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第18章 帰り道

ハウゼンの桟橋に、朝の霧が低く残っていた。霧は川面から這い上がって、杭の根もとに溜まっている。板は夜露を吸って、踏むと靴の底が小さく鳴った。

東の山はまだ灰色の影のままだった。空が白みはじめると、霧の下から杭の列が一本ずつ浮かんでくる。


宿の土間では刻み蝋燭が、六つの線の手前まで燃えている。鐘はない。ダリオが桟橋の柱を拳で一つ叩いて、「六つだ」と言った。

宿の戸口からは、炭を焚いた匂いと干し魚の塩気が流れてきた。


フィンは手帳を開いた。弥生二十二日。白い蝋の塔の印。受け取りの欄に書かれた日付を、炭の棒で一字ずつ写す。黒い粉が指先につく。炭の棒は湿気て、線が太くなった。写し終えて、もう一度読んだ。合っている。


荷は早く積み終わった。麻袋、毛布、乾いた肉の包み、黒パン、塩の袋、灯油の小瓶、縄の束。囚人の麻袋はもうない。

舟の腹に荷を置くと、板がゆっくり沈んだ。麻袋の口を縛り直す音が、霧の中で短く響いた。

麻袋は舟板の上で重く鳴り、縄の束は夜露で湿って、結び目の固さをまだ残していた。塩の袋の口から白い粉が少し零れ、ダリオが靴の先で板の隙間へ払った。

フィンは手帳の食い扶持の欄に、銅貨十枚の数字の上から細く線を引いた。


「親方。帰りの舟賃だ」

ヤーコプは艫に腰かけ、麦わらを口の端で噛んでいた。艫の板は濡れて黒く、親方の尻の下で低く軋んだ。フィンが金貨一枚と銀貨十枚を渡すと、親方は金貨を歯で噛まず、掌の上で一度ころがした。

「確かだ」

「一枚半を銀貨で払うと、袖が重くなります」とリナが言った。もう袖の中で数えていた。


ダリオが舟に片足をかけ、髭の右端を指でつまんだ。

「テオ。髭は戻るか」

テオは手燭を胸に抱えたまま、少し考えた。

「戻りません。この春は、難しいと思います」

「そこは嘘でも、戻ると言え」

「僕は、嘘をつきませんので」

ダリオは大きな体を舟に落とした。舟が左右に揺れ、ヤーコプが麦わらを噛み直して笑った。川霧の匂いが、舟べりの濡れた縄から立ち上った。


ケスは桟橋の杭から飛んで、舳先の杭に移った。翼を一度ひらいて、たたんだ。乗ったという合図は、それだけだった。


*


川は桟橋を離れると速くなった。水は緑がかって、岸の枯れ葦が灰色の列になって後ろへ流れた。

舟の下で水が低く唸り、そのたびに艫の板がかすかに震えた。

霧が切れ、東の山が後ろへ下がっていく。雪解けの水が舟の腹を押す。舟の底を叩く水の音が、ずっと絶えなかった。上るときは三日かかった川を、下りは二日で行けると、ヤーコプは言った。

