第14章 預けもの
弥生二十日の夜、川上の村ハウゼンの宿。炉の火は赤い芯だけになっていた。煤けた梁の下で、卓の木目が灯の色を吸っていた。
戸口の外では、ダリオが番に立っていた。川の音が大きく、食堂の中の声は外へほとんど届かない。宿の前の道は雪解けの泥で黒く、戸口の下の隙間から、川霧の冷たさが細く入ってきた。
ケスは梁の上で翼をたたんでいた。梁の木は、足の下でかすかに湿った音を立てた。炉の煙と、吊るした乾いた肉の匂いが、屋根の裏で混ざっていた。土間の端に賢者が座っている。炉の火が、その白い法衣の肩を赤く照らしていた。両の掌は胸の前で革紐に巻かれ、その革紐は土間を横切って、戸口のダリオの帯へたるんで届いていた。
「おい、鴉。梁が鳴ったぞ」戸口からダリオが首だけ入れて言った。「お前が重いのか、梁が古いのか」
「分からない。見ていない」
「じゃあ、俺は重いか」
「ダリオは、重そうだ」
「そういう言い方があるか」
「嘘は、つけない」
ダリオは右の髭の端を指でつまんだ。焦げて縮れた側だった。髭は、焼けた所だけ色が薄く、指にざらりと引っかかった。
「そこは、少しくらい嘘をつけよ。短くなったとか、言うな」
「短くなっている」
「言うなって」
首が引っ込み、足音が戸口の外へ遠のいた。川の音がそれを消した。
*
「降りてこられるか」
賢者が言った。声は低かった。炉の火の音のほかには、ほとんど何もなかった。
ケスは翼を開いて梁の端を離れ、卓の端へ降りた。翼の縁の三本の指が、木の目をつかむ。
「それで、いい」
賢者は、掌を合わせたまま少しだけ顎を引いた。袖口には焦げが二つあった。焦げの縁は、灯の下で黒く固まっていた。
「あなたは、嘘がつけない。訊かれれば、黙るか、問いで返すしかない」
「そうだ」
「だから、言っておきたいことがある。訊かれなければ、言わなくていい」
「何を」
「わたしのことだ。賢者でも、ファルクでもない、わたしのこと」
ケスは首を傾けた。卓の上の灯が、賢者の顔の片側だけを照らしていた。
「預かる、ということか」
「そうだ。忘れなくていい。誰かに話すかどうかは、あなたが決めればいい」
賢者は一度、戸口のほうを見た。革紐が、床の上でかすかに鳴った。土間の火の粉が一つ、灰の上で消えた。
「……娘がいる」
*
「十一になる。白塔の子ども部屋にいる」
ケスは、革紐の結び目を見た。その結び目は、戸口の帯のほうにあった。結び目はダリオの帯の陰に隠れて、ほとんど見えなかった。
「去年の秋、塔が預かった。わたしが塔の言うことを果たせば、娘は塔の正式な弟子の席に座る。果たせなければ、払うのは娘だ」
「払う、とは」
「塔が決める。わたしには分からない」
「それでも、請けたのか」
「請けた。断れば、払うのは娘だからだ。断っても請けても、塔の中で口を塞がれるかもしれない。それも分かっていた」
賢者の指が、袖の中で組み替わろうとして、革紐に止められた。縛られた指先だけが、少し動いた。
「命令は、紙で求めた。口で言われたことは、言った者が後で言わなかったと言える。紙は残る。書いたのは塔の者の手で、印は上の方のものだ」
「その紙は、いまどこに」
「まだある。折って、蝋で留めて、油壺の底に沈めた。下町で使っていた灯台の、油壺だ」
「灯台は」
「隊が押さえた。神官を騙った証の品として。いまは、あなたたちの街の詰所の、証の棚にある。裁きの日に、あの隊員が教えてくれた」
賢者は、合わせた掌の先を少しだけ下げた。
「塔の手は、あの棚には届かない。だから、紙はまだある」
ケスは、何も言わなかった。何かを言えとは、言われていなかった。
「盗みを仕組んだ男がいた。組合の中の男だ。わたしはその話に乗った。石が隊の前に出た瞬間に、術で取って、逃げる。段取りは、それだけだった」
「石は、どこにも」
ケスは言いかけて、やめた。言いかけた言葉は、梁の暗がりへ戻っていった。賢者はそれを見た。
「出なかった。そのかわり、霜月の夜に隊が来た。酒場で揉み合いになって、身に染みた攻めの術が先に出た。髭を焦がしたのも、わたしの術だ。それで、白塔の者だと割れた」
卓の上で、灯が一度揺れた。外で川が低く鳴り、岸の石を洗う音がした。
「塔は、わたしを回収に来た。門をくぐれば、わたしは塔の内で処分される。それも、分かって請けた」
「白塔は、なぜ石を欲しがる」
「わたしも知らない。塔は言わなかった」
ケスは、賢者の掌を見た。合わせた掌は、同じ形のまま動かなかった。
「なぜ、わたしがあなたに話すか、分かるか」
「分からない」
「あなたは、わたしの話を嘘として持ち帰れない。だから、ここに置いておける」
賢者は、梁の暗がりのほうへ目を上げた。
「訊かれなければ、言わなくていい。もし、娘に何かあったと聞いたら、そのときは誰かに話してくれ。塔の外の者に。誰でもいい」
「誰でも、いいのか」
「誰でもいい」
ケスは翼の縁の指を、木の目から離した。
「この話が本当かどうかは、見ても分からない」
「それでいい。分からないまま、預かっていてくれ」
*
刻み蝋燭の線は、夜半の手前にあった。土間の炉は、もう赤い芯の色しか残していなかった。
ダリオが戸口から戻ってきて、卓の上を見た。髭の端が、灯の下で少し光った。足の裏の泥が、土間の床に点々と跡をつけた。
「終わったか」
「終わったかどうかは、分からない」
「だから、そういうとこだぞ」
ダリオは腰掛けに座って、小瓶の栓を抜いた。腰掛けの脚が、大きな体の重さで床の上で鳴った。中身を一口飲んで、顔をしかめた。川の水の味がするという顔だった。
賢者の両の掌は、胸の前で革紐に巻かれたままだった。目は閉じていなかった。灯の光が、その目の縁を薄く照らしていた。ダリオが賢者の肩を一度だけ叩いた。
「寝ろよ。番は俺だ」
賢者は答えなかった。ダリオは、干し肉の端を小刀で削って、口に入れた。削りかすが、卓の上で小さく転がった。噛むと、塩と煙の味がした。
夜半の線を過ぎると、階段の上から足音が下りてきた。フィンが灰色の外套の襟を立てて、手帳を懐にしまいながら土間へ来た。階段の板が、一段ずつ軋んだ。外套の裾から、川の匂いがした。
ケスは梁へ戻った。翼をたたんで、戸口の隙間を見下ろした。隙間から入る川霧は、薄く白い筋になっていた。その白さは、少しずつ薄くなっていった。
東の山の裾から、夜明けの灰色が上がってきた。山の襞が一つずつ色を取り戻し、雪の白い縁が、灰色の中から浮いて見えた。宿の前の道が、川のほうから徐々に見え始めた。泥の上には轍が黒く残っていて、その上に霧が溜まっていた。
東の山の腹を、山道が一本、白く縫っていた。




