第2話 隣の席
四月の教室は、まだ誰のものにもなりきっていない匂いがした。開いたばかりの教科書の紙の匂いと、黒板消しの粉っぽさ。窓際から入る風はやけにぬるくて、古典教師の抑揚の薄い声だけが、眠気ごと教室をゆっくり撫でていく。
近藤宏樹は頬杖をつきながら、半分くらい聞き流していた。
黒板には助動詞。未然形。連用形。終止形。
眠い。だるい。春休み明けの一限にやっていい内容じゃない。
窓の外からは、体育の授業らしい掛け声が遠く聞こえていた。笛を吹く音。ボールが地面で跳ねる音。いいよな。体育の連中は眠気と戦う必要なくて、と近藤がぼんやり考えたときだった。
後ろの扉が、がらりと開いた。
教室の空気が、ほんの少し揺らいだ。大きな音ではなかった。けれど、水面に小石が落ちたみたいに、何人かの視線が反射で後ろへ流れる。前列でノートを取っていた女子まで手を止めた。近藤もつられて振り返る。神代瑠衣だった。
「……来た」
誰かが小さく言った。
「……神代。今何時だと思ってる」
古典教師が、呆れた声を出す。
神代は後ろ扉のところに立ったまま、一拍だけ黒板上の時計を見た。見た、というより、視界に入れた、くらいの視線だった。
「すみません」
一応、謝ってはいる。
けれど声にも態度にも、反省の色はほとんど乗っていなかった。反抗的というより、遅刻したこと自体にあまり興味がなさそうだった。
重たげな黒髪は少し跳ねている。寝癖なのか、そういう髪型なのか分からないくらい自然に乱れていて、前髪が片目にかかっていた。ネクタイも少し緩い。シャツの襟も、ピシッとしてるわけではないのに、だらしなくは見えない。
女子が騒ぐ理由は、まあ分かる。
近くで見ると、余計に目を引く顔立ちをしていた。男の近藤から見ても、うわ、と思うくらいには整っている。白い肌。伏せがちな目元に長い睫毛。そこに何処となく気怠そうな無愛想さが乗って、近寄りやすい爽やかさとは全然違うのに、なぜか視線を外しにくい。ただ立っているだけで、教室の中の明るさが少し偏るような雰囲気を持っている。
「席つけ」
「はい」
神代は教室中の視線を特に気にする様子もなく歩いてくる。前の方で女子が、声を殺しきれないまま囁いた。
「今日、一限いるんだ」
「朝から見れたー」
聞こえてんぞ、と思う。神代は聞こえているのかいないのか、何も反応しなかった。近藤の左隣まで来て、椅子を引く。鞄を机の脇に掛ける。がた、と小さな音がした。
そこから十分も経っていないと思う。隣の神代はもう寝ていた。
「いや寝んのかよ」
近藤は思わず小声で呟いた。しかも、古典教師は特に注意しない。
遅刻してきて、席について、即寝る。普通なら一発で怒られる。少なくとも名前くらい呼ばれる。それなのに教師は一度だけ神代の方を見て、ため息をついただけだった。怒るというより、もうそういうものとして処理している顔だ。
前の席の女子が、ちら、と後ろを振り返る。多分、また寝てる、と思ったんだろう。視線が神代に触れて、すぐに前へ戻る。
神代はこちらを向いて眠っていた。
腕を枕みたいにして伏せているせいで、長い睫毛ばかりやけに目についた。前髪が少し頬へ落ちていて、窓から入る春の光が黒髪の輪郭をぼんやり透かしている。
美形という言葉だけでは、少し足りない。整っているのに、どこか温度が低く、簡単には近づけない顔だった。いや、何見てんだ俺。男の顔をそんなに確認している自分が少し嫌だった。
休み時間になって、教室の空気が一気にほどけた。椅子を引く音。教科書を閉じる音。後ろの方で男子が購買のパンの話をしている。古典教師が出ていくと、眠気の膜が破れたみたいに、あちこちから声が立った。
「近藤」
不意に名前を呼ばれる。横を見ると、神代が起きていた。ついさっきまで完全に寝ていた顔で、こちらを見ている。
「ん?」
「シャーペンある?」
