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最終話 「朝と夜が出会う日」

 黒い影が、わたしの前へ音もなく降り立った。

黒い髪、夜空を映したような衣。

 

 ずっと、本当にずっと。会いたいと思っていた人だった。

「……アストラ」

 声が震える。初めて見る姿なのに、不思議とずいぶん前から知っている気がした。アストラは振り返らない。

ただ、わたしを庇うように立っているその背中だけが見えた。

 

 アストラは右手を上げていた。飛んできた無数の硝子の欠片は輝く光となって広間の床にキラキラと砕け散る。広間中へ降り注ぐ光に、皆が息を呑む。騎士達も、貴族達も、国王も、誰もがその姿を見つめていた。

 

 夜の王子。朝の国へ現れた、星の名を持つ王子を。

 

「グローリー……」

 不意に、アストラが呟いた。その声はどこか震えている。

「アストラ?」

 わたしは目の前の背中へ問いかける。すると、アストラはゆっくり振り返った。初めて見る青い瞳が、ただ――真っ直ぐ、射抜くように向けられる。

 

 初めて本当に目が合った。ずっと……声しか知らなかった相手と。


「……何で……言わなかった」

 ずっと我慢していたような怒った声だ。

「何年一人で抱えてた」

 

 胸が痛いのに、どうしてか今は少しだけ笑いたかった。

「ごめんなさい。だって、」

 涙が零れそうになる。

「反対されると思ったから」

 アストラは、盛大なため息を吐いた。

 

「当たり前だ」

 広間が静まり返る。魔女との決戦の最中だというのに、王子と姫は、まるで長年の喧嘩の続きをしているみたいだった。

 

 その様子を見て、崩れたスカビオサの顔が、憎しみに歪む。

「やめろ」

 かすれた声だった。黒い煙が消えていく。

「やめろ……!」

 紫の瞳から初めて一滴の涙が零れた。

「やめろ……!」

 

 魔女は憎しみと悲しみと、どうしようもない何かを宿した瞳でわたし達を見つめていた。


「どうして……どうして諦めないの」

 

 広間へ落ちる静かな問い。


「朝は夜を消す。夜は朝に生きられない。そんなの当たり前でしょう」

 

 黒い煙が舞う。

「なのに――どうして一緒にいようとするの」

 わたしは黙って聞いていた。アストラも何も言わない。ただ、わたし達は並んで立っていた。

 

 その姿を見て、スカビオサの瞳が揺れる。

「壊れるのよ。朝と夜が交わればどちらかが傷付き、どちらかが消える」

 

 まるで自分へ言い聞かせているようだった。何度も何度も繰り返すスカビオサの前に、わたしは一歩踏み出す。アストラが何か言いたそうにしていたけれど、わたしは『大丈夫』と首を振った。

 

 ずっと呪いをかけていた魔女。ずっと騙していた相手。

 

「それは、違います」

 

 スカビオサが顔を上げる。

「確かに、傷付くことはあるし、泣くこともあります」

 

 あの数年間を思い出す。毎朝の嘘、減っていく会話、寂しそうなアストラの声。全て痛かった。それでも、涙を浮かべながら、にこりと笑う。

 

「でもね」

 アストラの方を見る。青い瞳と目が合う。

 

「それでも会えてよかったの」

 朝の姫は言った。夜の王子へ何年も伝えたかった言葉。

「あなたにも、きっと誰かいたのでしょう?」

 

「……何を知ったようなことを、お前のような小娘に何が分かる?」

 

「分かりません。」

 

 本当に知らないもの。スカビオサが昔何を失ったのか、誰を失ったのか何も知らない。ただ、ずっと不思議だった。どうしてこの魔女は、こんなにも朝と夜を憎むのだろう、どうしてこんなにも、二人を引き離そうとするのか。

 

「でも本当に何もなかった人は、そんな顔をしないと思います」


 黒い煙が揺れ、スカビオサの唇が震えた。何か言おうとして言葉にならない。ぽたりと涙が落ちた。

 

「……嫌だっただけよ」

 

 広間の誰にも届かないくらい小さな声。


「朝が来るたび、終わるのが」

 

 きっとこの人にも誰かいたのだろう。朝と夜のように

決して一緒にはいられない誰かが。失う前に壊そうとした。誰も信じないように、誰も願わないように。


「馬鹿だな」

 

