第20章 帰り着く場所
弥生三十日の昼過ぎ、南街道は晴れていた。
轍の土は乾いて固まり、靴の裏に白い土がこびりついた。両側の麦畑はまだ背が低く、土手の向こうまで同じ緑が続いている。土手の下の溝には、細い水が流れていた。川霧はもう上がってこなかった。
道の脇の草は、風に揺れて、靴の先が触れるたびに乾いた音を立てた。
フィンは手帳を開かなかった。石橋の宿で書いた数字を、頭の中でもう一度足しただけだった。六十里を三日。囚人の麻袋は門番の手に渡り、荷は来たときより一つ軽い。
「最後の乾いた肉だ」とダリオが言った。大きな手で紙包みを開き、一切れを口に入れた。「髭に塩が溜まらなくなる」
「もう髭の話はいいでしょう」とリナが言った。
「右だけ短いんだ。左と揃うまで、俺はやめない」
リナは杖の先で道の小石を払った。小石は溝へ転がって、白い土がひとすじ舞い上がった。
「石橋のおかみさん、夕飯の鍋を覗いて、わたしたちを指で数えてましたよ。一人ずつ指を折って数えて、それから鍋を見て、また数え直したんです。鍋のほうが足りないって顔で」
「鍋は足りてた」とフィンが言った。
「だから、おかみさんの顔が怖かったんです」
日は西の丘に近づいて、薄く赤みを帯びていた。丘の裾の林は、もう片側だけ影に沈んでいた。城壁の外には、鐘がない。フィンは日の高さと道の影の長さで刻を見た。夕方六つまで、まだ半刻ほどある。
上を回っていたケスが、低く降りてきて道端の杭に止まった。
「まだ開いてる」
それだけ言って、ケスはまた空へ戻った。
*
南門の石の影は、夕日を受けて灰色から茶色に変わっていた。門の両脇の石柱には、霧の日の黒い筋が残っていた。
門番の詰所の前で、若い隊員が椅子から立ち上がった。トマスだった。夜の町廻りで、フィンと一緒に北の通りを歩いたことがある。
「フィンさん。六つ前っす」
「六つ前だ。受け取りは済んだ」
フィンは懐から引き渡し状を出し、白い蝋の判が捺された欄を指で示した。
「門の中で見せる。ここで広げると風で飛ぶ」
「そうしてくれ」
門の横では、閉門の鎖が巻かれて、いつでも落とせるように待っていた。鎖は太く、濡れた手でつかめば指の跡が白く残りそうだった。門の上の旗竿は、風がないので垂れていた。石畳の目地には、乾いた砂が白く溜まり、靴が踏むたびに小さく鳴った。
後ろでダリオが言った。
「トマス、その鎖は落とすなよ」
「落としませんって」
言ったとたん、鎖が手から滑った。金属の音が石畳で跳ねて、トマスの靴の上に落ちた。
「落としてないっす」とトマスが言った。
「落としたな」
「足で受けました。落としてないっす」
門をくぐり切ったとき、街の奥から鐘が鳴りはじめた。
大聖堂の鐘だった。十二日の裁きの日に聞いたのと同じ音が、門の内から降ってきて、フィンの肩を軽く叩いた。ケスは門の上の欄干に止まり、翼の縁を三つずつ折りながら鐘を数えていた。六つ鳴り終わるまで、誰も口をきかなかった。
テオが手燭の蓋を開けかけて、火を入れずに閉じた。
「これから、大聖堂へ報告に行きます」
「門のことをか」とフィンが訊いた。
「門の内は、見ておりません、と」テオはそう答えてから、一行のほうを向いた。「皆さんは、今夜はどちらへ」
「みなさん、まっすぐ酒場っすよね」とトマスが言った。
「まっすぐではありません。大聖堂に寄ります」とテオは言った。「ですが、そのあとは、たぶん錆び釘亭です。ダリオさんが、そう言っていましたから」
「言ってない」とダリオが言った。
「言いました」
最後の鐘が消えるころ、後ろで門扉が閉まった。
*
錆び釘亭の戸を押すと、火の匂いと麦酒の匂いがした。炉の前の床は、薪の灰で白く汚れていた。壁の釘には古い網が掛かり、天井の煙で茶色くなっていた。
カウンターの向こうで、マスターが顔を上げた。
「お帰りなさい。座ってください。麦酒と温かいものを用意しますから」
「代金は」とリナが訊いた。
「今夜の分はいただきません。明日からは、いただきます」
肩の荷を下ろしたあとの体は、椅子に深く沈んだ。ダリオは麦酒を一口で半分飲んだ。泡が髭にたまり、右の端だけが白く残った。ダリオは指で、右の髭だけを拭った。
マスターが椀を置いた。豆と塩豚の煮込みで、湯気が手帳の上までのぼってきた。フィンは手帳を脇へ寄せ、匙を取った。
外で荷車の車輪が、石畳の目地を拾って鳴った。
奥の階段を、組合長のエーリカ・ランゲが下りてきた。右の足を少し引いている。
「ここでお支払いします」とエーリカは言い、フィンの前の卓に座った。「引き渡し状を見せてください」
フィンは広げた紙を渡した。エーリカは日付と受け取り手の名、白い蝋の塔の印を順に指でなぞった。三つとも揃っていた。
エーリカが金貨を六枚、卓に並べた。
「銀貨百二十枚」とリナが小さく言った。
「金貨六枚です」
「ええ。百二十枚で六枚です」リナは金貨を一枚ずつ指で押さえた。「わたしは、どっちで数えても嬉しいです」
ダリオが麦酒の杯を持ち上げた。
「その金で、髭の薬は売ってないのか」
「売っていません」とエーリカが言った。
フィンは金貨を財布に移し、紐を締めた。手帳を開き、今日の日付の下に書いた。
『受け取り、有り。残金六枚、満額』
*
卯月三日、雨。
錆び釘亭の窓は、雨で白く曇っていた。軒の端から落ちる雨が、窓の下の石に小さく跳ねていた。
店の隅の梁の下に、ケスが一人でいた。黒い羽をたたんで、首を少し傾けている。誰もそこへ話しかけなかった。ダリオは麦酒を飲み、リナは卓の上で銅貨を並べていた。炉の火は小さくなって、灰の上に赤い筋だけが残っていた。
戸を開けて、エーリカが入ってきた。肩が濡れていた。エーリカはフィンの卓の前に座った。
「フィンさん。参事会に、白塔から文が届きました」
「何と書いてありましたか」
「短い文です。写しを読みました」エーリカは杯の縁を指で押さえた。「『囚人エルノ・ファルクは、もういない』。それだけです」
リナの指が、銅貨を数える途中で止まった。
ダリオは何も言わず、麦酒を一口飲んだ。
「もういない」とフィンは繰り返した。
エーリカは頷いた。それ以上は何も言わなかった。
フィンは手帳を開き、雨と書いた。その下に、文の一行は書かなかった。書くべき数字が、どこにもなかったからだ。
店を出ると、雨が外套の襟に落ちた。石畳の窪みに水が溜まり、空の白さをそのまま映していた。
通りの向こうの組合の屋根の上に、黒い影が一つ止まっていた。さっきまで店の隅にいた影だと、フィンは思った。思っただけで、誰にも言わなかった。
そして、その影に何も訊かずに、フィンは雨の中を歩き出した。




