第4章 南街道
弥生十四日、朝六つ。南門が開くと、川から上がってきた霧が門の内へ流れ込んだ。
フィンは門の前で、隊の並びを一度だけ確かめた。手帳に書いた順と、足もとの順が同じかどうか。仕事の初めは、いつもそれだった。
先頭はダリオだった。大きな背中が霧に溶け、また現れた。その後ろにリナがいて、父のお下がりの杖を両手で握っている。杖の先が、霧の粒で白くなっていた。
綱の先にいるのは、囚人のエルノだった。
両の掌を胸の前で合わせ、手首から指の根もとまで革紐で巻かれている。祈りの形のまま、エルノは歩いた。
革紐の結び目は、ダリオが自分の帯に結んでいた。鍵のつもりらしい。フィンは縄の端だけを持った。泥で足を取られたときに、すぐ手が届くように。
テオは手燭の火を消して腰に下げ、フィンのすぐ後ろを歩いている。その後ろに白い法衣の二人が続いた。手袋をはめた使者のメルヒオルと、手帳を胸に抱えた書記のイルザ。メルヒオルは門の上の鐘楼を見上げ、イルザは足もとの泥を見ていた。
ケスは先に出ていた。門の屋根に一度とまり、霧の中で首をかしげ、それから街道の杭から杭へ、黒い点になって先へ飛んだ。
フィンは懐の引き渡し状に手を当てた。裁き役の印は、まだそこにあった。
*
南街道は、雪解けの泥だった。
轍の底に水がたまり、荷車の輪が通るたびに茶色い水がはねた。道の端には、夜明けの霜が薄い氷になって残っている。革靴の上まで泥が来た。フィンは手帳の端に書きかけて、やめた。書くほどのことではない。
最初の一里で、エルノの足が泥に沈んだ。綱が張り、フィンは一歩出て腕を支えた。
「失礼を」とエルノが言った。
「ファルクさん、泥に謝ってくれ。俺じゃない」
「ええ、泥は待ってくれませんね」
革紐の中で、指が動いた。法衣の袖口に、焦げが二つ見えた。
道の両脇の畑には、去年の麦の切り株が並んでいた。ひばりが一羽、泥の上を跳ねて、轍の影へ入った。
昼前、北から隊商が来た。鈴の音が先に聞こえ、霧の向こうから驢馬の鼻づらが出てきた。驢馬は八頭、塩の袋を積んでいる。先頭の男が手綱を引いて道を空け、こちらを上から下まで見た。
「罪人か」
「囚人です。白塔へ送ります」とフィンは言った。
男は白い法衣に目をやり、少し眉を上げた。「白塔の賢者ってのは、もっと偉そうなもんだと思ってた」
「偉そうにしてるさ」とダリオが言った。「髭を焼かれたのは、俺のほうだが」
隊商がすれ違うとき、驢馬の一頭が荷を揺らし、塩の袋が轍へ落ちた。男が悪態をつき、荷車が溝へ片輪を落とした。驢馬が鳴いた。
杭の上から、ケスが言った。
「右の輪の下に枝が入ってる。石の下だ」
男は呆れた顔で屈み、言われたとおりに枝を抜いた。輪が上がり、荷車がきしんだ。
ダリオは荷車の後ろへ回り、大きな肩を入れた。荷車が、少しだけ動いた。泥の飛沫が髭にかかり、縮れ方が増したが、ダリオは気にしなかった。
荷車が泥を抜けたとき、ダリオが息をついた。
「テオ。お前、俺より足が速いよな。そう言っとけ」
「いいえ。ダリオさんのほうが速いです」
テオは手燭を持ち直し、真面目な顔で答えた。
「……嘘をつけ」
「僕は、つけません」
リナが噴き出した。テオは真面目な顔を崩さず、手燭の位置を直した。その顔がおかしくて、ダリオがまた笑った。
*
日が真上に来たころ、一行は柳の並ぶ土手の陰で止まった。大聖堂の鐘は、もうここまでは届かない。
乾いた肉を噛み、黒パンを水に浸す。マスターの包みは、まだ残っていた。
フィンは手帳を開いた。囚人の食い扶持、一日銅貨十枚。財布の中身と数字が合うのを確かめてから、閉じた。
ダリオは黒パンを水に浸し、木の匙で掬った。
「口を開けろ、賢者」
「ありがとうございます、ダリオさん」エルノは両の手を膝の上に置いたまま、口を開けた。「髭のことは、本当に申し訳ありませんでした。去年の霜月の——」
「本当に悪いと思ってるなら、もう少し食え。俺の腕が疲れた」
「もう十分です」
「嘘つけ。さっき、俺の匙を見てたろ」
「見ていました。ですから、十分ではありません」
エルノの詫びは丁寧だった。丁寧すぎて、フィンにはどこまでが本当か分からなかった。
食べ終わると、エルノが小さく「少し」と言った。
縄を持つのはリナだった。リナは柳の陰へ連れていき、縄の端を握ったまま、耳まで赤くして空を見ていた。戻ってきたエルノは、袖の中で指を組み替えて、「お待たせしました」と言った。
リナは柳の根に腰を下ろし、杖を膝に置いた。
「組合の中では、嘘をつけないんですよね」
「鉄の誓約だ。建物の中だけな」とダリオが言った。「外へ出りゃ、俺は嘘をつく。髭が伸びた、とか」
「髭は伸びてない」と、枝の上からケスが言った。
「言うな、鴉」
ケスは嘘をつけない。見えたことを、そのまま言う。
「僕は、門の内でも外でも、嘘をつきません」とテオが言った。手燭を膝に載せ、いつもの顔で。
「知ってる」とリナが言った。
「念のためです」
「お前の念のためは、いつも長いんだよ」
ダリオが匙を置いてエルノを見た。
「賢者。お前は、外へ出たら俺らにも平気で嘘をつくんだろう」
「ええ。どこでも。私は、組合の方ではありませんから」
エルノは穏やかに笑った。
*
午後の道で、白い法衣の女、書記のイルザが歩きながら訊いた。
「ネーベルまで、あと何里ですか」
「今夜の宿までで二十里。そこから四十里です」とフィンは答えた。
イルザは手帳に、その数字を書き込んだ。筆の先が一度だけ止まり、それからまた動いた。
メルヒオルが、柔らかい声で言った。
「泥は、すぐに乾くと聞いておりますよ」
「誰に聞いたんだ」とダリオが訊いた。
「さて、誰でしたか」
テオが、一歩下がって白い法衣の二人に頭を下げた。
「賢者様、足もとがひどいですから、どうかご無理なさらず」
「ありがとう、修道士さん。あなたは正直な方ですね」
メルヒオルは、手袋の指をそろえて会釈をした。
*
日が傾くころ、街道は林を抜けて、低い丘にのぼった。
丘の下に、小さな宿場があった。二股に分かれた道の真ん中に、厩と石の井戸と、二階建ての宿が一軒。屋根の瓦に、苔が白く乗っている。
「二股の宿だ」とダリオが言った。
フィンは手帳を開き、今日の里数を書いた。二十里。朝六つの南門から、日暮れの宿場まで。
鐘の聞こえない夕暮れだった。街なら、そろそろ夕方六つの鐘が鳴って、門が閉まるころだ。厩の奥で、馬が一頭、かいばを噛む音がした。
宿の窓に灯が入った。窓の灯を数えた。四つだった。
フィンは数えたことを、手帳には書かなかった。革紐は、今夜も解かない。両の掌は、眠るあいだも胸の前にあるはずだった。




