第11章 川をのぼる
川霧は、日が高くなるにつれて薄れていった。弥生十九日の朝、舟は川の真ん中を上っている。両岸の枯れ葦は灰色の筋になって流れ、その向こうに白いものが少しだけ残っていた。
葦の根もとには、増水が引いたあとの泥が乾きかけて、細かいひびを作っていた。
艫のほうで竿が川底を突く音が、一定の間を置いて鳴っていた。舷の板は夜露を吸って冷たく、手を置くと木目の溝に水が溜まった。
底板の継ぎ目から、ときどき水がしみ出して、足の下で小さな音を立てた。
フィンは舷に肘をついて手帳を開いた。昨日は霧で数えられなかった分を、今日のうちに書いておく。舟賃、金貨二枚。囚人の一日分の食い扶持、銅貨十枚。昨日の分と、今日の分。
手帳の革の表紙は湿気で少し波打っていた。黒い炭の棒が紐に結ばれて、頁の間から顔を出している。
「親方。今日はどこまで上る」
ヤーコプは艫の板に腰かけ、麦わらを口の端で動かしていた。
日に焼けた首は、白い髪の下で革のように固そうだった。川風が吹くたびに、麦わらの先が小さく揺れた。
「川に聞け」
「川は、答えないでしょう」
「答えねえから、こっちで見るんだ」
フィンは手帳に『川に聞く』と書き、その下に線を引いた。何の役にも立たないと思ったが、線は消さなかった。
親方の数え方では、川の曲がり目と岸の杭を数える。両方が合えば、だいたい当たっている。合わなければ、どちらかが勘違いをしている。そう言って、ヤーコプはまた麦わらを噛んだ。
岸の杭には、春の増水の跡が泥の線になって残っていた。線は杭の頭から指三本ぶんほど下にあった。
*
昼前に、岸の村が見えた。網を干す竿が並び、石の段の上で女が濡れた布を叩いている。舟の音を聞きつけて、子どもが一人、岸を走ってついてきた。
網の目からは川の水が糸を伝って落ち、石段の縁に細い黒い筋をつけていた。
屋根は低く、軒の下には冬の薪が積み上がっていた。雪解けの泥が、石段の縁で乾いて白く筋になっている。
ヤーコプが竿で岸を押すと、舟は石の段の脇に寄った。女が籠を提げて降りてくる。中には、煙で茶色く燻した川魚が束ねてあった。魚の皮は飴色に焼けて、煙の匂いが籠の縁まで染みていた。
「燻したてだよ。八匹で銅貨八枚」
リナが身を乗り出した。麦藁色の髪が、霧の名残で少し湿っている。
「八枚は高いです」
「川の魚は、山では獲れねえからな」ヤーコプが言った。
「五枚」
「七枚」
「六枚」
女は首を振り、結局、銅貨七枚になった。リナは一枚ずつ唇を動かして数えながら渡し、受け取った束の重さを両手で量った。金のことになると、この娘は手を抜かない。
舟の中ほどでは、ダリオが麦粥の椀を膝に乗せ、匙で賢者の口へ運んでいた。髭の右端が、湿気でまた縮れ始めている。椀の縁には、乾きかけた粥の白い膜がこびりついていた。
「口を開けろ、賢者。髭の分だ」
「髭の分は、どのくらいですか」
「三日分だ。残りの分は、お前の酒で払え」
「酒は、もう私には出ませんよ」
「そうだったな。じゃあ、俺が飲む」
匙の上の粥は、すぐに湯気を失った。賢者は口を開けるたびに、ダリオの髭を見た。
ダリオは腰の小瓶の栓を抜き、匂いを嗅いで眉を寄せた。
「川が入ってやがる」
「水が入った酒は、酒じゃない」フィンは手帳から目を上げずに言った。
「酒じゃなきゃ、川だ」ダリオは小瓶を傾けた。「川なら、飲んでも罪にはならねえ」
*
午後、日が川の右岸へ傾くころ、舟の中ほどで声がした。
舟の横腹に当たる水は、昼の光を受けて細かく跳ねていた。
フィンは縄の端を指に巻いて、賢者の隣に座っていた。縄は濡れて重く、指に巻いた跡が赤くなった。川の風が髪を撫でるたびに、フィンは外套の襟を指で押さえた。その向かい側に、白い法衣の女が座っている。膝の上には帳面と小さな算盤があり、女は珠を弾きながら、低い声で話していた。舟の揺れに合わせて、珠がかすかに鳴った。
「ファルク。覚えている? 門の前で、白い布を配られた日のこと」
賢者は、袖の中で指を組み替えた。
「覚えている。君は一枚目を取ろうとして、風で飛ばした」
「飛ばしたのは、あなたでしょう」
「私は二枚目を取った。一枚目を拾ったのは、門番の犬だ」
女の指が、算盤の珠をひとつ弾いた。小さな音がした。
「犬がくわえて、門の内へ入っていったわ。あの日は雪が解けかけて、皆、靴を濡らしていた」
「君だけ、濡れていなかった」
「濡れないように歩いたのよ。それくらいは覚えていて」
舟が岸の杭をかすめ、底板が一度きしんだ。水は舷に寄せては返し、そのたびに板が小さく揺れた。川の水は褐色に濁り、雪解けの匂いがした。冷たい匂いが、舷の下から上がってきた。女は算盤を膝に戻し、少し間を置いてから言った。
「あの冬、上に上がって最初に教わったのは、灯の——」
そこで女は言葉を切った。賢者も黙った。川の水が舷を叩く音だけが、一定の間を置いて続いた。川の光が舷に跳ねて、女の袖口の刺繍を一瞬白く光らせた。
フィンは縄の端を指に巻き直した。川の光の中で、賢者の袖の焦げが二つ、黒く見えた。袖の中で組まれていた指は、いつの間にか止まっていた。
フィンには、その顔をどう言えばいいのか分からなかった。手帳にも、書けるような数字はなかった。
*
夕方、舟は柳の生えた岸に寄せられた。柳の枝が水に垂れ、舫い綱の擦れる音がした。柳の根もとは水に洗われ、白い石がむき出しになっていた。ヤーコプが杭に舫い綱を回し、麦わらを噛みながら一行を見回した。
「今夜はここで泊まる。明日の昼には、川が浅くなる。浅くなったら、ハウゼンで降ろす」
岸の草は露で重く、踏むと靴の底が水を吸った。夕飯は、舟の板に広げた黒パンと乾いた肉で、塩の粒が指に残った。風が冷えて、濡れた外套の裾が脚にまとわりついた。
テオが手燭に火を入れた。霧がなくなったので、炎は岸の草を照らし、濡れた石を照らした。炎の揺れにつれて、石の表面が明るくなったり暗くなったりした。テオは、火の揺れを見て、少しだけ安心したように息を吐いた。
ヤーコプが、低い声で舟乗りの歌を口ずさんだ。
「川は下る 舟は上る
霧が晴れたら 山が見える」
ダリオが、外れた調子で一緒に歌った。リナが笑って、杖で地面を叩いた。歌の節は、櫂の音と合わさって、川の上をゆっくり渡っていった。賢者は歌わなかったが、顎を少し引いて、それを聞いていた。
暗くなりかけた空の下、東のほうに山の線が見えた。雲の下に、青黒い山並みが並んでいる。山の裾は霞に溶けて、どこまでが山でどこからが空か、はっきりしなかった。山の稜は、雪がまだらに残っていた。
「あれが山だ」ヤーコプが顎で東を指した。「明日の夕方までには、ハウゼンだ」
フィンは手帳を閉じた。東の山は、暗くなっていく空の下で、少しずつ近くなっていた。




