第7章 川港
弥生十六日、夕方近く。ネーベルの荷揚げ場は、小雨と川霧で白く濡れていた。南街道を三日歩いた一行は、ようやく川の音の中へ入った。
石畳は雨で黒く光っていた。目地には緑の苔が張り、踏むたびに靴底がわずかに滑った。荷揚げ人が鉤を肩に担ぎ、舟から岸へ塩の俵を運んでいる。リナは杖を両手で握り、その数を数えた。十二人。途中で一人が鼻をすすったので、数はすぐに分からなくなった。
魚の箱が積まれていた。塩の俵は雨を吸って重くなっている。一俵が銀貨で何枚になるのか、リナは頭の中ではじいた。魚の臭いは川霧に混じって、どこまでもついてきた。岸の向こうで、櫂が一度だけ水を打った。音は霧の中で広がらず、すぐに止んだ。
舟の板は雨を吸って膨れ、艫の縁には乾ききらない縄が巻いてあった。岸に寄せた舟の艫では、老いた舟頭が濡れた網を膝に広げて繕っていた。その足もとの杭に、痩せた犬が繋がれている。犬は一度だけ身を振って水を飛ばし、また丸くなった。誰もそれを見なかった。
先頭はフィンだった。灰色の外套の襟を立て、手帳を胸の内側へしまっている。その後ろでダリオが革紐の端を帯に結んだまま歩き、賢者はその間にいた。両の掌は胸の前で祈りの形に合わされ、雨粒が指の根もとに溜まっては落ちた。
舟宿の庇の端に、ケスが止まっていた。濡れた羽が、いつもより黒く光っている。首を傾けて、荷揚げ場を見下ろしていた。庇の板から雨水が一定の間隔で落ち、ケスの足もとで小さく跳ねた。
「見えるか」ダリオが上を見ずに言った。
「屋根が見える」ケスは言った。「舟が六そう。あと、塩の山」
「数えるのが速いな」
「数えた」
*
舟宿の梁は、川へ張り出した二階建ての宿だった。床の下で水が鳴り、踏むたびに板がわずかにしなった。亭主は濡れた縄を束ねて、壁の釘に掛けていた。縄は一本ずつ、釘の位置を確かめるように掛けられた。
二階の廊下には窓が並び、川霧が板戸の隙間から細く入り込んでいた。土間の隅には古い樽が積まれ、濡れた網が一枚、その上に掛けてあった。
部屋は二つ取った。一部屋、銀貨一枚半。フィンが財布の口を開け、卓に銀貨を並べた。リナは声を出さずに数えた。一枚、二枚、三枚。
「三枚」
「三枚です」フィンは手帳に書いた。
ダリオは髭の端を指でつまみ、雨の湿りを確かめた。
「霜月に焦げた分が、湿気で縮れてきやがった。賢者、これも貸しだぞ」
「返せるものなら、返しますよ」
「返すのは髭じゃなくて、俺の機嫌だ」
ダリオは窓の外を見た。霧の向こうで、川の音だけが一定の高さで続いていた。
テオは、賢者を入れた奥の部屋の戸口に椅子を一つ置き、手燭を卓の上に立てた。手燭の火は戸の隙間の風に傾き、そのたびに壁の影が伸び縮みした。
「今夜は、僕がここにいます」
「寝ないのか」ダリオが言う。
「少しは寝ます。嘘はつきませんので、先に言っておきます」
テオは手燭の芯を指先で整え、炎が真っすぐに立つのを確かめた。
フィンが亭主に舟のことを訊いた。亭主は首を振った。
「舟は明後日だ。上の村から塩舟が、明日の昼まで降りてこねえ。舟頭はみんな荷で塞がってる」
フィンが手帳に書いた。明後日、の三文字。手帳の端は雨に濡れて波打っていた。フィンはそれを指で伸ばしてから、次の行を書いた。
*
