第10章 舟
霧は、舟着きの石段の下にまだ溜まっていた。霧は川の匂いを含んで重く、石段の苔が濡れて黒く光っていた。石段は一段ごとに水の跡の高さが違い、いちばん下の二段は川に半分沈んでいた。どこかで板を叩く音がして、すぐに止んだ。
テオは手燭を石の上に置き、フィンの左の袖を肩まで引き下ろした。布が肌に張りついていて、剥がすとフィンが短く息を吸った。袖の縁は霧で濡れ、布の目に川の水が溜まっていた。手燭の火は風もないのに、川のほうへ細く傾いていた。
「痛いですか」
「痛い」
「はい。聞こえました」
テオは掌を肩の上に当てた。掌は思ったより冷えていて、テオは自分の指先がわずかに震えているのに気づいた。灯の前で覚えた文句を、声を出さずに唱える。掌の下が温まるまで、いつもより時間がかかった。その間、フィンは石段の上の霧を見ていた。
「テオ、効いてるのか、それ」ダリオが樽の上から言った。
「効いているかどうかは、まだ分かりません」テオは正直に答えた。「上手ではないので、少し時間がかかります」
「最初から上手じゃないと言うやつがあるか」
「言わなければ、上手だと思われてしまいますから」
指で押すと、青黒い斑が肩の骨のまわりに広がっていた。斑は指の腹ほどの広さで、押すと赤黒く戻ってくる。斑の端は、手燭の灯の中で紫がかって見えた。骨は外れていない。テオはそれを確かめて、やっと息を吐いた。フィンは押されるたびに歯を食いしばったが、声は出さなかった。
「骨は大丈夫です。打ち身です」
フィンは肩を回そうとして、途中で止めた。
「次は俺の髭だ」ダリオが顎を突き出した。右の端が焦げて縮れ、まだ丸まったままだった。焦げた匂いが、ダリオの動きに合わせて、かすかに流れた。
「髭は、治りません」
「治らん?」
「僕は髭の術を教わっていません。焦げたものは、生えてくるのを待つしかないと思います」
ダリオは黙って、腰の小瓶を振った。中で、少しだけ音がした。髭の焦げた端は、指で触れるとぱさりと崩れた。
「お前は嘘をつかんから、余計に効くな」
エルノは、両の掌を胸の前で合わせたまま、テオの手が肩から離れるのを見ていた。革紐は手首から指の根もとまで巻かれ、結び目はダリオの帯に結ばれている。革紐は霧を吸って色が濃くなり、皮の端が手首の骨の上でわずかに浮いていた。霧で袖が湿り、焦げた二つの跡が濃く見えた。
テオは手燭を取り上げ、賢者のほうへ向き直った。
「賢者様も、どこか痛むところはありませんか」
「ありません」賢者は穏やかに言った。
(本当かどうかは、僕には分からない。この人は、どこででも嘘をつける人だと聞いている)
テオは頷いた。
番屋の若い者が二人、霧の中から駆けてきた。クラウスの鉤を取り上げ、縄を引く。若い者の一人は鉤を布で包み、もう一人は濡れた縄の先を両手で掴んだ。クラウスは一度だけ振り向いて、鼻をすすった。
「頭は」若い者が訊いた。
「逃げた」フィンが答えた。「名は知らねえとさ」
クラウスの背中が、霧の白へ消えていった。
*
昼の四つを回っていた。ネーベルには鐘がない。テオは、川面の白さが少し薄くなったのを見て、そう見当をつけた。石段の上では、荷車の車輪が濡れた石の上で低く鳴っていた。
石段のいちばん下に、川に半分浸かった舟があった。舷の板は霧で濡れて滑り、腰の高さに、水の跡が一本白く残っていた。舟底には川の水が薄く溜まり、板の節の間から、ゆっくり滲み出ていた。艫に白髪の男が腰かけて、麦わらを噛んでいる。日に焼けた首が、麻袋のように太かった。
