第15章 山道
ハウゼンの宿を出たのは、東の山の襞がまだ青いうちだった。
鐘のない村では、刻み蝋燭の線が朝六つを教えた。宿の亭主が線の上に指を置き、一行に顎で頷いた。宿の前の道には、霜で白くなった轍が、川と反対の東へ伸びていた。
リナは背負いの袋の紐を、二度締め直した。黒パン二つ、乾いた肉が三本、塩の小袋、灯油の小瓶が一つ。袋の底で、銅貨の巾着が鳴った。
山道の案内は頼まなかった。ハウゼンで聞いた駄賃は、半日で銀貨三枚だった。三晩の宿賃と同じ額だ。
山道は、川を離れるほど空が低くなった。樅の枝が雪の重みで垂れ、踏むたびに黒い水が靴の縁から染みてきた。
灰色の岩が、道の両側から肩を寄せてくる。石の段は雪解けの水で黒く光り、その上に雪がまじった。粒のまま降ったり、降らなかったりした。息を吐くと白く、吸うと鼻の奥が冷えた。リナは杖を突いて、一段ずつ足を置いた。
先を行く鴉が、岩の肩に止まった。翼をたたんだまま、三本の指で岩の縁をつかんでいる。
「そこ、登れるか」と、リナは割れ目を指さした。
「登れる」
「わたしは」
「おまえは登れない」
ダリオが喉の奥で笑った。
「鴉に言われてら」
ダリオは乾いた肉を噛み、顔をしかめた。
「これは肉か、板か」
「肉です」と、テオが言った。「少し、板に近いですが」
「聞いたかよ。腹の立つほど正直だな、お前は」
賢者は一行の真ん中を歩いていた。
両の掌は胸の前で合わされ、手首から指の根もとまで革紐が巻かれている。結び目はダリオの帯に通してある。袖の焦げが、冷たい風に揺れた。
指が袖の中へ逃げようとして、革紐の内で止まるのが、リナの目に見えた。
*
日が岩の肩を越えるころ、道は切通しに入った。
両側の壁が、手を伸ばせば届くほど近い。割れ目には苔が貼りついて、濡れて黒く光っていた。風が止まり、どこかで雪の塊が落ちる音がした。
「上に三人」
ケスの声が、切通しの上から降ってきた。抑揚はなかった。
「鉈が一人。棍棒が二人。縄を持っている」
道の先の石段から、大きな影が一つ出てきた。熊のように肩が広い。革の胴着は濡れて黒く、鉈の柄は手垢で光っていた。
男は口をきく前に、唾を一つ吐いた。
「囚人を寄こせ。あんたらは、そのまま山を下りりゃいい。金はもらってる」
本当かどうかは、リナには分からなかった。城壁の外の人間は、組合の外なら、いくらでも嘘をつける。組合の建物の中では仲間に嘘をつけない者のことは、ダリオが酒の席で話していた。
「誰に頼まれた」と、フィンが訊いた。左肩をかばい、外套の内で手だけを動かしている。
「山は俺らのもんだ。通すなら通行の金を払え。囚人は置いていけ」
「囚人は、白塔へ届ける」
「なら、力ずくだ」
上から若い猟師が二人、石の段を跳んで降りてきた。縄の輪が、腕の先で回っている。
ダリオが背の大剣を鞘から抜いた。鳴った音が、切通しの壁に跳ね返った。刃の腹が陽を受けて、一瞬だけ白く光った。
「賢者。髭の貸しを返せ」
「ダリオさん、解けば、わたしは術を使えます」
「使え。使わなきゃ、あいつらが俺の髭をむしるぞ」
ダリオは膝をついて、賢者の帯の結び目に指をかけた。
濡れた革紐は、結び目の中で締まっていた。太い指が爪を立て、爪の先が白くなった。歯の隙間から、悪態が一つ漏れた。
紐が、ほどけた。
賢者の両の掌が、胸の前から離れた。手首に残った赤い跡を、賢者は一度だけ見た。
「ありがとうございます」
