第16章 選ぶ
弥生二十一日の夕方、白い石段の途中で、ケスは岩の上から一行を見下ろしていた。雪がまじって落ちてくる。日は西の尾根に落ちかけていた。
石段は雪をかぶって、上へ伸びていた。石の一段ごとに、雪の下から灰色の角が覗いていた。踏まれたところだけ雪が溶けて、濡れた石肌が暗く光っていた。人が一人半通れる幅で、左は岩の壁、右は谷へ落ちる崖だった。
一行は八人だった。ケスも数えた。三つずつ数えると、二つ余る。
先頭はダリオだった。腕の布は肘の下まで赤く滲んでいた。髭の右端は焦げて短いまま、雪の白さの中で黒く見えた。剣の柄に巻いた革も、雪を吸って重く湿っていた。
フィンは懐に手を当てて歩いていた。左肩をかばうので、体がわずかに傾く。その足跡の列は、一歩ごとに雪の中へ深く沈んでいた。
リナは杖を両手で握っていた。指の腹に巻いた布が、杖の金具に擦れて音を立てた。
テオは手燭を胸の前に持ち、火を掌で囲っていた。雪が風に流れるたび、手燭の火が大きく揺れた。
賢者は、その後ろを歩いていた。足もとの雪が深くなるたび、白い法衣の裾が濡れて重くなっていった。
両の掌は、もう胸の前で合わされていなかった。手首に、革紐の跡が赤い輪になって残っている。革紐はダリオの帯に巻かれていた。
メルヒオルとイルザが、その後ろから上がってくる。イルザは手帳を懐へ入れ、雪が当たらないように袖で覆っていた。
石段の右の崖の縁を、賢者の足が、さっきから何度か見ていた。崖の縁には雪が庇のように張り出し、その下は白い霧に隠れて底が見えなかった。
ケスはそれを見ていた。
いまなら、石段を一つ駆け下りるだけで、白い法衣は雪の斜面へ消えられる。ダリオは腕を庇い、フィンは肩を庇い、リナは指を握っている。鴉の目には、そう映った。
ケスは、塔の子ども部屋の話を聞いている。逃げた者の代わりに何が払われるのかも聞いていた。聞いたことを、聞かなかったことにはできない。
賢者は足を止めた。そして、振り返った。
「ファルク」と、後ろからメルヒオルが呼んだ。小さい声だったが、岩壁に当たって、よく届いた。
*
石段の上は、雪の積もった平らな段になっていた。丸太の小屋が一つ建っている。屋根には雪がのり、煙抜きから細い煙が上がっていた。戸口の脇には薪が積んであり、雪が薪の上で白く固まっていた。
その上の山は雲に隠れていた。風が雪を横へ流し、山の斜面に白い筋が幾本も走った。
賢者は小屋の壁の陰へ、二歩、三歩と歩いた。使者がその後を追う。ケスは翼をたたんで、小屋の棟に止まった。下の二人が斜めに見える。
「私は、逃げません」
賢者の声は、いつもどおり丁寧だった。
「逃げられると、思っていましたか」と、メルヒオルが訊いた。
「手が自由になってから、ずっと」
雪が強くなって、声の端が切れた。
「……ネーベルの路地で、生け捕りにしろと言った人がいました。切通しでは、縄を持った人が来た。どちらも、私を殺さずに、どこかへ連れていくための道具です」
「何のことか、私には分かりかねます」とメルヒオルは言った。
ケスには、それが本当かどうかは分からなかった。分かるのは、自分の言うことが本当だということだけだ。
「分からなくても、結構です」賢者が言った。「あなたは、私を逃がして、勝手に出た者にするつもりだった。そうすれば、白塔の名に傷はつかない」
メルヒオルは答えなかった。
「命令の紙は、城壁の内にあります。白塔の手は、そこまで届きません」
メルヒオルは、少しのあいだ黙った。
「どこに」
「申しません。誰がそれを知っているかも、申しません」
紙のある場所を、ケスは知っていた。誰も、ケスには訊かなかった。訊かれたら、黙るか、問いで返すしかない。