 アストラが言った。広間中の視線が集まる。夜の王子は、いつものようにぶっきらぼうだった。


「……え?」

 思わずわたしまで聞き返す。

「終わるから嫌だった? だから最初から無くしたのか。余計なお世話だよ」

 

 スカビオサの瞳が見開かれる。広間へ朝日が差し込んだ。まっすぐに白く優しく。黒い煙が、朝の光へ溶け始める。魔女 スカビオサは顔を上げた。


 スカビオサに残された力は、ほとんど無いようだった。ただ、朝日の中で窓から差し込む光を受け入れている。わたし達を見つめながら。

 

「……わたしの負け」

 スカビオサはゆっくり目を閉じた。

「まさか、朝露と恋なんかに負けるなんてね……“朝の輝き”……」

 

 消え行く中、スカビオサはアストラを見た。

「星の王子様……。大事になさい」

 アストラは眉をひそめる。

「言われなくても」

 

 スカビオサはくすりと笑っていた。朝日がキラキラと差し込む。


「さようなら」

 最後にそう呟いて、魔女スカビオサは、朝の光の中へ消えていった。


 長い夢から覚めた――そんな感覚がする。最初に動いたのは、わたしだった。ほっと息を吐くと、安心なのか疲れからか分からないけれど、全身から力が抜けた。


「グローリー!」

 お母様の声。次の瞬間には王妃であるお母様に抱き締められていた。

「あなたは、無茶をして……!」

 声が震えている。泣いているみたいだった。

「ごめんなさい」

 その向こうでは、お父様が額を押さえていた。国王としての威厳など、どこかへ消えている。

「後で話を聞こう」

 

 怒っているというより、心底心配していたらしい。

 「はい」

 素直に頷く。きっと長い話になるだろうから。とても、とても長い話。

 

「……おい」

 聞き慣れた声がした。どくん……心臓が跳ねて、振り返ったそこには、アストラが立っていた。夜空みたいな黒髪、青い瞳……ずっと想像していた人。想像より少しだけ不機嫌そうだった。

 

「本当に、アストラなの?」

 名前を呼ぶと、王子は盛大なため息を吐いた。

「そうだよ、グローリー……。終わったら話せって言ったよな」

「あ」

 すっかり忘れていた。

「で、隠してたのは、コレか」

「はい」

 恐る恐る答える。


「危ないだろ! 一人で抱え込みすぎ」

 広間へ響き渡る声。今までで一番大きな声だったと思う。わたしは思わず肩を震わせる。アストラは本気で怒っていた。

 

 たぶん、今までで一番。でも、そんな王子を見てわたしは、なぜだか笑ってしまった。だって、怒られているのにどうしようもなく嬉しかったのだ。ちゃんと会えたことが、ちゃんと隣にいることが。ただ、それだけが嬉しくて。


「……グローリー」

 

 お父様の声だった。いけない! はっとして振り返る。国王であるお父様は、深いため息を吐いていた。それからゆっくりアストラを見る。広間中の視線が集まった。突然現れた見知らぬ青年――夜の王子。けれど誰も口を挟まない。

 

「まずは礼を言おう。娘を守ってくれたことに感謝する」

 アストラは少しだけ目を見開いた。それから、小さく首を振る。

 

「当然のことをしただけです」

 ぶっきらぼうな返事にお父様は笑った。

「そうか……だが、今度からは二人とも相談してくれ」

 

「娘は一人で抱え込む」

 わたしは目を逸らした。反論できないから。

「まあ、君も同じ顔をしているが」

 今度はアストラが黙る番だった。

 「……」

 図星だったらしい。広間のあちこちから、小さな笑い声が漏れた。お父様はもう一度ため息を吐く。


「全く……」

 呆れたように、けれど、どこか安心したように。

「よく似た二人だ」


 *****


 呪いが解けたその夜、わたしは一人で庭へ出ていた。

正確には、一人で出ようとしていた。

 

「姫様!」

「お待ちください!」

「夜は危険です!」

 

 侍女達が慌てて追い掛けてくる。でも、今さら止まるつもりはなかった。十五年間、夕刻から夜になると眠っていたのだ。星も、月も、夜風も。一度も見たことがなかった。

 

 そんなの! 我慢できるわけないじゃない! 

