第12章 柳の岸
弥生十九日の夜。柳の岸に舟を寄せたまま、ダリオは夜番に立っていた。九つを過ぎた見当である。鐘のない川では、時は腹と星と、テオの手燭の減り具合で測るしかない。
雲の切れ目から、星が三つだけ見えた。水は岸の石を舐めて、途切れずに鳴っている。舟の横腹に当たる水の音は、夜になると大きく聞こえた。冷えた空気が外套の襟から入ってきて、ダリオは太い首をすくめた。岸の草の露が、靴の中まで湿らせていた。遠くで水鳥が一度鳴き、それきり静かになった。
賢者は舟の真ん中の板に座り、毛布を肩にかけていた。両の手は胸の前で、革紐に巻かれたまま動かない。革紐は夜露を吸って、いつもより硬く見えた。結び目はダリオの帯につながっている。目を閉じているのか開けているのか、暗くて分からなかった。舟板は夜露で濡れて、毛布の端が水を吸って重くなっていた。
ダリオは腰の小瓶を抜き、栓を開けて匂いを嗅いだ。川の水の匂いがした。小瓶の首は、指の腹に冷たく湿っていた。昼に舟板の上で蓋が緩んでいたらしい。薄くなった酒は、雪解けの泥の味がした。
「髭の貸しは忘れてねえぞ」
暗がりに向かって言うと、賢者は顔も上げなかった。
「忘れなさい。髭は伸びます」
声は低く、乾いていた。
「伸びるまでの分を、利子つきで返してもらう」
「利子は払えません。この手では」
ダリオは鼻を鳴らし、小瓶に栓をした。栓をしても、川の匂いは指先から抜けなかった。
*
懐から出したのは、石橋の宿で行商人から買った小鋏だった。銅貨十八枚。財布はフィンが預かっているから、あの日の銅貨は自分の懐から出した。小鋏は掌に収まるほどの大きさで、刃の合わせ目に錆の粉が見えた。ダリオの太い指には、柄の輪が小さすぎた。
「テオ、灯を寄せてくれ」
舟の縁に腰を下ろしたテオが、手燭を持ち上げた。炎が小さく震えて、ダリオの右の頬を照らした。川風が吹くたびに、テオは掌で火を囲った。
「灯は持てます。ですが、髭を切るやり方は知りません。手も震えるかもしれません。正直に申し上げます」
「いい、灯だけ頼む」
ダリオは身をかがめ、右の髭の端を指で伸ばした。舟の縁に肘をつき、顔を寄せると、川の冷たい息が頬に当たった。焦げた毛は縮れて、指の腹に固く当たった。髭の先は、乾いた藁のようにばらばらに立っていた。
「どうだ。俺の男前は」
テオは炎を少し寄せて、しばらく見ていた。炎の熱が髭の先に近づくと、古い焦げの匂いが、かすかに立ち上った。舷の向こうで水が鳴っていた。
「左は、まだ男前です。右は、焦げています」
「それだけか」
「正直に言うと、右は今、左より短いです」
ダリオは喉の奥で笑った。舟が揺れて、向こうの毛布の中でリナが寝返りを打った。ダリオは慌てて声を殺した。賢者の顔は暗くて見えなかったが、肩が一度だけ揺れた。
小鋏の刃は、縮れた毛を一本ずつ挟んで落とした。刃が鳴るたびに、テオの灯が小さく揺れた。切れた毛は川の上へ黒く散って、すぐに見えなくなった。
「髭が川へ帰っていく」
「魚が喜ぶでしょうか」
「お前が決めろ」
「分かりません。僕は魚ではないので」
手燭の油は、指二本ぶんほどに減っていた。夜半の見当が近い。舟板の下で、水がまだ鳴っていた。ダリオはフィンを起こして番を渡し、鋏を懐にしまった。フィンは寝ていなかったらしく、手帳を膝に乗せたまま、すぐに目を開けた。
*
