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第三話 梅津梅林

ある晴れた小春日和の日、私は当時付き合っていた彼と梅津梅林へ向かった。

彼は大学の同級生で、同じサークル仲間でもある。


梅林は温川温泉のすぐ近くにあった。 温泉街の細い道を奥へ奥へと進むと、道は最後に右へ九十度曲がり、 その正面に車二台ほどの小さな駐車スペースが現れる。 左側には、木を土に埋め込んだだけの簡易な階段が続いていた。


「こんなところに本当に梅林なんてあるの?」

彼はしぶしぶついてきたものの、あまり乗り気ではない。

「家でゴロゴロしてるより、外の空気吸ったほうがいいでしょ」


車を停め、階段を上り始めた。 手すりもない三十段ほどの階段は思ったより急で、 足元ばかり見ているうちに、いつの間にか登り切っていた。


そこでまず迎えてくれたのは、景色ではなく“香り”だった。

梅の豊潤な香りが、辺り一面に満ちている。

こんなに強い花の香りを嗅いだことはない。


息を整えながら目線を上げると、そこは一面の梅の世界だった。

薄いピンクと濃いピンクの梅が満開で、 サッカーコート一面ほどの広さに、所狭しと梅の木が植えられている。


「すごっ」

「すごいね。こんなにきれいだと思わなかった」


私たち以外には誰もいない。 風の音も、人の気配もない。

ただ、梅の香りだけが濃く漂っている。

しばらくすると、その静けさは、どこか“この世ではない場所”のように感じられた。 理由はわからないが、胸の奥がひやりとする。 彼を見ると、彼も同じ気持ちだったらしい。


「そろそろ帰ろうか」

「そうだな」


平静を装って入口へ向かおうとしたその時、 「ホー、ホケキョ」とウグイスの声がした。

「今聞こえたよな?どこで鳴いてるんだ?」


もう一度聞こえた。「ホー、ホケキョ」。

声のする方を探して耳を澄ませた瞬間、 見えてはいけないものが見えてしまった。


崖のはずの場所に、 大きなかやぶき屋根の日本家屋が建っていた。

庭の梅の木にウグイスがとまり、 ふすまが開いていて、部屋の中が見える。


お膳が五つ並び、 汁物からは湯気が立っていた。 サッカーコートの端から端ほど離れているのに、 なぜか湯気がはっきり見える。


今にも、そこから“何か”が出てきそうな気配がした。


背中がヒヤッとし、彼を見ると、 彼も同じ景色を見て顔を引きつらせていた。


私たちは一歩、また一歩と後ずさりした。

なぜだかわからないが、 その家に背を向けてはいけないような気がした。

階段までたどり着き、 這うようにして車へ戻った。


「見た?」

「見た」


車を走らせながら、 さっきの光景が頭の中でぐるぐる回る。

声に出して言うことすら怖くて、 家に着くまで無言だった。


温かい紅茶を飲みながら、彼がぽつりと言った。

「あそこ、崖のところだったよな?」

冷えた手を紅茶の入ったカップで温めながら、応える。

「うん。確かに崖だった。 それに、最初に梅林を見ていた時は、あの家はなかったよね?」

「なかった」


「私たち、見えちゃったってこと?」

「見えちゃったな」


「悪い感じではなかったよね?」

「禍々しいって感じではなかったと思う」


「じゃあ、あれ何だったんだろう。昔話に出てくるような家だったよね。」

「確かに。日本昔話そのまんまって感じだったよな。」


結局、正体はわからないまま、 「悪いものではないだろう」という結論で話は終わった。


その後、あの梅林には行っていない。 当時はインターネットもなく、 梅林のいわれを調べる術もなかった。

ただ、あの時感じた“怖さ”だけは、今もはっきり覚えている。

禍々しさとは違う、 「人間が近づいてはいけない場所」に触れてしまったような怖さ。

あれは、この世ではないどこか別の次元の世界だったのかもしれない。

私たちはたまたま、 梅の香りに誘われて、その異界をのぞいてしまったのだろう。


そしてその時感じた怖さは、 そちらへ行ってはいけないという本能か、 あるいは“人ならざるもの”への畏敬だったのかもしれない。

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