「山の水が背中を押す。下りは楽だ」

竿の先が岸の石を突き、舟が一度大きく横へ流れた。艫の親方が竿を寝かせて戻す。濡れた縄が舟べりで鳴った。竿の先から垂れた水が、舟底の板を黒く濡らした。

雲の切れ目から弱い日が差して、川面に白い筋が走った。


フィンは手帳に、川の曲がり目を書いた。曲がり目が四つ。岸の杭が十二本。数えた数は、ヤーコプの数と一本も違わなかった。炭の棒の先が、揺れのたびに紙の上で滑った。


岸の柳の下で、白い鳥が一羽、片足で立っていた。柳の枝が風に揺れても、鳥は足を替えなかった。ケスが舳先から首を伸ばして、それを見ていた。鳥は動かなかった。

鳥の脚は細く、川の石とおなじ灰色をしていた。

ダリオは舟底で外套を頭からかぶって寝ていた。髭の右端だけが、外套の端から飛び出していた。


リナは杖を膝に寝かせて、柳の数を数えていた。

「賢者さん、今ごろ何を食べてるかな」

舟の上の空気が、一度止まった。外套の下でダリオが身じろぎし、それきり動かなくなった。

テオが手燭の蓋を閉じて、リナのほうを向いた。

「分かりません。塔の中の食事は、僕は見ておりません」

「……そうですよね」

「門の前までしか、見ていないので」

リナは杖の先で舟底をこつんと叩いた。それきり、誰も続けなかった。


フィンは手帳を開いたが、何も書かなかった。書くべき数字がなかった。


*


夕方、ヤーコプは砂洲の陰に舟を寄せた。刻み蝋燭の夕方六つの線は、もう少し先にあった。日はすでに山の端にかかっている。

砂洲の石は白く乾いて、踏むと靴の下で粒が崩れた。川の音が、砂洲の向こうで低く続いていた。

風が砂洲の枯れ草を寝かせ、乾いた音を立てた。川下の空が少しずつ赤くなり、流れの色が鈍く光った。


砂洲に流木を集めて火を起こした。乾いた肉を棒に刺して炙ると、脂が火に落ちて、いい匂いが上がった。煙は川の上へまっすぐ流れ、やがて低い霧に混じって見えなくなった。黒パンは固いので、川の水に浸してから火の端であぶる。

ダリオが一口かじって、顔をしかめた。

「固い。固いが、旨い」

「どっちですか」とリナが訊いた。

「両方だ」

火の色が、ヤーコプの白髪を赤く見せた。炎がはぜるたびに、岸の縄が影の中で鳴った。

煙の匂いが、舟の縄や濡れた外套にまで染みついた。


夜番は三刻ずつ、四つに分けた。リナ、ダリオ、フィン、テオ。囚人の見張りのない夜番は、ただの火の番になった。ケスは数えない。舟は岸の杭に縄で繋がれ、縄が夜の風で時々鳴った。


ヤーコプは火の向こうで、低い雲を見ていた。雲は山の端から川の下流へ、ゆっくりと流れていた。

「明日は雨だな」

「雨ですか」

「川が増える」


フィンは手帳に『雨』と書いた。その下に、川が増える、と書き足した。


*


雨は朝六つを少し過ぎて降りだした。細かい雨で、外套の襟を立てても、首の後ろから入ってくる。雨粒は川面を打って、一面に小さな輪を作った。

雨は屋根のない舟の上を、遠慮なく叩いた。麻袋の口から雨が染みて、中の毛布の端まで湿りが上がった。舟底にたまった水が、靴の下で絶えず音を立てた。

川の色が変わっていた。昨日の緑がかった水は、茶色く濁っている。川の縁では泥が盛り上がり、岸の草が半分水に沈んでいた。枯れ枝が舟の横を速く過ぎていく。

岸の杭は、もう根もとまで水に浸かっていた。

ダリオが竿の先で枝を引き寄せた。

「俺の髭に似てる」

「枝です」とリナが言った。


雨の中でも、ヤーコプは麦わらを吐き出さなかった。艫の親方の外套から、雨水が絶え間なく垂れていた。舟は流れに押されて、昨日より速く下っていく。舟べりの濡れた縄には、雨の粒が数珠のようについていた。


夕方近く、川の東岸に石畳の荷揚げ場が見えてきた。荷揚げ場の石段は、いつもより一段低いところまで水に浸かっていた。石畳の隙間から水が湧き、荷車の轍に溜まった水が灰色に光っていた。

石段の端には、塩の粉が雨に溶けて白く筋を引いていた。

ヤーコプが舟を寄せ、岸の杭に濡れた縄を巻いた。縄は雨を吸って重く、杭に巻くたびに湿った音を立てた。結び目を二度引いて、ようやく舟が止まった。

「明日は出ねえ」

親方は麦わらを一本、吐き捨てた。

「川が上がってくる。三日は下がらねえと思え」

フィンは手帳を開いた。雨で紙の端が柔らかくなっていた。

『ネーベル着。舟、止まる。三日』

そう書いて、フィンは文字を見下ろした。石段の水が、一段ずつ、音もなく上がってくる。


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