第一話 「魔女の祝福」
「星の名を持つ王子……なんて美しい」
老いた影は、喉の奥で濁った笑い声を転がした。
痩せ細った黒い指が、揺り籠へ忍び寄る。
まるで腐った枝が、赤子の温もりを探しているようだった。
小さな王子は、夜空みたいな瞳で魔女を見上げている。
「日の国へ行く? ならばおまえは、夜だけに咲く光となれ! 朝日を浴びれば、消えてしまうほどに!」
*****
♡
柔らかな光だった。
まだ何も知らない赤子の姫は、白い揺り籠の中で小さく目を瞬く。窓の向こうでは、朝焼けが空を淡く染め始めていた。
人々は笑う。花の香りと優しい声、温かな腕に包まれながら。世界は、祝福で満ちていた。
「グローリー様」
「なんて愛らしい……」
「まるで朝露みたい」
東の国に近い、日の国の王宮は、姫の誕生を祝う声で溢れていた。グローリー·モーニング。
“朝の輝き”という名を与えられた、小さな愛らしい姫。王は笑い、王妃は涙を浮かべて姫を抱き締めていた。
「夜の国の王子も、きっと素晴らしい子なのでしょうね」
王妃が優しく言う。
「ああ」
王は静かに頷いた。
「この子達が、二つの国の未来になる」
夜の国と、日の国。
長く争い続けてきた二つの大国は、生まれたばかりの子ども達を許嫁として結び、平和を誓ったのだ。
城中が--いや、国中が祝福に包まれていた。
白い花びらが宙を舞い、朝の鐘が祝福のように鳴り響く。
——だから、誰も気付かなかった。部屋の隅--朝日が届かない影の中で、一人の魔女が静かに嘲笑っていたことを。漆黒のドレスに深い紫の瞳……夜みたいな笑み。
『魔女』スカビオサは、揺り籠の中の姫を見下ろす。
「朝の輝き……なんて醜い!」
細い指先が、赤子の頬へそっと触れた。
死人の指先のような冷たさが、柔らかな肌をゆっくりとなぞる。
「……ならばおまえは、朝にしか咲けぬ花となれ!」
その瞬間だった。
窓の外で、一陣の風が吹き抜けると、朝露が 白い花弁からポタンと零れ落ちた。赤子の姫は、何も知らないまま小さく笑う。そして遠い夜の国でもまた、一人の王子へ、同じように呪いが落とされていた。
*****
☆
窓の外では、星降る夜が静かに広がっている。
夜の国--星々へ祝福されたその国では、第一王子アストラ·ナイトの誕生を祝い、星祭りの最中だった。王宮の天井には無数の硝子星が吊るされ、深い青の灯りがキラキラと夜を照らしている。人々は笑い、杯を掲げ、生まれたばかりの王子を祝福していた。
「星の子だ」
「夜の加護を受けておられる」
「きっと偉大な王になる」
祝福の声が響く中、揺り籠で小さな王子アストラ·ナイトが静かに眠っていた。夜空みたいな瞳、銀に近い黒髪。星の花『アストランティア』から名を取った、夜の国の第一王子。
「日の国の姫も、お健やかだそうです」
側近が王へ頭を下げると、王は満足そうに頷いた。
「これでいい」
「夜と朝は、次の世代でようやく手を取り合える」
人々は歓声を上げた。夜の国と日の国。
決して交わらないと言われてきた二つの国が今、星の王子と朝の姫が生まれたことで世界は変わるはずだった。——本来なら。
「愚かだこと」
不意に、女の声が落ち、王宮の灯りが、一瞬だけ揺れた。黒い霧が、音もなく広がっていき、甘い祝福の空気が、ゆっくりと冷えていった。人々の笑い声が、ひとつ、またひとつと消えていく。
王が顔を上げた。
「……誰だ」
