第13章 使者の顔
弥生二十日の昼の終わり、川上の村ハウゼンの桟橋へ、舟が横腹をこすりつけて寄った。ケスは舳先の杭から飛び上がり、岸の燻製小屋の屋根に止まった。村の形は、高いところからでないと分からない。
村は川の段々の上にあった。屋根は十数軒。どの屋根からも細い煙が上がり、北からの風に寄せられて、東の山のほうへ流れていく。干し棚には魚が縄で吊られ、その下で痩せた犬が寝ていた。
桟橋の端に、熊のように大きな男が一人立っていた。背に弓、腰に鉈。舟が寄ると、男は足もとの川へ唾を吐いた。それきり、舟の上の一行を見ていた。
白い手袋の男が、最初に石段へ足をかけた。賢者の顔は、いつもどおり静かだった。男は桟橋から村を見上げ、屋根を一つずつ数えるように目を動かした。そして、ケスの止まっている燻製小屋の屋根で、目を止めた。
ケスは動かなかった。動かないことが、見るための姿勢だった。
白い手袋の男は、数え終えると何ごともなかったように顔を戻し、石段を上がった。
ダリオが舟から飛び降りた拍子に、腰の袋が揺れた。袋の口から、乾いた肉の端がのぞいていた。寝ていた犬が身を起こし、音もなく桟橋へ走って、その端をくわえた。干し棚の裏へ消えた。
「おい、そいつは俺の肉だ」
ダリオの声が川面に跳ね、犬は振り向かなかった。
「鴉、どっちへ行った」
屋根の上から、ケスは答えた。
「干し棚の裏だ。肉を持って」
「俺の肉か」
「誰の肉かは、分からない」
「見てたなら止めろ」
「止めろとは、言われていなかった」
ダリオは髭を震わせて、袋の口を結び直した。
*
石段に腰を下ろして、フィンが手帳を開いた。膝の上で、鉛筆の炭の先が紙を走る。
「帰りの舟賃は、金貨一枚半。それで間違いないか」
「間違いねえ」
ヤーコプは舟の艫に腰かけたまま、麦わらを噛み直した。白髪が、午後の日を白く返していた。
「そいつは帰りの舟に乗るときに払ってもらう。下りは二日で着く」
リナが指を折った。五つ折って、また開き、もう一度折った。
「金貨一枚半は、麦酒が百二十杯です」
「百二十杯か」ダリオが腰の小瓶を振った。「酒に換えりゃ、安いもんだ」
「帰りに払え。舟がなけりゃ、俺たちは村で冬を越す」
「もう春ですよ」テオが言った。「雪が残っているだけです」
ダリオはテオの顔をしばらく見てから、髭の右端を撫でた。
フィンが、膝に算盤を乗せた白い法衣の女へ顔を向けた。
「帰りの舟賃は、参事会の分から出るのか」
イルザは顔を上げた。
「舟賃は、参事会の帳面に載っています。帰りの分も」
算盤の珠が一度鳴り、それから止まった。イルザの指が、珠の上に乗ったまま動かなくなった。ケスはその指を見ていた。止まった理由は、見ても分からなかった。
「二十一日だろう」
ヤーコプが、麦わらの端を揺らして言った。
「山へ入るのは、二十一日の夜明けだ。切通しの手前で昼を取って、夕方には白塔の下の小屋へ。わしはそう聞いてる。帰りの舟は、わしが出す」
フィンの鉛筆が、紙の上で止まった。
「二十一日?」
「そうだろう」
「その日取りは、まだ決めていない。今夜、使者と話して決める」
「そうかい」ヤーコプは笑った。歯の間から麦わらがのぞいた。「川の上じゃ、日は勝手に回ってくるもんだ」
フィンは、手帳に書いた。屋根の上のケスからも、その字が読めた。
『山道 日取り 未定』
石段の上から、白い手袋の男が言った。声は小さかったが、よく届いた。
「親方の耳に入ったのは、噂でしょう。山へ入る日は、我々が今夜決めます」
顔は、何も変わらなかった。変わらないことを、ケスは見ていた。
フィンが屋根のほうへ顔を上げた。
「ケス。ネーベルの舟宿の裏で、何を見た」
ケスは燻製小屋から飛び、石段の手すりに降りた。翼をたたむと、縁の三本の指が石を掴んだ。
「白い手袋の男と、指輪の多い男だ」
「それで」
「舟宿の裏で会っていた。白い手袋から指輪の男へ、布の包みが渡った。指輪の男は帳面を出して、頁を繰った」
「声は」
「聞こえなかった」
「見えたことだけだな」
「そうだ。見えたことだけだ」
ダリオが、髭の右端をつまんだ。