「親方、八人と荷で、いくらだ」フィンが訊いた。
「金貨二枚。ハウゼンまでだ。川が浅くなったら、そこで降ろす」男は麦わらを噛み直した。「ヤーコプだ。舟の親方はみんなそう呼ぶ」
「舟賃は、参事会持ちだ」
「参事会は、ここにいねえ」
ダリオが笑い、フィンは財布から金貨を二枚出した。リナが横から覗き込み、金貨の縁を指でなぞって数え直した。金貨は霧で湿って、指先に小さな水の粒が残った。
「テオさん、今の、何枚に見えました?」
「二枚に見えました」テオは正直に言った。「数えてはいません」
リナは、さっき自分で数えた指を、もう一度数えた。
フィンは懐から引き渡し状を出し、膝の上で広げた。朱色の丸印が、紙の下のほうで濡れたように光っている。紙の端は手の脂で少し波打っていた。紙は霧を吸って重く、膝の上で音もなく沈んだ。テオは立会いとして、裁きの日にその文面が読み上げられるのを聞いていた。フィンは一行ずつ指でなぞり、手帳の頁と見比べた。
「受け取りの欄は、空だ」フィンは言った。「印がなければ、残りの六枚は出ない」
「六枚が、出ない?」リナが顔を上げた。
「出ないんじゃない。印をもらえば出る」
「印は、どこでもらうんですか」
「白塔だ」
フィンは手帳に、短い字で何かを書きつけた。テオは、それを見ないことにした。
「僕は立会いです」テオは言った。「見たことを、見たとおりに言います」
「それで頼む」フィンは紙をたたみ、懐の内側にしまった。
屋台の方から、ダリオが焼いた鰊を三本持ってきた。銅貨六枚。紙に包まれた鰊は、まだ油の音を立てていた。紙を通して脂の匂いが立ち、霧の中へ細く流れていった。リナが財布の残りを数えて顔をしかめた。脂が紙の端に染み、ダリオの髭にも一滴落ちた。
「髭に魚を入れるな」フィンが言った。
「魚は髭の敵じゃない」ダリオは髭を撫でた。「酒の敵だ」
*
舟に乗ると、思っていたより大きく揺れた。八人と荷の重さで、底板がきしむ。荷の麻袋が踏まれるたびに、鈍い音がした。縄の結び目は、舟底の水溜まりに浸かって黒くなっていた。リナが舷を掴んだ指が白くなり、杖の先が板に当たって、こつんと鳴った。
テオは手燭を膝に置いたが、火は点けなかった。霧の中では、炎は行く先を照らさず、自分の手だけを照らしてしまうからだ。
ダリオは艫のほうへ行き、親方の隣に腰を下ろした。艫の板は、親方の尻で長く磨かれたのか、濡れていても滑らなかった。鴉は竿の先に止まっていた。羽の先から、霧の粒が落ちていた。
「鴉、乗ったか」
「乗った」ケスは首を傾けた。
エルノは舟の真ん中の板に座った。両の掌は胸の前で合わせたままだ。法衣の裾が板の水を吸い、白い布が少しずつ色を変えていった。リナが毛布を一枚、肩に掛けた。賢者は礼を言わず、黙って顎を少し引いた。
フィンは手帳を開き、舟賃の金貨二枚と、囚人の一日分の銅貨十枚を書きつけた。手帳の頁は霧で波打ち、フィンは指で押さえて、字の列を真っ直ぐに戻した。書き終えてから、もう一度懐の紙を出して見た。
親方が竿を岸の石に当てて、舟を押し出した。竿が石を離れるとき、濡れた木の音がひとつ鳴った。舟は少し傾いて、底板がまた一度きしんだ。麦わらが、親方の口の端で揺れた。
白い霧が舳先から流れ込み、岸の杭が一本ずつ消えていった。川の水が舷を叩く音が、一定の間を置いて続いた。
舟は、川霧の中へ、ゆっくりと出ていった。