返事の代わりに、夜風が吹き抜ける。
その奥に--黒いドレスの女が、静かに立っていた。
『魔女』スカビオサ--夜の森へ住む、呪いの魔女。
「夜と朝が結ばれるですって?」
魔女は嗤う。
「そんなこと、叶うはずがないでしょう」
黒い指先が、揺り籠の中の王子へ伸びた。王妃が息を呑む。
「やめ——」
「星の名を持つ王子……なんて美しい」
魔女は腐った枝のような両の手を大きく広げ、喉の奥でくぐもった笑い声を漏らした。
「日の国へ行く? ならばおまえは、 夜だけに咲く光となれ! 朝日を浴びれば、 消えてしまうほどに!」
スカビオサが言い放った瞬間、王子の身体から、淡い黒い光が溢れ出した。王宮中へ悲鳴が響く。けれど、揺り籠の中の小さな王子だけは、まるで星を見つけたみたいに、静かに目を開いていた。
黒いドレスの裾が、夜風に溶けるように揺れた。
夜と朝。それは、決して交わってはならないもの。
光は夜を終わらせる。朝は星を空から消し去ってしまう。
「アストラ!」
王妃が震える声を上げ、王は即座に剣へ手を伸ばした。
「魔女!!」
だが、スカビオサは笑うだけだった。黒いドレスの裾が、夜風の中でゆっくり揺れる。
「あら、嫌だ。そんな物騒なもの、私に向けないでちょうだい」
老いた魔女は、困ったように肩を竦める。次の瞬間、王と騎士たちの剣が、熱した蝋のように崩れ落ちた。
床へ滴った鉄は、じゅう、と嫌な音を立てる。
「安心なさい……死にはしないわ……」
魔女は揺り籠を覗き込み、小さな王子へ囁く。
「ただ--朝へ辿り着けなくなるだけよ。フフ……永遠にね」
王妃の顔から血の気が引いた。
「なぜ……? どうしてこんなことを……!」
魔女は静かに目を細める。夜のように冷たい瞳だった。
「夜と朝は交わってはダメ。それを教えてあげるのよ」
次の瞬間、王宮の灯りが一斉に消える。
悲鳴、怒号、皿の割れる音。けれど黒い霧が晴れた頃には、魔女の姿はもう跡形もなく消えていた。
残されたのは、泣き崩れる王妃と、静まり返った夜の王宮だけ。
——夜明け。東の空が、ゆっくり白み始める。
「アストラ」
王妃は震える手で、王子を抱き上げた。
「大丈夫よ! 大丈夫だから……」
その時だった。窓から差し込んだ朝日が、小さな王子へ触れる。
「……っ!?」
王妃が息を呑んだ。王子の身体が、砂みたいに淡く崩れ始めていたのだ。星が消えるように--。
王は顔色を変える。
「カーテンを閉めろ!!」
騎士達が慌てて窓を塞ぐ。朝日が遮られた瞬間、崩れかけた光はゆっくり元へ戻っていく。
誰も声を出せなかった。王妃は、小さな王子を強く抱き締める。まだ何も知らないアストラは、その腕の中で静かに眠っていた。
——こうして。
夜の王子は、朝を失った。
*****
♡
同じ頃、遠く離れた日の国でもまた、不穏な空気が広がっていた。
「姫様が目を覚まされません」
「静まれ! まだ夜が明けきっていないからだ」
王宮中が慌ただしく動き回る。生まれたばかりの姫、グローリー·モーニングは夜の間、まるで花が閉じるみたいに眠り続けていた。
けれど、東の空へ朝日が差し込んだ瞬間だった。ふわりと、姫の睫毛が震える。
「……あ」
王妃が小さく声を漏らした。朝の光を受けながら、小さな姫はゆっくり目を開く。朝焼けみたいな瞳だった。
「グローリー……!」
王妃は涙ぐみながら姫を抱き締める。けれど王は、静かに顔を曇らせていた。