「なら、こういうことだ。山へ入る日を、あの爺が先に知ってた。舟宿で布が渡った。帳面が見えた」
「ダリオさん、まだ、そうとは」
リナが言いかけて、杖を握りしめた。
「証はないよな」ダリオが言った。「あるのは鴉の目と、爺の口だけだ」
「証は、ありません」フィンが言った。「手帳に書けるのは、言ったこと、見たこと、聞いたことだけだ」
テオは手燭の蓋を開けたり閉めたりしながら言った。
「僕は、そう思う、としか言えません。見ていないことを、見たとは言えないので」
「引き返しましょう」リナが言った。「ネーベルへ戻れば」
「どうやって戻る。舟は、あの爺のしかないだろう」ダリオが言った。「それに、戻れば印がない。報酬は半分だ」
リナの指が、杖の上で白くなった。
「……半分」
「山へ行く」ダリオは髭を叩いた。「夜明けに出るなら、俺が前を歩く。襲いたけりゃ、この髭の前まで来い」
「賢者様を白塔へお届けするのが、僕の務めです」テオが言った。「見たことは、そのまま大聖堂へ報告します」
フィンは手帳を閉じた。どこへ行くとも、戻るとも言わなかった。
*
宿の刻み蝋燭が、夕方六つの線の手前で揺れていた。鈴が鳴り、一行は食堂へ下りていった。ケスは梁の上にとどまった。
食堂の火は低かった。ダリオは、犬に取られた肉の代わりに、宿の豚の塩漬けを二切れ取った。フィンは炉のそばで手帳を広げ、そのとなりに白紙を一枚置いた。白い法衣の女は、帳面を膝に広げたまま、豆の皿に手をつけなかった。白い手袋の男は、黒パンを小さくちぎって口へ運んでいた。賢者は両の掌を胸の前で合わせ、ダリオが匙を運ぶのを待っていた。
「脂身が一切れ残ってる。食え」
ダリオが匙を傾けると、賢者は口を開けて静かに噛んだ。
戸口の外に、白い犬が座っていた。さっきの犬だった。ダリオの肉の端を、まだくわえている。ダリオが塩漬けの脂身を一切れ投げると、犬は空中でそれを受け、くわえていた肉の端を土間へ落とした。脂身だけをくわえて、暗がりへ消えた。
「おい。取引か、それは」
ダリオの声に、食堂の何人かが顔を上げた。
「取り替えたように見えた」ケスは梁から言った。「肉と、脂身を」
「見えたなら、止めろよ」
「止めろとは、言われていない」
リナが吹き出して、杖で床を叩いた。テオが、手燭の火を見ながら真面目な顔で言った。
「犬は、得をしたのでしょうか」
「知るか」
ダリオが酒の小瓶を振った。中で、薄い酒が鳴った。
*
フィンが手帳を閉じて、炉の火に顔を向けた。
「鴉。さっき、親方は二十一日と言った。あれは、今日の話か」
ケスは梁の上で、首を傾けた。
「親方が言ったのは、二十一日の夜明けだ。山へ入る日だ」
「白い手袋の男は、まだ決めていないと言った」
「言った」
「嘘だと思うか」
「見ていない。嘘かどうかは、分からない」
「見たのは、言ったことだけか」
「そうだ。親方が先に日を言ったことと、あの男が後から決めると言ったことだ」
石段で言われた声が、また食堂の戸口から届いた。白い手袋の男が、階段の下に立っていた。
「親方は、川の上で日を数えている人です。噂は、船着きから村へ回るものです」
男の顔は、いつもと同じだった。ケスは、その言葉が嘘か本当か、見ても分からなかった。分からないことだけが、そこにあった。
男は、白い法衣の女と並んで階段を上がっていった。女の算盤の珠が、一度だけ鳴った。
*
鈴の音が絶えて、食堂の火は落ちかけていた。刻み蝋燭の線は、九つの手前で揺れていた。六つから九つまでの番は、リナだった。杖を膝に抱えて、こっくりと頭を揺らしていた。九つの線を過ぎると、ダリオが欠伸をしながら立った。
ケスは梁の上にとどまった。屋根の上の風と、川のほうから来る湿った冷たさを、羽の縁で感じていた。
賢者は、土間の端の席で、両の掌を胸の前に置いたまま座っていた。顔は梁のほうへ向いていた。
「鴉」
低い声だった。ダリオが番の位置から顔を上げ、リナが目を開けた。
賢者は、梁の暗がりを見上げていた。
「起きているか」
ケスは、梁の上で翼をわずかに開いた。
「起きている」