「私が門をくぐります」と賢者が言った。「そのかわり、娘にも、この方たちにも、手を出さないと約してください。私が門をくぐり、それが守られるなら、命令の紙は表に出ません」
娘と言った声が、一度だけ低くなった。
メルヒオルの視線が、一度だけ小屋の棟へ上がった。ネーベルの舟宿の裏で、屋根を見上げたときと同じ目だった。ケスには、その目が知られたことを悟ったように見えた。
「……約束しましょう」
メルヒオルの声は、やわらかいままだった。手袋の指が一本、ゆっくり折れた。ケスには、それが本当かどうか分からなかった。
小屋の入口で、イルザが手帳を閉じた。閉じたあとも、その指は表紙を押さえていた。
*
賢者は戸口へ歩いて、ダリオの前で止まった。
「縛ってください。白塔の門の前では、この形でなければ通さないと聞いています」
「誰に聞いた」
「白塔の者に」
ダリオは帯から革紐を解いた。結び目は、まだ彼の指の中にあった。革紐は湿っていて、指の腹に冷たく張りついた。
テオが手燭を持ったまま近づいた。
「賢者様。その形は、祈っているように見えます」
「そうでしょう」
「ただ、僕には、祈っているかどうかは分かりません。見えるだけです」
ダリオが鼻を鳴らした。「正直なのはいいが、いまは黙っててくれ」
テオは「はい」と言って、手燭を少し遠ざけた。謝らなかった。本当のことを言っただけだからだ。
ダリオは賢者の両の掌を合わせ、手首から指の根もとまで革紐を巻いた。賢者の指は冷えて白くなり、巻かれるあいだ袖の中へ引こうとして、また止まった。きつく、とは言わなかった。巻き終えると、結び目を自分の帯へ回し、固く結んだ。
「きつすぎたら、言ってください」と賢者が言った。
「言わないだろう、賢者は」
賢者は、それには答えなかった。
*
小屋の屋根の煙抜きから、中の火が見えた。炉の火は低く、薪の隙間で赤い芯が静かに燃えていた。
テオがダリオの腕の布を解いていた。傷は浅く、血はもう止まりかけていた。水で拭き、布を替える。ダリオは顔をしかめ、顔をしかめたまま喋った。
「髭は、どうなる」
「治りません。切るしかないと思います」
「切ってくれ」
「まっすぐ切れるか、自信がありません。フィンさんに頼んだほうがいいと思います」
「フィンは、髭を切るより帳面を付けるほうが好きだ」
フィンは炉の反対側で、手帳を開いていた。何も言わず、炭の棒で何かを書いた。
リナは右手の指を、テオの掌の下へ出していた。テオが手をかざすと、掌の内側がほのかに暖かく光った。リナが小さく息を吸う。
「熱い」
「すみません。僕の術は、上手ではないので」
「あったかいのと、熱いのが、混ざってます」
「混ざっているのは、よくないですね」
リナは左手で、銀貨を三枚並べていた。
「案内の駄賃、銀貨三枚。浮きました」
「その計算だと、俺の肉は一本で銀貨一枚ぶんだ」とダリオが言った。
「肉は、切通しの下の谷へ行きました」
麦粥に、乾いた肉をほぐして入れてある。塩が強かった。椀の縁には煤が一筋ついていて、リナは親指でそれを拭ってから口をつけた。リナが椀を両手で抱えて、二杯目を頼んだ。
賢者は、ダリオの匙で粥を食べていた。匙が椀に当たるたび、小さく高い音がした。ダリオは匙を持たないほうの手で、髭の右端をつまんでいた。
屋根の上で、ケスは一行の数をもう一度三つずつ数えた。八人。二つ余る。
ケスは煙抜きから離れて、棟の端へ移った。棟の雪が、風もないのに一塊ずつ落ちた。雪がやんで、雲の切れ目が山の上で開いていた。
その切れ目のなかに、白い塔が立っていた。細い先が、灰色の空の中でまっすぐに伸びている。
山の上に、白い塔が見える。