夜の間、何をしても目を覚まさなかった小さな娘。
そして朝日が昇った途端、まるで“咲く”みたいに目を開いた。
——魔女の呪い。その言葉が、誰の胸にも重く落ちていた。
「……夜の国へは」
王妃が不安そうに呟く。
「このことは、まだ伏せろ」
王はしばらく黙り込んだあと、小さく息を吐いた。
「だが……両国の婚約は続ける」
王は窓の外を見る。つい先ほどまでは、誰もが祝福の声をあげていたのに--。
「夜と朝を、再び争わせるわけにはいかない」
王の声は静かだった。けれど、その瞳には消えない不安が滲んでいる。揺り籠の中で、小さなグローリーは何も知らず笑っていた。
その頃、遠い夜の国では、朝日を避けるように、王子が深い眠りへ落ちていた。
*****
☆
それから数年後--。
夜の国の王子は、夜の中だけで育てられた。朝日を遮る分厚い黒いカーテン、朝日を通さない硝子、夜明け前には必ず閉ざされる扉。
王宮の人々は皆、小さな王子へ細心の注意を払っていた。
「アストラ様」
「そろそろ夜が明けます」
「…………」
幼いアストラは、窓辺から静かに空を見上げていた。東の空が、少しずつ白んでいく夜の終わり。星が消えていく時間だ。
「ねぇ、朝ってそんなに危ないの?」
侍女たちは困ったように目を伏せた。
「……お身体に障りますので」
「ふうん」
王子はそれ以上聞かなかった。けれど、白み始める空から、どうしても目を離せなかった。
まるで、見てはいけないものほど美しく見えるみたいに。
*****
♡
一方、日の国では。
「姫様、まだ駄目です!」
「あと少しだけ! ね、いいでしょ?」
小さな姫が、裸足のまま庭を駆けていく。朝露を散らしながら笑う姿は、本当に朝の花みたいだった。
グローリー·モーニング。"朝しか咲けない姫"。
夜になる頃には、花が閉じるみたいに眠ってしまう。
そのためグローリーは、一度も夜空を見たことがなかった。
「星って、どんな色なの?」
幼い姫が問いかける。侍女達は少しだけ困った顔をした。
「きらきらしておりますよ」
「朝露みたいに?」
「ええ」
「わたしも、見てみたいわ」
けれどその願いは、決して叶わなかった。夜になる前に、姫は必ず眠ってしまうから。
*****
——そして。
二人が初めて“声”を交わしたのは、七歳の夏だった。
七歳の夏。日の国の庭では、朝顔が咲き始めていた。
まだ朝露の残る早朝……。
グローリー·モーニングは、侍女達の目を盗んで一人庭へ出ていた。
「綺麗……」
白や薄紫の朝顔が、朝の光を受けて静かに揺れている。夏の朝はまだ柔らかい。空は淡く白み始め、夜の名残みたいな星が、遠くで一つだけ瞬いていた。
グローリーは嬉しそうに屈み込むと、花弁へそっと触れた。
触れた花弁が少し揺れた時、不意に、声がした。
「おい」
グローリーはぱっと顔を上げる。けれど、誰もいない。
「……え?」
朝の庭は静かなままだ。グローリーは、とっさに空を見上げる。
「上じゃない。前だ」
また声がする。少し低くて、不機嫌そうな声だ。グローリーはきょろきょろ辺りを見回した。白い回廊、緑の上に落ちる朝露、揺れる朝顔。
風もないのに、目の前の『星の花』アストランティアだけが揺れていた。
「だ、誰ですか?」
「……何で見えない」
今度は相手が戸惑った声を出す。花弁の奥から、ため息みたいな声が落ちてきた。グローリーは小さく瞬きをした。見えない?
