第3話 彼女
朝、鏡の前で前髪を巻きながら、千葉美緒はふと我に返った。
コテの熱で、毛先がほんの少し甘く曲がる。洗面所には母が使ったヘアオイルの匂いが薄く残っていて、窓から入る朝の光が、鏡の端に白く反射していた。
「……いや、別に?」
声に出してから、自分で自分に引いた。
誰に言い訳しているのか分からない。分からないまま、もう一回だけ毛先を整える。右側だけ少し外へ流して、前髪の隙間を指で直して、顔を近づけて確認する。
制服よし。
リップよし。
寝癖なし。
肌の調子も、悪くない。
完璧である。
別に誰かのためじゃない。ただ最近、学校へ行くモチベーションがちょっと高いだけだ。春だし。新学期だし。二年生だし。そういうことにしておく。
「美緒ー!遅刻する!」
「今行くー!」
母親から大きな声で呼ばれる。洗面所の電気を消して、階段を降りながらスマホを見る。グループトークは朝からもう動いていた。
『一限古典だる』
『小テストあるらしい』
『てか今日神代いるかな』
美緒は思わず口元を押さえた。
“いるかな”じゃないのだ。
いてほしい。
画面を伏せる。誰に見られたわけでもないのに、耳の後ろが少し熱くなった。
玄関でローファーを履く。昨日の夜に磨いたつもりだったけれど、つま先に小さな曇りが残っていて、親指で軽く擦った。そんなことを気にする自分が、ちょっとくすぐったい。
駅までの道には、同じ制服の生徒が少しずつ増えていた。自転車を押しながら歩く男子、コンビニ前で立ち話をしている女子、信号待ちのあいだに単語帳をめくっている子。去年までは特に何も思わなかった景色なのに、最近はなんとなくすべての輪郭が鮮明だった。
学校って、こんな楽しかったっけ。
自分でも単純だと思う。単純すぎて、少し恥ずかしい。
下駄箱で上履きに履き替え、三階まで上がる。階段の踊り場には、まだ朝の冷たい空気が残っていた。手すりの金属が指先にひやっと触れる。
教室前の廊下で、森下琴音が壁にもたれて待っていた。肩からかけた鞄を少しずらし、眠そうな顔で美緒を見る。
「おはよー」
「あ、おは。ねえ聞いて」
「神代?」
「なんで分かったの?」
「今日、髪ちゃんとしてる」
「毎日してるし」
「じゃあ今日は、いつもより二巻き多い」
「数えるな」
琴音は口元だけで笑った。こういうところが嫌だ。いや、嫌というか、 目ざとくて腹が立つ。
「今日いると思う?」
「知らないよ。昨日は……途中から来たっけ」
「でもほぼ寝てた」
「美緒さぁ、最近ずっと神代観察してない?」
「してないよ」
「してるんだよなぁ」
言いながら教室へ入る。
それなのに、美緒の視線は反射みたいに中央列へ向いた。
いた。
「……あ」
足が止まった。
神代瑠衣は、珍しく朝から席に着いていた。窓から入る光が、少し癖のある黒髪の端だけを淡く透かしている。頬杖をつき、眠そうに目を伏せたまま、ぼんやりと外を見ていた。
朝の教室はまだ人の声が薄く、机を引く音や鞄を置く音だけがところどころで鳴っている。その中で神代の周りだけ、少し温度が低く見えた。
顔立ちは、やっぱり整っている。けれど近寄りやすい綺麗さではなかった。開いたシャツの襟元。頬を支える長い指。伏せた目元に落ちる前髪。全部が無造作なのに、そこだけ絵の中みたいに決まっている。
「うわあ……」
「声出てる」
琴音に肘で小突かれて、美緒は慌てて口を押さえた。
神代はたぶん、こちらに気づいていない。というより、周囲の視線にいちいち反応しない。女子が騒いでいても、窓の外を見たまま。男子に話しかけられれば短く返すけれど、自分から輪に入っていくことはない。
後ろの扉が勢いよく開き、男子たちが騒がしく入ってきた。
「おはよーございまーす」
浅井健吾の無駄に明るい声が、教室の天井に跳ねる。何人かが笑い、椅子が鳴り、一気に朝の温度が上がった。
その瞬間、神代がほんの少しだけ眉を寄せた。
本当に、ほんの少し。うるさいの嫌いなんだ。
どうでもいい発見なのに、美緒の胸の奥が小さく弾む。