「少しだけです!」

 振り返って言う。

「少しだけ見たら戻りますから!」

 

 もちろん、誰も信じてくれない。侍女達はさらに慌てた。


「大丈夫だ」

 低い声が響き、侍女達が一斉に振り返る。回廊の柱にもたれるようにしてアストラが立っていた。夜の中にいるのに、不思議なくらい自然だった。

 

「で、ですが……!」

 侍女の一人が慌てる。アストラは肩を竦めた。


「俺が見てるから」

 

その一言に侍女達が固まり、わたしも固まる。本人だけが平然としていた。


「何かあったらすぐ戻す。だから行ってこい」

 青い瞳がこちらを見る。少しだけ呆れたように、少しだけ優しく。胸がどくりと鳴った。

 

 十五年越しの夜、初めて見る夜空。そして――初めて隣に立つ夜の王子。わたしは思わず笑う。

 

「はい!」

 

 それはきっと、今までで一番嬉しい返事だった。庭へ続く石畳を駆け出そうとして、わたしはふと足を止めた。

「アストラ!」

 振り返ったアストラは不思議そうな顔をしている。

「……? どうした」

 

 八年間、声だけだった。姿も見えなくて、触れることもできなくて、アストランティアの花を挟んで話していた。だから、わたしはそっと手を伸ばす。

 

「アストラ」

 わたしは彼の手を握った。あったかい、思わず息を呑んだ。だって本当にアストラがここにいる。当たり前のことなのに、胸がいっぱいになった。

 

 アストラも固まっていた。珍しく言葉が出てこないらしい。

「……おい」

 少し遅れて声が落ちて、ふとアストラを見上げると耳がちょっとだけ赤いような気がした。アストラは夜だから分からないと思っているのかもしれない。ちゃんと見えていることは黙っておいてあげる。

 

「何ですか?」

 わたしはニコニコ笑う。するとアストラは盛大にため息を吐いた。でも、ぎゅっと握った手は離さないでいてくれる。

「グローリー……転ぶなよ」

 ぶっきらぼうな声なのに、優しい。握り返された手が少しだけ強くなって、それだけで十分だった。


 初めて見る夜空の下で、『朝の姫』と『夜の王子』は並んで庭へ歩き出した。夜の庭に出た瞬間、わたしは立ち止まった。

 

「……わあ! すごい! アストラ! 見て下さい!」

 思わず声が漏れる。ただの空なのに、昼間とは全然違う。深い紺色の海みたいな空だ。そこに、数え切れないほどの星が輝いていた。

 

「これが……」

 胸がいっぱいになる。

「夜空……」

 アストラは何も言わない。ただ、隣に立っていた。

 わたしは空を見上げたまま小さく笑う。

「アストラのお話の通りね! 星って本当にあったんだ」

「何だそれ」

 呆れた声が返ってくるけれど、少し笑っている気もした。

「だって」

 わたしは星空を見つめる。

「ずっとお話でしか知らなかったから」

 

 天の川、流れ星、月明かり……全部。アストラが教えてくれた。その時、夜空を横切るように、白い帯が伸びていることに気付く。

 

「あれは何でしょうか?」

 指を差す。すると、アストラが空を見上げた。

「ああ、天の川だ」

 わたしは目を見開く。天の川――何度も想像した景色。


「綺麗……」

 

 それしか言えなかった。夏の夜風が吹き、花々が揺れる。わたしはそっとアストラを見る――ようやく見えた横顔、わたしがずっと会いたかった人。

 

 アストラが気付いてわたしを見下ろす。青い瞳と目が合った。

「何だ」

 わたしは笑う。今度は隠さずに、嘘もつかずにちゃんと素直なまま。


「わたし」

 手を握り直す。離れないように確かめるように。

「アストラがいてくれて良かった」

 

 夜の王子は珍しくすぐには返事をしなかった。夜の静けさの中で、わたしは握った手へ視線を落とした。

 

 ずっと言わなければならないことがあった。ずっと胸につかえていたこと。

 

「あのね、アストラ」

 呼ぶと隣から「ん」と短い返事が返ってくる。昔みたいだった。朝顔の前で話していた頃みたい。だから余計に苦しくなる。


「ごめんなさい」

「何が」

 泣きそうになる。

「星の話はもういいって言ったの」

 天の川が静かに瞬いている。

「見たくないって! 興味がないって! 全部嘘でした」

 

