第9章 襲撃
鉤の音が消えるより早く、樽の陰から男が出てきた。
フィンは足を止めず、目で数えた。前に二人。板壁の隙間から一人。洗濯紐の垂れた戸口の陰から、さらに二人。五人だ。どの男も、帽子を耳の下まで引いていた。帽子の影で、顔の色がみな同じに見えた。まだ誰も、刃物を抜いてはいなかった。
「止まれ。治安維持隊だ」
男たちは止まらなかった。足音だけが、濡れた石の上で揃っていた。前の二人が、棍棒と荷揚げの鉤を同時に持ち上げた。
残りの三人は、濡れた石を踏んで両側から詰めてきた。彼らの目は、フィンの顔より縄のほうを見ていた。刃物を抜く者は一人もいない。
左手の濡れた縄が、ぐっと重くなった。後ろでエルノの足が石を擦る。縄の端はフィンの手にあり、その先の男は両の掌を胸の前で合わせたまま、倒れまいとしていた。
「フィン」背後でダリオが言った。「そいつは生きてるうちに届けるんだろ」
「そのつもりだ」
壁際に、白い手袋の男が寄っていた。昨夜ケスが屋根から見た男だと、フィンは思い出した。男は手袋の指を一本ずつ伸ばしては、また握った。声は出さなかった。
上から、ケスの声が落ちてきた。
「戸口の陰の二人、縄を見てる」
ダリオが振り向いた。その途端に、フィンの左の肩へ棍棒が落ちた。
乾いた麻袋を石に落としたような音がした。左の腕が一度、ずっと遠くへ行った。フィンは歯を食いしばり、縄を右手に巻き直して、傾いだ体を魚の樽の縁で支えた。肩の奥で、何かがまだ鳴っている気がした。左の指先は、もう自分のものではないようだった。
ダリオが剣を抜いた。髭の揺れより速い抜き方だった。剣の腹が、棍棒を振った男の脇を横から打つ。男は樽の上へ転がり、樽の箍が鳴った。剣の腹が鈍く光って、霧の中に一筋の白い線を引いた。
「いま髭に当たったぞ」ダリオが吠えた。「去年焦がされた髭に、もう一度だ。次はただじゃおかん」
リナは杖を握りしめていた。顔が白く、杖の先が細かく震えている。宿の夜に教わったことを、杖を握ったまま繰り返しているようだった。
「小さく、長く」
声は小さかった。杖の先から細い煙が立った。煙は霧に混じり、前へ出てきた男の靴のまわりに、ふわりと広がった。
男が咳き込んで、片足を宙に上げた。そのまま石の上に尻をついた。目から涙が流れている。
「火は?」リナが叫んだ。「火が出てないじゃない」
「煙だ」フィンは言った。
「煙なの」
ダリオが笑った。「火より効くぞ、リナ。そのまま座らせとけ」
痩せた男が、横の隙間から走ってきた。鼻をすすりながら、荷揚げの鉤を振りかぶる。前歯が一本欠けていた。柄の革は手あかで黒く、袖口から魚の汁が垂れていた。鉤の先が縄を狙って、石畳をがりりと削った。削れた石の粉が、水に溶けて白く流れた。
フィンは、その男の襟を掴んだ。
「離せ」男は鼻を鳴らした。「離せよ、おい」
襟を引くと、男の足が水に滑った。鉤が石の上に落ちて鳴る。すかさず、ダリオの靴がその鉤を踏んだ。
「退け、路地だ!」
背の低い男が怒鳴った。腕が太い。その腕で、魚の樽を一つ蹴り倒した。樽が転がり、塩漬けの匂いが霧の中へ一気に広がった。樽の中から銀色の小魚が一匹跳ねて、水溝へ落ちた。男はその陰を抜けて、板壁の隙間へ消えた。残りの者も、同じ隙間へ逃げた。石畳には、倒れた樽からこぼれた魚の汁が広がり、水溝へ細く落ちていった。
ダリオが一歩踏み出した。
「ダリオさん、囚人のそばに」
フィンが言うと、ダリオは舌打ちをして、足を戻した。
エルノは、そのあいだ一歩も動かなかった。両の掌は胸の前で祈りの形のまま、革紐が白い手首に食い込んでいる。袖口には霧の粒が細かく留まっていた。
逃げる直前、ひとりの男が、ほかの者の耳へ口を寄せた。囁きの中身は、フィンの耳までは届かなかった。ただ、囁かれた男の目が、一度だけ縄の先へ流れた。
(生け捕りにしろ)と囁かれたのだろう。フィンはそう見当をつけた。刃物を抜かなかった理由が、ほかに思いつかなかった。
届いたのは、たぶん縄の先の賢者だけだ。
エルノの首が、そちらへ向いた。ほんの少しだけ。縄の張りが、一瞬だけ変わった。
*
ケスが屋根から降りてきて、倒れた樽の縁に止まった。首を傾けて、路地の奥を見る。
「ほかは逃げた」
「鴉、見てたのか」ダリオが言った。
「見た」
「数は」
「五人いた。残っているのは一人」
ダリオは樽に腰を下ろして、髭の先をつまんだ。靴の踵に、塩漬けの魚の汁が黒く乾きかけていた。樽の箍は、ダリオの尻の下で、まだ小さく鳴っていた。
「リナ、お前の煙は髭の匂いがするぞ」
「ごめんなさい」
「謝るな。髭が泣く」
水溝の縁に、リナがしゃがんでいた。袖から落ちた金貨を、濡れた指で拾っている。
「二枚、あります。ちゃんと」
「数えるのは後にしろ」フィンは言った。
テオが手燭を掲げて、霧の中から出てきた。後ろで見ていたのだ。
「髭は泣きません」テオは正直に言った。「匂いは煙のもので、髭は焼けていません」
「テオ、そういうことは言わんでいい」
フィンは肩を押さえた。腕を上げようとすると、指先まで痺れが走った。
「フィンさん、肩を見せてください」
「あとでいい。舟に乗ってからで」
「あとで、と言う人は、たいてい痛いのを我慢しています」テオは手燭の火を寄せた。「痛いときは、痛いと言ってください。僕には、言われないと分かりませんから」
フィンは手帳を出して、膝をついた。膝の下の石が冷たく、脚を包む布に水が染みた。
樽の横の板に、白墨で数字が三つ並んでいた。十二、十四、十五。魚の数か、銅貨の数か、フィンには分からなかった。数字の下には、濡れた指で擦った跡があった。
「名前は」
「……クラウス」男は樽に背をつけたまま、鼻をすすった。
「仕事は」
「荷揚げだ。ネーベルの舟着きで、鉤を使ってる」
「誰に頼まれた」
「酒場で、金を渡された。前金で銀貨一枚。卓に誰かいたが、顔は見てねえ」
「酒場の名は」
「知らねえ」
フィンは手帳に書いた。『前金銀貨一枚。酒場、奥の卓。顔は見ず』。嘘かどうかは、手帳には書けない。
「頭は」
「頭は逃げた」
「名は」
「知らねえ」
少し離れたところで、イルザが手帳を開いていた。小さな算盤の珠を指で弾き、短い数字を一つ書きつけている。フィンは見ないことにした。
白い手袋の男は、舟着きのほうへ顔を向けていた。
「早く舟へ」と、声を小さくして言った。
フィンは縄の端を、もう一度握った。縄は湿って重く、結び目の固さだけが、いつもどおりだった。
エルノは、クラウスの顔を見ていた。鼻がもう一度鳴るあいだ、ずっと見ていた。それから、賢者は口を閉じた。