「えっと……」
朝顔の揺れる庭で、幼い姫は恐る恐る口を開く。
「そちらも、 わたしが見えないのですか?」
それから--。
「……見えない」
不思議そうな声が返ってきた。グローリーはそっと立ち上がる。声は確かに聞こえる。すぐ近くにいる気配はするのに、姿だけが見えなかった。空気へ向かって話しているみたいだ。
「あなた、誰?」
「先に名乗れ」
「む……」
少しむっとする。けれど声の相手は、本当に不思議そうだった。グローリーは小さく胸を張る。
「わたしはグローリー·モーニングです」
朝の国の姫として、教わった通り綺麗に名乗る。
すると。
「……グローリー?」
声が小さく止まった。
「日の国の?」
「そうです!」
「…………俺はアストラ」
少しだけ低くなった声が、夏の朝へ静かに落ちる。
「アストラ·ナイト」
星の名を持つ、夜の王子だった。
「……夜の国の?」
グローリーはぱちぱちと瞬きをする。その名前は知っていた。幼い頃から、何度も聞かされてきた名前。
——未来の婚約者。けれど、実際に話したのは初めてだった。
「本当にいたのですね」
思わず零すと、向こうで少し嫌そうな沈黙が落ちる。
「幽霊みたいに言うな」
「だって見えません」
「おまえも見えない」
即座に返されて、グローリーは少しだけむっとした。
「……変なの」
「それはこっちの台詞だ」
夏の風が吹き抜ける。朝顔が揺れ、朝露がきらりと光った。
「夜の国って、本当に星が近いのですか?」
グローリーは興味津々で問いかける。すると、少しだけ間が空いた。
「……近くはない。でも、いっぱいある」
「いいなあ……」
グローリーは空を見上げる。東の空はもう白い。きっと星は、もう消えてしまっている。
「わたし、一度も見たことないのです」
「星を?」
「夜空です。夜になると、眠ってしまうので」
今度は、アストラが黙る番だった。遠くで夏鳥が鳴いている。
「……俺は、朝を見たことがない」
グローリーは目を丸くする。
「え?」
「朝日」
低い声が、少しだけ遠く聞こえた。
「見たら死ぬって言われてる」
夏の朝風が、ふわりと吹き抜ける。グローリーは何も言えなかった。
『夜を知らない姫』と『朝を知らない王子』決して交わらないはずの二人は、姿も見えないまま、初めて同じ秘密を知った。
「あなたは朝を知らなくて、わたしは夜を知らない」
「…………」
「半分ずつみたい」
「……変なこと言うな」
少しだけ困ったみたいな声が返ってきた。グローリーはくすっと笑う。
「でも--わたし、星を見てみたいです」
朝露へ触れながら、空を見上げる。
「…………」
「アストラの見る夜空」
夏の空は、少しずつ明るくなり始めていた。夜明けが近い。
「じゃあ、俺は、おまえの朝を見てみたい」
グローリーは目を丸くした。『朝』毎日見ている、当たり前の景色。けれど、夜しか知らない王子には、きっと特別なものなのだ。
「……ふふ! では交換ですね」
「交換?」
「わたしが朝を教えて、あなたが夜を教えてください」
朝顔が、しゃらりと揺れた。
「……分かった」
少しだけ照れたみたいに、夜の王子はそう答えた。
すると、不意に空気が冷える。朝の庭なのに、夜みたいな風が吹き抜けた。グローリーが小さく肩を震わせる。
「……アストラ?」
返事がない。代わりに、遠くで女の笑い声が響いた。
——くすり。喉を撫でるみたいな、冷たい笑い声。
「っ……!」
グローリーは咄嗟に振り返る。けれど、誰もいない。朝顔の蔓の隙間で、星の形をした花だけが静かに揺れていた。
「アストラ!」
胸がざわりと音を立てる。慌てて呼ぶと数秒遅れて、小さく声が返った。
「……いる」
けれどその声は、先程よりずっと遠かった。
「どうしたのですか?」
「静かに」
初めて、強い声だった。グローリーは息を呑む。
「え……」
「そのまま動くな」
夏の朝、白んでいく空。
姿の見えない王子の向こうで、何かが、静かに笑っていた。
--夜明け前の、三日月のように。