 思い出すだけで胸が痛む。あの日のアストラの声が寂しそうで。今でも、


「本当は」

 わたしは空を見上げた。無数の星たち、ずっと見たかった景色。


「ずっと見たかった」

 声が震える。

「アストラが見ている夜を、知りたかった」

「ずっと」

 しばらく返事はなかったから、怒られるかと思ったけれど、返ってきたのは大きなため息だった。


「知ってるよ」

 思わず振り返る。

「え?」

 アストラは夜空を見上げたまま言う。

「下手なんだよ、おまえ」

 わたしは固まった。アストラが少しだけ笑う。

 

「本当に興味が無くなった奴は」

 青い瞳がこちらを向く。

「毎朝話しかけたりしない」

 その言葉に、胸の奥で何かがほどけた。八年間積もったものが。


 わたしはアストラへ飛び付いていた。

「お、おい!? グローリー」

 夜の王子が珍しく慌てる。今だけは、離したくなかった。会いたいのに会えなくて、それでも毎朝話してきた。

「グローリー」

 困ったような声が落ちてくる。わたしは首を振った。アストラの胸へ顔を埋める。泣いているのか、笑っているのか自分でも分からない。

「お願い、少しだけ! 少しだけだから」

 アストラは何も言わなかった。しばらくして、ゆっくりとわたしの背中へ腕が回った。

 

 アストラは温かかった。ちょっとドキドキして、安心する。

「……少しだけだからな」

 ぶっきらぼうな声だったけれど、抱き締める腕は、全然少しじゃなかった。


「そうだ! アストラ!」

 アストラは、回した腕を少し緩めて、わたしを見下ろす。

「ん?」

 今までで一番幸せな気持ちで、言った。


「お誕生日おめでとう」


 一瞬、アストラが固まった。

「……は?」

 間の抜けた声だった。

「だって」

 指を空へ向ける。その先には天の川がキラキラと優しく光っている。

「今日はわたしの誕生日でしょう? それってアストラも誕生日だってことでしょ。アストラは、朝に見えなくても、ずっと耀いてたよ。ほんとに星みたいな人だった。」


 朝の姫の誕生日は終わった。そして、夜の王子の誕生日が始まった。アストラはしばらく黙っていたが、ふっと目を逸らす。やっぱり少しだけ耳が赤かった。

「なんだそれ……そんなの初めて言われた」


 

 見上げれば天の川が夜空を彩っている。朝の姫は初めて夜を知った。そして、夜の王子は初めて朝を連れて星空を見上げていた。


 わたしはアストラを見上げる。

「何だ」

 少し不機嫌そうな声。でももう怖くない。

「夜の国は大丈夫なの?」

 アストラが眉をひそめる。

「何が」

「だって」

 わたしは首を傾げた。

「今日はお誕生日でしょう? 王子がいなくて、平気なのかなって」

 

 アストラは珍しく笑う。

「平気だろ」

 夜空を見上げながら言う。

「今日は、八年ぶりに休む」

 青い瞳が細められる。


 わたしはパチパチと目を瞬く。

「休む?」

「俺にもそのくらいの権利はある」

 アストラはわたしの手を軽く握り直す。


「今夜は、こっちの方が大事だ」

 わたしは固まった。心臓が跳ねたけれど、アストラは自分が何を言ったのか分かっていないらしい。平然と夜空を見上げている。夜の王子は時々ずるい。


 *****


 長い年月をかけて争っていた二つの国は、少しずつ歩み寄っていった。日の国と夜の国。朝と夜は決して交わらない。そんな言葉を信じる者もいた。

 

 朝は必ず夜のあとに訪れる。夜もまた、朝のあとにやって来る。本当はずっと昔から二つの国は同じ空の下にあったのだ。

 

 星の王子と朝の姫が結んだ手は、二つの国も結んでいった。国境は開かれ、人々は行き来するようになり互いの祭りを祝い合うようになった。

 

 いつしか誰もが言うようになる。あの日、一人の姫が魔女へ立ち向かったこと、一人の王子が夜を越えて駆け付けたことを。

 

 

 これは『朝と夜をつなぐ始まりの物語』だと。

長年争い合っていた二つの国は、ついに結ばれた。

 

 朝と夜が出会う場所で――星と朝露が輝く場所で。

 

 誰も知らない物語は、こうして幸せな結末を迎えたのである。


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