「あー、ある」
近藤は筆箱から一本出して渡した。
「返せよ」
「覚えてたら」
「覚えてたらじゃねえよ」
神代は受け取ったシャーペンを指先でくるりと回して、「サンキュ」とだけ言った。
声が低い。低いというか、まだ眠気が混ざっている。別に色っぽく喋っているわけでもないのに、聞いたあとで少し耳に残る声だった。
「……お前さ」
近藤は何となく聞いた。
「なんでそんな寝てんの?」
神代は数秒黙った。考えているのか、単に反応が遅いのか分からない沈黙だった。
「眠いから」
「小学生みたいな理由だな」
神代はそこで初めて、少しだけ笑った。本当に少しだけだった。口元がわずかに緩んだだけで、声も出していない。笑った、というより、表情の温度が一度だけ上がったくらい。
あ、こいつ笑うんだ。近藤がそう思った直後、前方の女子がと目があった。
指先から白い消しゴムが転がって、机の端で止まる。近藤は思わず拾おうとして、手を引っ込めた。本人は何事もなかったみたいに前を向いているが、耳が赤くなっている。
「あー……なるほど」
「なに」
「いや別に」
神代は少し怪訝そうに近藤を見たが、それ以上は聞いてこなかった。借りたシャーペンを指の間で回しながら、机に頬杖をつく。
二限の英語が始まった。神代は開始早々、目を閉じた。
机に突っ伏すわけでもなく、椅子の背へ身体を預けたまま、顔だけをわずかに窓側へ傾けている。寝るには不安定そうなのに、妙に収まりがよかった。
器用なのか、無神経なのか分からない。近藤は教科書を開きながら、横目でその姿を見た。十分ほどして、英語教師が教壇から神代の名前を呼んだ。
「神代。次、読め」
神代はゆっくり目を開けた。
寝起きの顔のまま教科書へ視線を落とし、ページを確かめるような間もなく読み始める。詰まらない。抑揚も自然で、発音だけを聞けば、さっきまで寝ていた人間とは思えなかった。読み終えると、教師は何も言わず次の生徒を指した。
神代も何もなかったように、また目を閉じた。近藤は思わず横顔を見る。どこで聞いてたんだ、それ。質問してみたかったが、授業中にわざわざ起こすほどでもない。そもそも、起こしたところで「別に」と返される気がした。
三限の数学で、その疑問は少し違う形になった。黒板には、去年習った二次関数の復習問題が並んでいた。
数学Ⅱへ入る前に確認しておくぞ、と教師は言ったが、近藤には確認というより、忘れていたことを次々と突きつけられている感覚に近い。春休みにほとんど勉強していなかったせいで、授業が始まって十分もしないうちに半分ほど置いていかれた。これは帰ったら復習しないとまずいやつだ。そう思った。思っただけで、手はあまり動かなかった。
どこから分からなくなったのかを考えていると、視界の端でシャーペンが動いた。
神代は今度は寝ていない。
ただ、真面目に授業を聞いているようにも見えなかった。一度黒板を見る。ノートへ視線を落とす。数式を書く。ときどき途中を飛ばし、また先へ進む。考え込む間がなく、シャーペンの動きだけが一定だった。
近藤は何となく、そのノートを覗き込んだ。整った数字と記号が、必要なぶんだけ並んでいる。途中式はほとんどない。教師が黒板へ書いているものよりずっと短いのに、答えだけは同じ場所へ辿り着いていた。
しかも、黒板より先へ進んでいる。
「……え」
声が漏れた。神代が、顔は動かさずに目だけをこちらへ向ける。
「何」
「あ、いや。お前、どこやってんの」
「ここ」
シャーペンの先で示された一行を見る。近藤は黒板を見る。もう一度、神代のノートを見る。
「そこ、まだ先生やってなくね?」
「そう?」
神代はようやく黒板を見た。それから、自分のノートへ戻る。
「……ああ」
本当に今気づいたような声だった。近藤はシャーペンを持ったまま固まった。頭のいいやつなら、これまでにも見たことがある。
