第6章 石橋の宿
弥生十五日の夕方、石橋の宿の前で、ダリオは髭の先をつまんでいた。去年の霜月に焦げた端は、指の腹に硬く当たった。
宿は小川にかかる石橋の袂に建っていた。橋は石を四枚並べただけのもので、縁は苔で白く濡れていた。橋の下では、水が低い声で同じ言葉を繰り返していた。
宿の壁は川石を積んだもので、冬のあいだの湿りが黒い筋になって残っていた。
朝六つに二股の宿を出て、二十里を歩いた。空は一日じゅう低い雲に蓋をされ、轍に溜まった水は鉛の色をしていた。
雪解けの泥が街道の端に寄せられ、靴の裏には泥が団子になって貼りついた。一歩ごとに、足が少しずつ重くなった。
「フィン。石橋ってのは、石が四枚しかねえぞ」
「名前が石橋なんだ。石の数までは書いてない」
フィンは手帳に二十里と書き、それから宿の名を書いた。
*
宿の庭先では、行商人が荷箱を広げていた。蝋燭、紐、干し杏。それに小さな鋏が一つ、箱の角に置かれている。
行商人は痩せた男で、外套の袖口がほつれていた。庭の隅では、荷車の車輪が油の切れた音を立てていた。
ダリオは鋏を手に取った。刃は錆びていないが、柄の木が痩せていて、握るたびに指が沈んだ。
「いくらだ」
行商人は、箱の蓋に立てた札を指で叩いた。『小鋏 銅貨二十』と書いてある。札は薄い板切れで、字の端が雨に滲んでいた。
「二十か。十五でどうだ。この端を切るだけだ」
「十五じゃ、柄の木も買えねえよ」
ダリオは髭の先を鋏で挟むまねをした。
「二十五だ。いや、二十でいい。二十でいいから」
「いま二十五と言ったな」
「言ってねえ」
柵の杭は霧に濡れて黒く並んでいた。その一本の上で、ケスが首を傾けた。
「二十五と、言った」
行商人の顔が、一度こわばった。ケスはそれ以上何も言わず、羽の端を揃えた。
「鴉は嘘がつけねえんだったな」
ダリオが言うと、ケスは首を戻して言った。
「つけない」
「組合の鴉は、値切りの邪魔をする」行商人がぼやいた。
ダリオは懐から銅貨を数えて出した。財布はフィンが預かっているが、髭の金は自分の懐から出すものだった。
「十八で手を打つ」
「十八か。まあ、いいだろう」
「ダリオさん」リナが荷の陰から言った。麦藁色の髪が、荷箱の影で揺れていた。「いま、あの人は嘘をつきましたよね」
「外だからな。城壁の外じゃ、みんな嘘をつける。組合の中なら、髭の長さを訊かれても本当のことを言う」
「髭は、元どおりにはなりませんよ」
「そこは嘘をついてくれ」
フィンが寄ってきて、ダリオの手の鋏を見た。
「それは、お前の金か」
「髭の金だ」
フィンは手帳に『小鋏 銅貨十八 ダリオ』と書いた。組合の金ではないが、記録はつけておく。フィンはいつもそうだった。
*
日が落ちきるころ、宿の軒で真鍮の鈴が鳴った。夕飯の合図だった。街なら、そろそろ夕方六つの鐘が鳴るころだ、とダリオは思った。
鈴は小さなもので、鳴り終わったあとも軒先で細く震えていた。
ゲルダは腕の太い女で、声も大きかった。前掛けの紐は何度も結び直した跡があり、その手は湯に荒れて赤かった。客の数を指で一人ずつ折りながら数えるのが癖で、五人まで数えると左手の指が尽きて、右手に移った。
「八人だね。囚人を入れて八人。銀貨八枚」
「それで合っている」フィンが、銀貨を台の上に並べた。囚人の宿賃も、参事会の割り当てから出る。フィンは手帳に『石橋の宿 銀貨八枚』と書いた。
食堂は土間に長い卓を二つ並べたもので、壁の棚には錫の皿が伏せて並んでいた。梁は煤で黒く、そこに干し肉が吊られて、炉の火が揺れるたびに影が動いた。
ゲルダが大鍋の柄杓で器を満たし、テオの前に置いた。豆と豚の骨の煮込みに、葱が浮いている。湯気が卓の上を流れて、隣の席の髭の先まで湿らせた。
「坊さん、豆は旨いかい」
テオは器を両手で受け取り、少し考えた。
「旨いです。ただ、豚が少ないと思います」
ゲルダは大きな声で笑った。
「正直な坊さんだ。あんたの分だけ足しとくよ」
テオは困った顔をして、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、ありがたいです」
ダリオは麦酒を一杯頼んだ。銅貨五枚。麦酒は泡が薄く、木の器の縁に白い輪を残した。二杯目を頼もうとしたとき、フィンの目が財布の口の上で止まったので、頼むのをやめた。(二杯目は、またあとだ)
*
ダリオは賢者の隣に座り、匙で豆をすくった。卓の端は脂で光り、煮汁が木目に沿って細く溜まっていた。
賢者の両の掌は、祈りの形のまま胸の前にあった。革紐の結び目は、ダリオの帯の端にまだつながっている。
「熱いぞ。口を開けろ」
「はい」
賢者は匙を噛まずに受けた。飲み込んでから、少しだけ目を細めた。
「髭の分の匙は、あと三十杯だ」
「それは多いですね。豆の数で数えてくれませんか」
「豆は一杯に十二粒だ。三十杯で何粒になる」
「数えきれません」
「数えるな。食え」
ダリオは匙を運びながら言った。
「お前、匙の使い方が上手いな。慣れてやがる」
「子どもに、よくやりました」賢者は言った。「豆は嫌がりましたが」
ダリオは匙を止めた。その話は、そのあとに続かなかった。
「……そうか」
「それだけです」
袖の中で、指が組み替えられた。組み替えて、また止まった。ダリオは見なかったことにして、次の匙を口へ運んだ。
向かいの席では、イルザが豆を三口で食べ終え、手帳を閉じた。数字を書き終えたのか、途中で閉じたのか、ダリオには分からなかった。メルヒオルは茶碗を両手で包み、飲まずに置いた。ゲルダに礼を言う声は、隣の席まで届かないほど小さかった。
*
鐘の届かない宿場では、炉端の刻み蝋燭が時を数える。蝋燭が九つの線まで燃えたころ、リナが番を終えて寝床へ行き、ダリオは土間の戸口に座った。土間には炭の匂いが残り、戸の隙間から冷えた川風が入ってきた。囚人は奥の板の間で、壁に背を預けている。
賢者は目を開けていた。
「寝ろよ」
「眠るときも、手はこのままですか」
「このままだ。髭が直るまでな」
「では、髭が直るまで、私も胸の前で寝ます」
「嘘つけ」
ダリオは笑って、戸口の外を見た。石橋の上に霧の名残が薄く残り、欄干の苔が鈍く光っていた。
屋根の棟に、鴉が一羽、黒く座っていた。
「何か見えるか」
ケスは首を傾けて、街道の向こうの暗がりを見ていた。
「まだ、何も」
「まだ、か」
ケスは、それ以上は言わなかった。
ダリオは腰の小瓶の栓を抜かず、刻み蝋燭が夜半の線に届くまで、戸口に寄りかかっていた。




