↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/20

第4章 南街道

弥生十四日、朝六つ。南門が開くと、川から上がってきた霧が門の内へ流れ込んだ。


フィンは門の前で、隊の並びを一度だけ確かめた。手帳に書いた順と、足もとの順が同じかどうか。仕事の初めは、いつもそれだった。


先頭はダリオだった。大きな背中が霧に溶け、また現れた。その後ろにリナがいて、父のお下がりの杖を両手で握っている。杖の先が、霧の粒で白くなっていた。


綱の先にいるのは、囚人のエルノだった。

両の掌を胸の前で合わせ、手首から指の根もとまで革紐で巻かれている。祈りの形のまま、エルノは歩いた。


革紐の結び目は、ダリオが自分の帯に結んでいた。鍵のつもりらしい。フィンは縄の端だけを持った。泥で足を取られたときに、すぐ手が届くように。


テオは手燭の火を消して腰に下げ、フィンのすぐ後ろを歩いている。その後ろに白い法衣の二人が続いた。手袋をはめた使者のメルヒオルと、手帳を胸に抱えた書記のイルザ。メルヒオルは門の上の鐘楼を見上げ、イルザは足もとの泥を見ていた。


ケスは先に出ていた。門の屋根に一度とまり、霧の中で首をかしげ、それから街道の杭から杭へ、黒い点になって先へ飛んだ。


フィンは懐の引き渡し状に手を当てた。裁き役の印は、まだそこにあった。


*


南街道は、雪解けの泥だった。


轍の底に水がたまり、荷車の輪が通るたびに茶色い水がはねた。道の端には、夜明けの霜が薄い氷になって残っている。革靴の上まで泥が来た。フィンは手帳の端に書きかけて、やめた。書くほどのことではない。


最初の一里で、エルノの足が泥に沈んだ。綱が張り、フィンは一歩出て腕を支えた。


「失礼を」とエルノが言った。

「ファルクさん、泥に謝ってくれ。俺じゃない」

「ええ、泥は待ってくれませんね」


革紐の中で、指が動いた。法衣の袖口に、焦げが二つ見えた。


道の両脇の畑には、去年の麦の切り株が並んでいた。ひばりが一羽、泥の上を跳ねて、轍の影へ入った。


昼前、北から隊商が来た。鈴の音が先に聞こえ、霧の向こうから驢馬の鼻づらが出てきた。驢馬は八頭、塩の袋を積んでいる。先頭の男が手綱を引いて道を空け、こちらを上から下まで見た。


「罪人か」

「囚人です。白塔へ送ります」とフィンは言った。


男は白い法衣に目をやり、少し眉を上げた。「白塔の賢者ってのは、もっと偉そうなもんだと思ってた」


「偉そうにしてるさ」とダリオが言った。「髭を焼かれたのは、俺のほうだが」


隊商がすれ違うとき、驢馬の一頭が荷を揺らし、塩の袋が轍へ落ちた。男が悪態をつき、荷車が溝へ片輪を落とした。驢馬が鳴いた。


杭の上から、ケスが言った。

「右の輪の下に枝が入ってる。石の下だ」


男は呆れた顔で屈み、言われたとおりに枝を抜いた。輪が上がり、荷車がきしんだ。


ダリオは荷車の後ろへ回り、大きな肩を入れた。荷車が、少しだけ動いた。泥の飛沫が髭にかかり、縮れ方が増したが、ダリオは気にしなかった。


荷車が泥を抜けたとき、ダリオが息をついた。


「テオ。お前、俺より足が速いよな。そう言っとけ」

「いいえ。ダリオさんのほうが速いです」


テオは手燭を持ち直し、真面目な顔で答えた。


「……嘘をつけ」

「僕は、つけません」


リナが噴き出した。テオは真面目な顔を崩さず、手燭の位置を直した。その顔がおかしくて、ダリオがまた笑った。


*


日が真上に来たころ、一行は柳の並ぶ土手の陰で止まった。大聖堂の鐘は、もうここまでは届かない。


乾いた肉を噛み、黒パンを水に浸す。マスターの包みは、まだ残っていた。


フィンは手帳を開いた。囚人の食い扶持、一日銅貨十枚。財布の中身と数字が合うのを確かめてから、閉じた。


ダリオは黒パンを水に浸し、木の匙で掬った。


「口を開けろ、賢者」

「ありがとうございます、ダリオさん」エルノは両の手を膝の上に置いたまま、口を開けた。「髭のことは、本当に申し訳ありませんでした。去年の霜月の——」

「本当に悪いと思ってるなら、もう少し食え。俺の腕が疲れた」

「もう十分です」

「嘘つけ。さっき、俺の匙を見てたろ」

「見ていました。ですから、十分ではありません」


エルノの詫びは丁寧だった。丁寧すぎて、フィンにはどこまでが本当か分からなかった。


食べ終わると、エルノが小さく「少し」と言った。


縄を持つのはリナだった。リナは柳の陰へ連れていき、縄の端を握ったまま、耳まで赤くして空を見ていた。戻ってきたエルノは、袖の中で指を組み替えて、「お待たせしました」と言った。


リナは柳の根に腰を下ろし、杖を膝に置いた。


「組合の中では、嘘をつけないんですよね」

「鉄の誓約だ。建物の中だけな」とダリオが言った。「外へ出りゃ、俺は嘘をつく。髭が伸びた、とか」

「髭は伸びてない」と、枝の上からケスが言った。

「言うな、鴉」


ケスは嘘をつけない。見えたことを、そのまま言う。


「僕は、門の内でも外でも、嘘をつきません」とテオが言った。手燭を膝に載せ、いつもの顔で。

「知ってる」とリナが言った。

「念のためです」

「お前の念のためは、いつも長いんだよ」


ダリオが匙を置いてエルノを見た。

「賢者。お前は、外へ出たら俺らにも平気で嘘をつくんだろう」

「ええ。どこでも。私は、組合の方ではありませんから」


エルノは穏やかに笑った。


*


午後の道で、白い法衣の女、書記のイルザが歩きながら訊いた。

「ネーベルまで、あと何里ですか」

「今夜の宿までで二十里。そこから四十里です」とフィンは答えた。


イルザは手帳に、その数字を書き込んだ。筆の先が一度だけ止まり、それからまた動いた。


メルヒオルが、柔らかい声で言った。

「泥は、すぐに乾くと聞いておりますよ」

「誰に聞いたんだ」とダリオが訊いた。

「さて、誰でしたか」


テオが、一歩下がって白い法衣の二人に頭を下げた。

「賢者様、足もとがひどいですから、どうかご無理なさらず」

「ありがとう、修道士さん。あなたは正直な方ですね」


メルヒオルは、手袋の指をそろえて会釈をした。


*


日が傾くころ、街道は林を抜けて、低い丘にのぼった。


丘の下に、小さな宿場があった。二股に分かれた道の真ん中に、厩と石の井戸と、二階建ての宿が一軒。屋根の瓦に、苔が白く乗っている。


「二股の宿だ」とダリオが言った。


フィンは手帳を開き、今日の里数を書いた。二十里。朝六つの南門から、日暮れの宿場まで。


鐘の聞こえない夕暮れだった。街なら、そろそろ夕方六つの鐘が鳴って、門が閉まるころだ。厩の奥で、馬が一頭、かいばを噛む音がした。


宿の窓に灯が入った。窓の灯を数えた。四つだった。


フィンは数えたことを、手帳には書かなかった。革紐は、今夜も解かない。両の掌は、眠るあいだも胸の前にあるはずだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。