テスト前に余裕そうにしているやつ。教師に指されても平然と答えるやつ。模試の順位表に名前が載るやつ。けれど、神代はそういう人間とも少し違った。
速く解こうとしているように見えない。同じ黒板を見ているのに、必要なものだけを先に拾って、いらない部分を置いてきてしまう。そんな感じだった。
「この六。俺の中では急に失踪した」
神代は一度瞬いた。それから、近藤のシャーペンを指で示す。
「貸して」
近藤が渡すと、神代はノートの空いたところへ短い式を書いた。
[x^2+6x=(x+3)^2-9]
「六の半分を入れる」
「半分?」
「三。ここを二乗すると、余計に九が増えるから引く」
神代が、式の二か所をシャーペンの先で示した。
「だから、消えたんじゃなくて、こっちに入ってる」
近藤は元の式と、神代が書いた式を見比べた。
「ああ……なるほど」
教師の説明では引っかかっていた場所が、神代の二行で急に繋がった。
「お前、説明できんじゃん」
「聞かれたから」
「普段からもうちょい喋ればいいのに」
「何を」
「何をって言われると困るけど」
神代はわずかに首を傾けた。嫌そうでも、面倒そうでもない。本当に答えが分からないらしい。近藤は少し笑いそうになった。
黙っているから話しかけづらく見えるだけで、話してみれば案外普通だった。少なくとも、質問したくらいで嫌な顔はしない。説明も、教師より近藤には分かりやすかった。
ただ、普通の会話を続けるための何かが、微妙に欠けている。数学教師が列の間を歩いてきた。生徒の手元を順に覗き込みながら進んでいた足が、神代の席で止まる。
「神代」
教師の声が少し低くなった。
「お前、また途中式を飛ばしてるだろ」
「……はい」
「自分で分かるのはいいが、テストではちゃんと書け。答えが合ってても減点するぞ」
「気をつけます」
教師は神代のノートをもう一度見て、それ以上は言わずに歩いていった。近藤は少し意外に思った。もっと目をつけられているのかと思っていた。遅刻する。授業中に寝る。たまに学校にも来ない。
けれど、教師の口調には、叱るというより確認に近い響きがあった。こいつはこういうやつだと分かったうえで、必要なところだけ直させようとしている。
神代は教師が離れると、何事もなかったようにノートへ視線を戻した。シャーペンの先が、また静かに動き出す。
「神代」
「何」
「それ、俺の」
神代の手が止まった。手元のシャーペンを見る。隣に置かれた自分のものを見る。
「あ」
近藤へ返す。
「ごめん」
「まあ両方俺のなんだけど」
「似てるから間違えた」
「いや似てねえし」
神代は二本を見比べた。
「……そう?」
近藤はとうとう吹き出した。前の席のやつが振り返りかけたので、慌てて口を押さえる。神代は笑われた理由が分からないらしく、少しだけ眉を寄せていた。その顔を見ていると、さっきまで感じていた距離が、ほんの少しだけ縮んだ気がした。
神代瑠衣は、隣に座っている。
話しかければ返事をする。分からないところを聞けば教える。人のシャーペンを間違えて使い、その違いに本気で気づかない。案外、普通の男子高校生だ。それなのに、ふとした瞬間だけ、同じ授業を受けているとは思えなくなる。
近藤が一問に引っかかっている間に、その先まで行っている。教師に注意されても、褒められても、たぶん同じ顔をする。眠そうな目で窓の外を眺めながら、一人だけ別の速さで時間を進んでいる。
窓の外から、笛の音が聞こえた。
近藤は神代の横顔を一瞬だけ見た。
長い前髪が目元へ落ちている。黙っていれば、やっぱり少し近寄りがたい。顔も、腹が立つくらい整っていた。
すごいやつなのか。抜けているのか。頭がいいのか、ただ変なのか。たぶん、全部だった。近藤は自分のノートへ向き直った。変なやつだな、と思った。さっきまでより、ずっと親しみを込めて。