弥生二十日の朝、霧は川の上から消えていた。空は薄く晴れて、西の端にだけ細い雲が寝ていた。岸の柳の葉が、朝の光を一枚ずつ拾っていた。舟板の表は夜の湿りがまだ抜けず、指で触ると冷たかった。
朝の飯は黒パンと、リナが岸の女から買った燻製魚だった。燻製魚は皮が飴色に焼けて、裂くと煙の匂いが強く立った。黒パンは固く、川の水で流し込まないと喉に引っかかった。ダリオは腹を裂いて、骨の多さに舌打ちした。舟の上の朝は、煙と魚と濡れた木の匂いで、いつもより重かった。
「八匹で、銅貨七枚」
リナは舟の縁に座り、銅貨を手のひらに並べ直していた。
「一匹あたり、銅貨一枚より少し安いの。安いでしょ」
「少しな」
「少しは大事なのよ」
フィンが手帳を開き、燻製魚八匹、銅貨七枚と書いた。手帳の頁は川の湿りで少し波打っていて、フィンは指で伸ばしてから書いた。
「フィン、魚まで帳面に付けるのか」
「魚も金です」
「魚は魚だろう」
「魚の代金は、金です」
ダリオは魚の身をむしり、匙の上で麦粥に混ぜて、賢者の口へ運んだ。匙の柄は、ダリオの太い指の中で、ひどく細く見えた。賢者は湯気を吹いてから、少し顎を引いて食べた。麦粥は薄く、椀の底に魚の脂が白く浮いていた。
「塩が足りません」
「舟の上で、塩を足す奴がいるか」
「ここでは、いないのですか」
ダリオは匙を置き、手のひらで舟板を叩いた。賢者は黙って、また口を開けた。
リナがテオのほうへ身を乗り出した。
「テオさん、この魚、おいしい?」
テオは魚を一口かじり、しばらく噛んでから答えた。
「しょっぱいです。かなり」
「それだけ?」
「はい。おいしいかどうかは、まだ決めていません」
リナが笑い転げて、杖で舟板を叩いた。笑い声は水の上を滑って、岸の柳に当たって戻ってきた。ヤーコプが竿の先で川底を突きながら、麦わらを口の端で噛み直した。舟の上には煙の匂いが満ちて、誰の袖にもそれが染みていた。
舳先の杭には、ケスが止まっていた。翼をたたんだまま、川上の霧の切れ目を見ている。黒い翼の縁が、朝の光で薄く光っていた。霧が切れた上の空は青く、遠くの鳥が一羽、山のほうへ真っ直ぐ飛んでいった。
「鴉、俺の髭が見えるか」
ケスは首を傾けて、ダリオの顔をしばらく見た。
「見える」
そこで一度、言葉が切れた。
「右が短い」
「鴉も坊主も、正直なのが揃ってやがる」
ダリオは腰の小瓶を振ってみた。中で、薄い酒が重そうに鳴った。風は川の上から緩く吹いて、濡れた袖の端をようやく乾かしていった。
*
昼前、川幅が狭くなった。岸の柳は低くなり、水の色は褐色から、青みを帯びた灰色へ変わっていった。水底の石が透けて見え、舟の影が岸の石の上を滑った。柳の根もとには、増水の跡らしい泥の線が残っていた。舷に寄せる波が、雪解けの泥の匂いを運んできた。
ヤーコプが竿を深く差して、舟の艫で低く言った。
「浅くなってきた。今日の夕方までには、ハウゼンに着く。雲が出る前にな」
舟の底が石をこする音が、一度だけ低く響いた。竿から落ちた水滴が、舷の板に丸く跳ねた。東の山は、もう霞の中の塊ではなかった。稜に残った雪が、はっきりと白く見えた。山の裾には、濃い緑の木が帯のように並んでいた。
ダリオは薄い酒を一口だけ飲んだ。八里の山道は、登り六刻だとヤーコプが言っていた。八里というのが遠いのか近いのか、ダリオには川の曲がりを数えても分からなかった。髭の右端が風で頬を撫でていく。今日は、この髭でも、少しはましな顔で山へ入れそうだった。
東の山は、雪をかぶった稜を見せて、黙って待っていた。




