第19章 川港ふたたび
雨は三日止まなかった。
弥生二十五日の朝、舟宿の梁の二階の窓から見る川は、一晩で色を変えていた。緑がかった水が茶色く濁り、腹を膨らませたように速く流れている。岸の杭は、昨日の夕方にはもう根もとまで水に浸かっていた。今朝はその水がさらに上がって、頭を出しているのは数本だけになっていた。
窓の下では、雨樋の水が桶に落ちて、規則の悪い音を立てていた。川の上を、低い雲が切れ切れに流れていた。対岸の柳は、枝の先まで水を吸って重たげに垂れていた。
ダリオは窓枠に肘をついて、杭を数えた。数えるたびに、残りが一本ずつ減っていく。窓枠の木は雨を吸って、指で押すとわずかにへこんだ。ダリオは肘を移して、その感触を確かめた。
「親方は、三日は下がらねえと言った」
寝台に腰かけたフィンが、手帳から顔も上げずに言った。
「言った」
「なら三日だ。手帳にそう書いてある」
「お前の手帳は、いつもそこまで正しいのか」
「正しいことしか書いていない」
ダリオは髭の右端を指でつまんだ。まだ短い。焦げた跡の上に、新しい毛が細く生えかけている。焦げたときは、もっと長かった。そう思うと、また腹が立った。鏡はこの宿にはなかった。だから、髭の具合は指で確かめるしかなかった。
部屋の隅では、濡れた外套が釘にかかり、裾から水が床板へ落ちていた。麻袋が口を縛ったまま積んであって、湿った土の匂いがした。床板の隙間には、昨日の舟底の泥が細く入り込んでいた。靴の裏で踏むと、ぬるい音がした。
帯の右側は軽かった。白塔の門の前で革紐を外した弥生二十二日から、そこには何もつながっていなかった。ダリオは帯の結び目を探す手を、何度か途中で止めた。
*
川沿いの酒場は、昼前から客で埋まっていた。雨で荷が動かない荷揚げ人と、足止めの舟乗りと、行き場をなくした行商人。湿った外套が火の前で湯気を立てていた。戸が開くたびに、濡れた石畳の匂いと、川の冷たい風が一緒に入ってきた。客たちは誰もが一度は振り返り、それから元の杯へ顔を戻した。
炉の薪は雨を吸って、はぜるたびに煙を吐いた。煙は天井の梁に溜まって、客の顔を灰色に見せた。客の外套の匂いと、焼けた脂の匂いが混ざっていた。壁には舟の絵の札が掛かり、その下に塩の袋が積まれていた。
ピッペが麦酒の杯を運んできた。兎の付け耳が、梁に当たりそうなほど揺れる。網の靴下には雨の雫が光っていて、指の先が網目から覗いていた。杯を置く手は、濡れた布巾で何度も拭かれたように赤かった。ネーベルでは、給仕に付け耳をつけさせるのが流行りだという。旅芸人の衣装が元だと、誰かが言っていた。
「麦酒は一杯で銅貨五枚。煮込みは十枚」
「知ってる」
「干した小魚は、そっちのお嬢さんのおまけ」
「おまけか」
「おまけ」
リナは銅貨を一枚ずつ机に並べ、また一枚ずつ数えた。数えるたびに、十枚のままだった。どの銅貨も、同じ鈍い音で鳴った。机の木目には麦酒の雫が丸く溜まって、指で触ると冷たかった。
隣の卓では、犬が魚の骨を取り合っていた。どちらも勝たず、どちらも諦めなかった。床には踏まれた小魚の頭が転がっていたが、誰も拾わなかった。犬の鼻先は、骨を奪い合うたびに濡れた音を立てた。その音に、卓の下の誰かが足を引っ込めた。
行商人が背負いの荷箱を膝に乗せ、櫛を一本ずつ並べていた。日に焼けた小男だ。
「櫛だ。櫛、銅貨三枚。三枚だ」
「一度でいい」とダリオが言った。
「一度でいいなら、一度で買え。三枚だよ、三枚」
行商人は櫛を一本、ダリオの杯の横に置いた。歯の一本が欠けた櫛だった。それから、酒の肴のように、声を落として言った。
「そういや、妙な噂があってな。白い法衣の誰かが、ぬくい赤い石の値を、あちこちで訊いて回ってたそうだ。人の肌みてえに温かい石だと」
「石の値を、ですか」とリナが言った。
「ああ」
「前に聞いた話と違いませんか。白い耳の旅人、って言ってませんでしたか」
「噂は服を替えるんだ。耳の次は法衣だ」
行商人は肩をすくめて、杯を傾けた。
カウンターの向こうから、ピッペが笑った。
「ぬくい石なら、あたしの足にあててほしいね。いまも冷たいんだから」
ダリオは笑った。笑いながら、麦酒を一口飲んで、石のことより髭のことを考えた。
戸口の梁には、黒い影が止まっていた。ケスは梁から雨を見ていた。黒い羽の端から雫が落ちて、床の板を小さく打っていた。雫は一定の間を置いて落ち、そのたびに板の上に小さな暗い点を残した。ケスは何も言わなかった。
フィンは手帳を開いて、煮込みと麦酒の値を書いた。それだけを書いて、また閉じた。
*
弥生二十八日の朝六つ、霧が川から上がってきた。
雨は昨夜のうちにあがっていた。空は薄く明るく、荷揚げ場の石段は水がだいぶ下がって、濡れた段の縁が灰色に光っている。石段の端には、雨で流されてきた枯れ葉が貼りついていた。だが川はまだ茶色く、速かった。舟はどの岸からも出ていなかった。舟べりに打ちつける波の音が、石段の下から聞こえていた。霧の切れ目から、対岸の柳の根もとだけがのぞいていた。根の近くでは、水が渦を巻いて白くなっていた。
ヤーコプが石段の上に立って、麦わらを噛みながら川を見ていた。首を横に振る。
「下りはまだ無理だ。舟が岸に持っていかれる」
「歩く」とフィンが言った。手帳を懐にしまう音がした。「南街道を、三日で南門まで」
手帳を懐にしまうとき、フィンは一度だけ襟を直した。雨で湿った外套の襟は、立てたままでも肩に張りついた。
ダリオは腰の小瓶を振った。中で鳴る音が、昨日より軽かった。雨と川の水が入ったせいで、中身はいつのまにか半分ほどに薄まっていた。
「俺の酒が、川に負けた」
「負けたのは酒だけです」とリナが言った。
舳先の杭に止まっていたケスが、首を傾けた。
「右が短い」
「知ってる」
ケスはそれ以上、何も言わなかった。ダリオは右の髭を指で押さえた。焦げた分だけ、まだ短かった。
リナは袖の中で銅貨を数えてから、二股の宿の宿賃を口にした。
「二股の宿、また相部屋ですよね。銀貨一枚」
「そうだ」とフィンが答えた。
一行は石段を上がった。石段を一段上がるたびに、靴の底から水が染み出した。手すりの木は冷たく、濡れた手で握ると指が離れにくかった。ネーベルの町は霧に沈み、雨にしおれた看板が、ときどき揺れて見えた。
南街道へ出る道は、轍に水が溜まっていた。轍の縁には泥が盛り上がり、靴を置くとそのまま沈んだ。霧の中で、水溜まりが薄い朝の空を映していた。
一行は、南へ歩き出した。