「……ねえ」
「なに」
「今の見た?」
「美緒、見過ぎ」
「まだ何も言ってないじゃん!」
「言う前から分かる」
琴音が吹き出す。美緒もつられて笑った。
四月後半。二年九組の雰囲気は、もうだいぶ形を持ち始めていた。誰と昼を食べるか。移動教室は誰と一緒に行くか。放課後、誰と駅まで帰るか。そういうものが、誰かに決められたわけでもないのに、自然と固定されていく時期だった。
昼休みになると、教室は授業中より少しだけ本音の匂いがする。弁当箱のふたを開ける音。購買の袋が擦れる音。机を引きずる音。揚げ物の匂いと、卵焼きの甘い匂いと、誰かの制汗剤の匂いが混ざって、昼の教室らしい空気になっていた。
美緒は自分の机を少し後ろへずらした。陽菜が椅子を持って寄ってきて、由奈は弁当と紙パックのジュースを抱えたまま、器用に机の隙間を抜けてくる。琴音は最後に、面倒くさそうな顔をしながらも、ちゃんと四人の輪に入った。
四人の机が、ゆるく四角になる。
この位置だと、中央列がよく見える。
四列目、窓側寄り。神代の席が。
「神代いないね」
鈴木陽菜が、何気なく言った。
「購買じゃない?」
小川由奈がストローをくわえたまま返す。
美緒は空席を見る。椅子だけ少し引かれていて、机の横には学校指定のスクールバッグが掛かったままだった。たぶん戻ってくる。分かっているのに、鞄の掛かった机の横を、もう一度だけ見てしまう。
「ていうかさ」
由奈が急に声を落とした。
「神代って彼女いるのかな」
美緒の箸が止まった。
琴音がすぐに笑う。
「あー、始まった」
「いやでも気にならない?」
「まあ分かる」
陽菜も頷いた。
「絶対モテるもん」
「でも女に興味なさそうじゃない?」
「それな」
「なんか恋愛してる感じしない」
琴音が麦茶を飲みながら言う。美緒は、ぼんやりと神代の席を見る。
休み時間は寝ているか、席に居ないことも多い。たまに近藤と少し話しているくらい。女子に囲まれて騒ぐタイプじゃない。でも、拒絶しているわけでもない。誰かに話しかけられれば普通に返すし、頼まれごとも雑に断らない。
だから余計に距離感が分からない。
近いのか遠いのか。優しいのか冷たいのか。興味がないのか、ないふりをしているだけなのか。美緒は箸の先で白米を突いた。
「でも優しいらしいよ」
陽菜が言った。
「誰情報?」
「七海。この前、落としたプリント全部拾ってくれたって」
「それだけ?」
由奈が笑う。美緒は卵焼きを噛みながら、小さく息を吐いた。
普通、ああいう男子はもっと分かりやすい。モテるのを楽しんだり、女子に優しかったり、自分をよく見せたり、目立とうとしたりする。神代には、それがない。
ないのに、目立つ。
「彼女いても既読遅そう」
由奈が言った。
「あー分かる」
「通知オフにしてそう」
「“寝てた”だけ送ってきそう」
「三日後とかに」
「それ別れるでしょ」
笑いが起きる。美緒も笑った。でも、知らない誰かと神代が連絡を取っているところを想像した瞬間、胸の奥が少しざわついた。画面を見て、短く返して、スマホを伏せる神代。誰かがそれを待っているかもしれないと思うと、ほんの少し気分が落ち込んだ。
「年上の彼女とかいそうじゃない?噂なかったっけ?」
陽菜が言った。
「あるかも。バイト先の大学生とか」
「やめて、リアル」
美緒はミニトマトにフォークを刺した。ぷつ、と皮が破れて、赤い汁が弁当箱の端に少し滲む。
「……ないでしょ」
言ってから、思ったより声が低かったことに気づいた。
由奈が目を丸くする。
「美緒、今ちょっと怖かった」
「怖くない」
「いや声低かったって」
「低くない」
「低かったよ。神代の話になると情緒が忙しい」
「うるさいな」
琴音は何も言わず、美緒の顔をじっと見ていた。被写体に向けるみたいな目だった。何かを推し量られているような気がして、居心地が悪い。わざと麦茶を飲む。そのとき、陽菜が何気なく斜め前を見た。
「近藤って神代と仲いいよね」