川沿いの酒場は、窓の下がそのまま川だった。天井の梁には乾いた網が掛かり、魚の骨がところどころ白く光っていた。
卓の上の油皿が、細く煙を引いていた。窓の桟には、濡れた魚の鱗が貼りついて光っていた。床は濡れた藁で覆われ、客の靴が歩くたびに、藁の下で水が鳴った。
給仕は、頭に兎の付け耳を二本つけていた。網の靴下を履き、盆を両手で持って客のあいだを縫うように歩く。耳の先が、客の頭の動きに合わせて揺れた。ピッペと呼ばれていた。旅芸人の一座の衣装が、そのまま町の流行りになったのだと、フィンが言った。
「この町では、耳をつける給仕は珍しくないそうだ」
「珍しくないのか」ダリオは給仕の背中を目で追った。「髭につける店はないのか」
ダリオは麦酒を頼んだ。銅貨五枚。泡の少ない杯が、卓に音もなく置かれた。杯の底に、川の砂らしい粒が一つ沈んでいた。
「この麦酒、薄くないか」
「薄いです」フィンは言った。「泡が薄い」
「お前まで正直になるなよ」
リナは煮込みを一皿頼んだ。銅貨十枚。煮込みは豆と干し肉の切れ端で、湯気の中に塩の味がした。財布から数えて出すと、ピッペは銅貨を受け取り、代わりに干した小魚を一匹、皿の端に置いた。
「おまけ」
リナは銅貨の数を数え直した。十枚と、五枚。小魚は数に入るのか。考えているうちに、ダリオが小魚をつまんで食べてしまった。
「おまけの小魚は、数に入りますか」
「入らねえよ。食ったから、俺の分だ」
リナは銅貨を並べ直して数えた。それでも合わなかった。
奥の隅では、イルザが湯を頼んでいた。白い法衣の袖を膝の上でたたみ、手帳と小さな算盤を卓に置いている。酒は飲まず、誰とも話さなかった。時おり、指が算盤の珠を一つはじいた。
隣の卓には行商人がいた。日に焼けた小男で、背負いの荷箱を椅子の脇に下ろしている。荷箱の蓋は半分開いていて、香料の匂いが卓の端まで流れてきた。櫛、針と糸、香料の小袋。さっきから、誰にともなく品物の値を話していた。
「櫛は銅貨二十枚。いや、十五枚でいい」
ピッペが盆で卓を叩いた。「いつ十五枚になったのよ」
「いま」
行商人は麦酒の杯を持ち上げ、声を落とすでもなく言った。
「北の山を越えてきたっていう、白い耳の旅人の話を知ってるか。人肌みたいにぬくい赤い石の値を、あちこちで訊いて回ってたとさ」
「ぬくい石?」ピッペが言った。「握って寝たら、寝ぼけそう」
「ほんとかどうかは知らんよ。酒の肴だ」
イルザが立ち上がり、銅貨を一枚、行商人の卓に置いた。
「その旅人は、どこで訊いていたのですか」
「さあ、店の名までは聞かなかった。値を訊く奴は、たいがい買わずに行っちまう」行商人は銅貨を懐へ入れた。「値は知らんよ。ただ、高いとは言ってた」
イルザは頷き、湯を一口だけ飲んで、隅の席へ戻った。
リナは赤い石の値を数えてみた。金貨で何枚になるのか、見当もつかなかった。指が杖を握り直すと、節の冷たさが掌に移った。フィンは手帳に、煮込み十枚、麦酒五枚、と書いていた。噂のことは書かなかった。
*
梁へ戻るころには、川霧が濃くなっていた。舟宿の灯が霧の中で、ぼんやりにじんで見えた。
刻み蝋燭の線が六つに届くと、リナの番が来る。戸口の内で杖を立て、外の雨の音を聞いた。屋根の上で、ケスが一度だけ羽を鳴らした。
舟は明後日の朝まで出ない。一行はネーベルで、もう一日足止めになる。




