第5章 街道の宿
二股の宿には、鐘がなかった。夕方六つを知らせたのは、ダリオの腹の虫だった。
一階の食堂には、長い卓が二つあった。手前の卓に一行が座り、窓際の卓には白い法衣の二人が並んで座った。エルノは、壁を背にした席に座らされていた。
梁は煙で黒くなっていた。壁の釘には濡れた外套が掛かり、そこから落ちる水が床板の割れ目に溜まっていた。竈の火は低く、豆を煮る匂いが、川霧の湿りに混じって部屋の隅まで流れていた。
エルノの法衣の袖口には、焦げた跡が二つあった。両の掌は、胸の前で革紐に巻かれたまま動かなかった。
「煮豆と、豚の塩漬けと、黒パンだ」とダリオが言って、皿を覗き込んだ。「豆は柔らかいな」
豚の脂が皿の端で、白く固まっていた。
リナが銀貨を一枚、卓の上に置いて指で押さえた。
「一人、銀貨一枚。夕食つき。豆と、塩の豚と、寝床」
「寝床の虫は」とダリオが訊いた。
「宿賃には入っていないと思います」
テオは豆を一口食べて、少し考えた。
「剣士さん、正直に言うと、少し塩が多いです」
「お前は、ほんとにろくなことを言わねえな」
「すみません。でも、豆がよく煮えているのは本当です」
ダリオは笑って、匙でエルノの口もとへ豆を運んだ。エルノは両の掌を胸の前に合わせたまま、顎を少し上げて受けた。
「ありがとうございます、剣士さん。髭の端が、まだ少し縮れていますね」
「言うな」
「改めて、詫びておきます」
「詫びは銀貨で寄越せ」
フィンは卓の端で、財布から銅貨を十枚数えて、宿の女に渡した。囚人の一日分の食い扶持だ。手帳に、銅貨十枚、と書き込む。字が小さく、行が揃っていた。
窓の外では、霧が街道の上を白く流れていた。
テオは窓際の法衣に目をやった。書記の女の胸に、刺繍があった。炎の芯は細く尖り、塔の形をしている。その下に小さな環があり、皿の下は下へ広がる三段の段になっていた。
灯火の刺繍は、芯が丸く、皿の下の脚は短く一本だ。テオは手燭を置いて、フィンに小さく言った。
「あの刺繍は、白塔の印ですね。灯火の印とは違います」
フィンが手帳から目を上げた。「そうか」
窓際で、メルヒオルが柔らかく頭を下げた。
「よくご覧になっていますね、修道士さん。ええ、白塔のものです」
「はい。見えたとおりに言いました」
(嘘は、どこにもない)とテオは思った。
「修道士、飯の時間だ」とダリオが言った。
*
二階の大部屋に、藁の床が八つ並んだ。衝立の向こうに、白い法衣の二人の寝床がある。
藁は新しく、陽の匂いがまだ少し残っていた。天井の隅には、煤の跡が薄く広がっていた。
井戸で足を洗ってきたテオの指の付け根は、まだ白かった。桶の底に小さな蛙がいて、水をかき回すと、ゆっくり隅へ逃げた。
井戸の水は指の骨まで冷たかった。テオは袖で手を拭き、法衣の裾に乾きかけた泥の跡があるのに気づいた。
床板が夜の冷えでかすかに鳴った。
フィンが手帳を開き、夜番の表を読み上げた。
「夕方六つから朝六つまでの十二刻を、三刻ずつ四つに分ける。六つから九つまでがリナ。九つから夜半までがダリオ。夜半から三つまでが俺。三つから朝六つまでがテオ」
「三つからか」とテオは言った。
「一番冷える時間を、修道士に」とダリオが言った。
「祈る時間です。そう思えば、寒くありません」
「囚人の見張りは、その刻の番がやる」とフィンが続けた。「ケスは数えない」
「俺は屋根で好きにしてる」と、梁の上からケスが言った。
テオは、衝立の陰のエルノを見た。
「賢者様の革紐は、眠るときも解かないのですか」
「解かない」とフィンが答えた。「眠るときは、掌を体の前で合わせたままにしてもらう」
「ええ、どうぞ」とエルノが言った。「掌の置き場所には、もう慣れました」
そのとき、リナが杖を握り直して、壁際のエルノに近寄った。
「賢者さん。火の術のことで、訊いてもいいですか」
「どうぞ。火のことなら、いくらでも」
リナは杖の先で、床に小さな円を描いた。
「攻めの火って、大きくしようとすると暴れるんです。私のは、いつも言うことを聞かなくて」
エルノは袖の中で指を組み替えてから、言った。
「大きくしないことです。火は大きくなるたびに、あなたの言うことを聞かなくなる。小さくして、長く保つ。掌の上に、小指の爪ほどの火を置いて、そのまま待たせる」
「待たせる?」
「急かさない。息は細く。それだけで、火は長く、あなたの手の上にいてくれます」
「それで、威力は」
「強くはなりません。ただ、途切れずに続きます」
リナは真剣な顔で、何度も頷いた。
「見せてもらえますか」
エルノは両の掌を見下ろした。祈りの形に革紐で巻かれた手は、胸の前で動かなかった。
「今は、見せられません」
「じゃあ、いつか見せてもらえますか」
「そのときは、いくらでも」
「解くのは、ダリオさんですよね」とリナが言うと、ダリオが床の上で寝返りを打った。「俺は、髭が元どおりになるまで解かねえぞ」
リナは少し笑って、それから訊いた。
「賢者さんは、どこでそれを覚えたんですか。白塔で?」
エルノは答えなかった。少し笑って、天井の梁を見た。
「火は、嘘をつかないんです。だから、火のことなら、いくらでも話せる」
「じゃあ、むかしのことは」
「それは、豆より退屈ですよ」
袖の中で、指が動いた。組み替えて、また止まった。テオは、それを見た。見たことを、そのまま覚えた。
衝立の向こうで、白い法衣の袖が擦れる音がした。
三つまでは、まだ長かった。テオは手燭の芯を指で押さえ、火を小さく、長く保つように絞った。それから目を閉じた。
*
夜半を過ぎたころ、ケスは宿の屋根にいた。
瓦の苔は夜露で冷たく湿っていた。霧は晴れて、星がいくつか出ていた。
屋根の棟の向こうで、厨房の煙突から最後の煙が細く上がり、風にほどけた。川のほうからは、杭に当たる水の音が続いていた。
下の街道には、馬車の轍に溜まった水が、星を一つずつ映していた。
ケスの足の下で、瓦が一枚かすかに鳴った。
ケスは、組合の屋根で拾った黒い布の切れ端を指で伸ばした。何のための布だったかは、もう分からなかった。布は、湿って、少し重くなっていた。
宿の窓を数えた。夕方に四つ灯っていた窓は、いまは二つだけが明るかった。
裏の厩の戸が、音を立てずに開いた。
人影が一つ、灯も持たずに出てきた。街道を横切って、川のほうへ続く道へ、歩いていった。背の高さと、足の運びを、ケスは見た。顔は見えなかった。
厩の馬が、一度だけ鼻を鳴らした。
人影は、霧の名残の暗い道へ入り、すぐに見えなくなった。ケスは黒い布を握ったまま、道の先が暗くなるまで見ていた。




