ近付くのはおよしなさい」
ぽたり。気付けば、わあたしの頬から涙が零れ落ちていた。
「だい……じょうぶだ……」
嘘だ。苦しそうなのに! 声が掠れているじゃない!
わたしはぎゅっと唇を噛む。東の空は、もうほとんど白かった。夜が終わる。アストラの気配も、少しずつ遠くなっていく。
「……っ」
わたしはぎゅっと唇を噛んだ。スカビオサは、萎れていくアストランティアへ最後に視線を落とす。
「可哀想な星の王子様。朝へ手を伸ばしたばかりに、傷付いてしまったのね」
それから、魔女はわたしへ優しく微笑んだ。
「忘れてしまいなさい。それが互いの幸せよ」
黒い霧が、足元からゆっくり広がる。
「また会いましょう」
最後に、甲高い笑い声だけを残してスカビオサの姿は、朝の庭から静かに消えていった。
涙がいくつも頬を伝って流れていく。雫が、ポタリと枯れたアストランティア の花弁へ落ちた。すると、黒く染まっていた花弁が、キラリと淡く光る。
「……え?」
驚いて目を瞬いた。淡い光が、花の中で静かに揺れている。けれど、それは一瞬だった。
光はすぐ消え、アストランティアは再び静かに萎れてしまう。
それでも、次の日も、また次の日も、グローリーは、侍女の目を盗み、朝の庭へ通い続けた。朝露の残る時間。白い朝顔の咲く庭で、枯れた花へそっと触れる。
「おはよう、アストラ」
返事はない。夜の王子は、あの日以来現れなかった。それでも、毎朝明るく話しかけた。
「今日は少し暑いですね」
「朝顔がいっぱい咲きました」
「星をわたしも、見てみたいです」
話しながら、気付けば涙が零れる。その雫が、アストランティアの花へ落ちるたび、花はきらきらと輝いた。
そしてーー数日後。
黒く染まっていた花弁は、少しずつ白を取り戻し始めた。淡い光も、前より長く残るようになっていた。
「……戻ってる!」
わたしは嬉しくて、花に触れる。
「よかった……」
朝風が吹きぬけ、白く戻った花弁が、しゃらりと揺れた。
ある朝、いつものように庭へ出ると、そこで足を止める。朝顔の隣には、元の姿を取り戻したアストランティアが、朝露を纏いながら静かに咲いていた。そして……。
「……泣きすぎ」
不意に、聞き慣れた低い声が落ちた。ぱっと顔を上げて辺りを見回すけれど、 やっぱり姿は見えない。
「アストラなの!?」
嬉しさで声が裏返る。
「……うるさい」
でもその声は、少し笑っているみたいだった。ふわりとアストランティアを手のひらで包む。
「よかった……! もう会えないのかと……」
「……平気だって言っただろ」
即座に返ってくるその声が、 前より少し近く感じた。
「おまえが毎朝泣くから」
「え? アストラ……もしかして、聞こえて?」
グローリーがきょとんと瞬きをする。夏風が朝顔とアストランティアを同時に揺らす。
「……おまえの涙、呪いを弱くするみたいだ」
グローリーは目を丸くした。
「ええっ!?」
「大声出すな」
「だ、だって……!」
胸がどくどくとうるさい。わたしの涙が? 魔女の呪いを? 信じられなかった。けれど、白く戻ったアストランティアは、朝露を受けながら静かに輝いている。
「……変な姫」
アストラが小さく呟く。
「泣いてるだけで呪いを消すとか、 聞いたことがない」
「わ、わたしだって知りません!」
思わず言い返すと、見えない夜の向こうで、小さく笑う気配がした。
「けど……助かった」
それから、グローリーは毎朝、庭へ通うようになった。朝露の残る時間。夜明けが終わる前の、ほんの短い時間だけ。それでも、アストラと話す時間はかけがえのないものになっていた。
「今日は雲が少ないです」
「そうか」
「夜の空も綺麗でした?」
アストラが静かに答える。
「星が多かったよ」
「いいなあ……」
羨ましくて、空を見上げる。朝の空には、もう星は残っていない。
「空には、天の川がある」
「侍女から聞いたことがあります。なんでも夏が一番綺麗に見えるのだとか」
毎朝。二人は、花を挟んで話をした。わたしは朝の話を。朝焼けの色や雨上がりの匂い、朝露の冷たさ。
アストラは夜の話を。月明かり、星祭り、夜風、深夜の静かな城。そして時々、魔女スカビオサのこと。
「夜は怖くないのですか?」
ある朝、ふと尋ねると、アストラは少し黙った。
「……昔は。でも今はーーそうでもない」
なんだか胸が、どくりと跳ねた。