「礼はいいから、髭で返せ」
若い猟師が一人、縄を振りかぶって前へ出た。
賢者の右の掌がわずかに開いた。見えない重さが石段を走り、その猟師の足もとの石が跳ねた。男は膝から崩れ、岩の角に肩をぶつけて、そのまま転がった。
フィンは、もう一人の縄の輪を見て、体を横へ引き、縄の輪を肩の脇へ外した。輪は石の上へ落ちて跳ねた。フィンは外套の内で手だけを動かし、相手との間を一歩開けた。
大男の猟師が、鉈を大きく回してダリオの前に踏み込んだ。
ダリオの剣が鉈の腹を受けた。刃が滑って、ダリオの袖の外側を裂いた。裂け目から、赤い線が一本、腕の上に浮いた。
「浅いな」と、ダリオは言った。「髭より浅い」
リナは杖を握った。火を大きくしてはいけない。小さく、長く保つ。賢者がそう教えた。
濡れた苔が、割れ目の根もとにいくつも張りついている。リナは膝をつき、苔の上へ、指先ほどの火を置いた。
苔は、すぐには燃えなかった。煙だけが、ゆっくり立ちのぼった。白くて、重い煙だった。
煙は切通しの幅いっぱいに広がって、壁になった。大男が咳き込み、目をこすって、鉈を振り回した。空を切った刃が、煙の中で鈍い音を立てた。
火は消えずに、苔の上で長く保たれた。
杖の金具が、火の熱を吸っていた。
リナは杖を握り直した。金具の熱が指の腹を焼いた。声は出さなかった。手は離さなかった。
「リナさん、そこを動かないで」
背中の後ろで、賢者の声がした。空気が薄い布を一枚張ったように固くなった。リナの周りだけを囲む、小さな囲いだった。その外で、煙を裂いて誰かの靴が石を蹴る音がした。
煙の向こうで、大男が足を止めた。
「そいつは、術を使う」
男は唾を吐いた。それから、縄を持った若い猟師の腕を取り、切通しの上の岩へ引き上げた。最後に、大きな背中が岩の向こうへ消えた。
「逃げた」と、ケスの声が上から言った。「大きいのが先に行った。縄は置いていった」
*
煙が薄れると、石段の上に濡れた縄が一本、落ちていた。
誰も拾わなかった。煙の匂いが、濡れた岩の匂いに混じって、しばらく切通しに残った。
リナは壁に背をつけて座り込んだ。指の腹が、脈に合わせて痛んだ。
袋の口が鉈の刃に裂けていた。乾いた肉が一本、転がり出て、切通しの下の谷へ消えていった。
「あれは俺の肉だ」と、ダリオが言った。
「半分は、わたしのものですね」と、賢者が言った。
「その貸しにも、利子をつけとく」
「いくらでしょう」
「髭が元どおりになるまで、酒一杯ずつだ」
フィンは手帳を開き、肩をかばいながら炭の棒で書いた。
『襲撃、三人。猟師一人、肩を打つ。ダリオ、腕に浅い傷。一人、退く。縄、一本、置いていく』
数を書き終えると、フィンは手帳を懐にしまった。
テオがダリオの袖を裂いて、布を腕に当てた。
「小屋に着いたら、もう一度見せてください。今は、血を止めるだけです」
「頼む。髭は後でいい」
切通しを抜けると、道は二つに割れていた。
崩れた岩の跡で道が狭くなり、そこを抜けると視界が急に開けた。
左は、白い段の道だった。雪をかぶった石段が急に上へ伸びて、灰色の空へ消えていく。右は、木の生えた谷へ下る細い道で、猟師の足跡が雪の上に幾筋も重なっていた。
「どっちだ」と、フィンが訊いた。
賢者は、どちらの足跡も見なかった。
「左です」
賢者は、自由になった両の掌を、しばらく見ていた。それから、白い石段のほうへ一歩を置いた。




