第8章 川港の夜
ネーベルには鐘がない。
城壁の外の町は、刻を打つ音を持たなかった。舟宿の窓の奥では、刻み蝋燭の線が夜半に近いところまで燃えている。ケスは燃え残りの長さで見当をつけた。
町の夜は、川の音で息をしていた。屋根の棟に立つと、低い家並みの瓦が暗い海のように続いて見えた。荷揚げ場の石段を水が叩き、どこかの舟が杭の上で綱を軋ませていた。
屋根の棟は濡れていた。ケスは爪で瓦の継ぎ目をつかみ、体を低くした。黒い羽が霧を吸って重い。
軒の下には、干した網が掛かっていた。雨の雫が網の目を伝い、縁から一粒ずつ落ちた。
川のほうから霧が上がってくる。荷揚げ場の石畳が白く消え、塩の袋の山が小さな丘になって沈んでいく。舟の艫に吊るされた灯が一つ、川面で揺れていた。対岸は暗く、灯は一つも見えない。上流へ行く舟の影が、霧の切れ目に一瞬だけ黒く浮いては消えた。遠いものほど、霧の中で形を失う。それでも、荷揚げ場の端の柳の枝が風に揺れるのは、ここからでも数えられた。屋根の板は雨を吸って、重みを受けるたびに低く鳴った。ケスは翼を半分たたんで、音を殺した。
下の厨房からは、魚の頭を煮る匂いが流れてくる。厨房の湯気が軒の下で白く溜まり、それも霧に紛れて、すぐに薄れた。
舟宿の裏は薪小屋と桶の列だった。勝手口の戸が開き、白い法衣の男が出てきた。痩せて、背はそれほど高くない。手袋をしている。指先だけが霧の中で薄く見えた。
男は薪小屋の陰で足を止めた。
少し遅れて、舟着き場のほうから太った男が来た。指輪の多い手が、外套の前を押さえている。二人は桶の列を挟んで向かい合った。太った男は話の切れ目ごとに、指輪を一つずつ指で回した。癖らしい。
白い手袋の手から、太った男の手へ、布の包みのようなものが移った。掌に収まるほどの大きさだった。中身は見えない。太った男はそれを懐へ入れ、代わりに帳面を一冊出して、指で頁を繰った。
声は届かなかった。
川霧の匂いが、屋根の上まで湿った土のように上がってきていた。
霧が風に流されたとき、杭に当たる舟綱の音が一度だけ屋根まで上がってきた。言葉はその音に混じらなかった。
太った男の指輪が、舟の艫の灯を拾って小さく光った。
ケスは勝手口の上の窓を数えた。七つあった。
組合の前で、白い法衣の男が数えたのと同じ数だ。
二人は短く話した。太った男が先に頭を下げ、路地のほうへ霧の中に消えた。路地の口で、太った男の外套の裾が霧に吸われて見えなくなった。白い法衣の男は勝手口へ戻りかけて、一度だけ屋根のほうを見上げた。
ケスは羽を畳んだ。霧が濃い。ここから顔の輪郭は見えないはずだった。
*
翌朝、霧は薄くなっていた。
川の向こうの岸が、灰色の帯になって見えてきた。荷揚げ場では、塩の袋を積んだ荷車が石畳を鳴らし、男たちの掛け声が霧の切れ目に跳ねていた。
納屋の壁に立てかけた梯子が鳴った。段が一つずつ重く軋み、屋根の縁から大きな体が顔を出した。ダリオだった。髭の先を指でつまんでいる。
ダリオの息が白かった。霧は冷えて、屋根の上まで重く降りていた。
「鴉。朝飯だ」
黒パンが一つ、宙を飛んできた。ケスは嘴で受けた。マスターが持たせた包みと同じ、固くて塩の利いたパンだった。
ケスは嘴の先で皮を一度つついた。乾いた音がした。
「髭が縮んだ」ダリオは髭を両手で引っ張った。「霧のせいだ。夜のあいだに、先が丸まった。お前、見てただろう」
ケスは首を傾けた。
「わからない」
「わからねえ、ってのはどっちだ」
「縮んだかどうか、わからない」
「正直なのは結構だが、髭の味方はいねえのか」ダリオは唸って、髭を放した。「あの賢者に髭の代を払わせるまでは、元には戻らねえんだ」
屋根の縁に腰を下ろしたダリオは、重みで瓦を鳴らした。腰の小瓶が瓦に当たって、こつんと鳴った。棟の端から、昨夜の雨がまだ一滴ずつこぼれていた。ケスは一歩下がって、棟の上に立った。下の樽からは、朝の水の匂いが上がってきた。
「夜、屋根から何か見てたろう」
「見ていた」
「何を」
「白い手袋の男が、勝手口の裏で、太った指輪の男と話していた」
「白い手袋。痩せたほうか。あの、ちっとも声を出さねえ」
「そう」
「何を話してた」
「聞こえなかった」
「だろうな。霧だ」ダリオは髭の先をまた指でつまんだ。「舟の値段の相談だろ。ネーベルの舟は高ぇって、フィンが嘆いてた。なあ、何の話だと思う」
「わからない」
ダリオは、ふん、と鼻を鳴らした。「わからねえことは、わからねえと言う。鴉は楽でいい。フィンには、俺から言っとく。あいつに言うと、帳面がまた一頁増える」
立ち上がったダリオの足もとで、梯子の二段目が、乾いた音を立てて割れた。
「おい。俺の重さで割れたぞ」
「割れた」ケスは言った。
ダリオは梯子の残りを見下ろし、髭を撫でた。「縮んだのは髭だけじゃなかったな」
*
一行は霧の中を舟着き場へ向かった。
石畳は昨夜の雨で、踏むたびに薄く水が跳ねた。舟着き場のほうから、櫂を水に入れる音と、綱を解く男の声が聞こえてくる。
路地は狭かった。両側は魚の樽と板壁で、人ひとりが通るのがやっとだ。樽の縁から、塩漬けの魚の匂いが立っていた。路地の上には洗濯の紐が渡されて、濡れた布が霧の中で重く垂れていた。樽の底から垂れた魚の汁が、石畳に細い筋を引いていた。
フィンが前を歩き、懐から手帳を出しかけて、またしまった。リナは舟賃の金貨を袖の中で数えている。フィンから受け取った分が、二枚あるかどうかを確かめているらしい。金貨の縁が指に当たって、小さく音を立てた。後ろでは杖の先が石畳を叩いていた。テオは霧の中で手燭に火を入れた。灯は白い霧の中で、小さく丸く揺れた。灯の外側は、もう誰の顔も見えなかった。
ケスは屋根の縁を伝い、一行の頭の上を進んだ。瓦の苔が爪の先で滑るたび、ケスは翼を半分だけ開いて体を戻した。
川沿いの酒場の窓が開いて、兎の付け耳をつけた給仕が出てきた。盆の水を石畳へ捨てる。付け耳は霧で濡れ、片方がしおれて垂れていた。給仕は一行を見て、耳を揺らして笑い、また窓の奥へ引っ込んだ。窓が閉まると、中で皿の触れ合う音が続いた。
路地の奥で、荷揚げの鉤が石を一つ鳴らした。