全員の視線が動いた。神代の右隣。近藤宏樹は、浅井健吾と田中蒼真に何か言われながら、購買のパンを食べていた。男子の輪の中にいると、近藤はだいたいツッコミ役なのに半分被害者みたいな顔をしている。
由奈が手を振った。
「近藤ー!」
「んあ?」
「ちょっと来て」
「なんで?」
「いいから」
近藤は明らかに嫌そうな顔をした。でも来る。こういうところが、近藤だなと思う。
「なに」
「神代って彼女いるの?」
近藤の動きが止まった。
「……え?」
「だから神代」
「なんで俺に聞くんだよ」
「席隣じゃん」
「隣だけど」
「喋るじゃん」
「喋るけど」
近藤は本気で困った顔をした。美緒は少しだけ可哀想になる。でも、ちょっと面白い。
「で、いるの?」
「知らねぇって」
「えー」
「マジで知らん。あいつとそういう話しねぇし」
「でも近藤から見てどう?」
琴音が訊いた。するどい質問なのに、声が妙に平坦だった。面白がっているくせに、自分は関係ないみたな声だ。近藤は神代の空席をちらっと見た。
「……いなさそう」
「なんで?」
「ずっと誰かと連絡取ってる感じしねぇし。休み時間ほぼ寝てるし」
「たしかに」
「あとあいつ、あんまスマホ見てなくね?」
「分かる」
「通知百件溜まってそう」
また笑いが起きる。近藤はパンを片手に、ますます顔をしかめた。
「マジで知らねぇよ……本人に聞けよ」
「聞けるわけないじゃん」
由奈が即答した。
「なら俺にも聞くなよ」
そのときだった。後ろで、ビニール袋が小さく鳴った。
近藤だけが先に顔を上げる。
「あ」
美緒は嫌な予感で固まった。
「何の話?」
低い声だった。朝に聞いたときより、眠気が抜けている。でも温度は低い。大きな声ではないのに、やけにはっきりと聞こえた。
美緒は反射みたいに顔を上げる。
神代が自席に立っていた。購買袋を片手に持ったまま、こちらを見ている。前髪の影で目元が少し暗い。怒っているわけではない、責めているわけでもないトーンなのに、妙に逃げ場がない。
「いや……」
近藤が目を泳がせる。
「俺が何」
神代がもう一度訊いた。
その声が低いせいで、責められていないのに責められているみたいに聞こえた。由奈が机に視線を落とし、陽菜が紙パックのストローを無意味に触る。琴音だけが、少しだけ口元を押さえていた。笑うのを堪えている顔だった。
近藤が諦めたみたいに息を吐く。
「……お前、彼女いんのかって」
言った瞬間、由奈が机に突っ伏した。陽菜は肩を震わせている。美緒は、箸を持ったまま動けなかった。
神代は数秒黙った。
カーテンが揺れて、春の風がゆっくり入ってくる。誰かの弁当箱の中で、アルミカップがかすかに鳴った。
「いないけど」
神代は購買袋を自分の机に置きながら、ぼそっと言った。短い回答は拍子抜けするくらい普通だった。
「へぇ……」
近藤が小さく呟く。でも、誰も次を聞けない。いない。たったそれだけなのに、美緒の胸の奥で何かが小さくほどける。安心している自分がいた。
神代はもう会話を終えた顔をしていた。椅子を引いて座り、パンの袋を開ける。
「近藤」
「ん?」
「パン交換しない?」
「は?」
「焼きそばパンしか残ってなかった」
近藤が自分の袋を見て、露骨に嫌そうな顔をする。
さっきの話題なんて、神代の中ではもう机の下に落ちた消しゴムくらいの扱いになっているらしい。なのに、女子たちは全然戻れない。
「……いないって」
由奈が小声で言った。
「近藤、まじで聞いたね……」
陽奈も囁く。美緒は返事をしなかった。箸の先で卵焼きの端をつつく。もう一度、つつく。食べるつもりだったのに、口へ運ぶタイミングをなくしていた。琴音が横から、美緒を見ている気配がした。
「美緒」
「なに」
「卵焼き、死んじゃうよ」
美緒は慌てて箸を止めた。由奈が吹き出す。陽菜もつられて笑う。その笑い声の向こうで、神代は近藤と何かを話しながらパンを食べていた。何にも興味なさそうな顔をして、勝手に人の感情だけ揺らしていく。
本当にずるいと思う。
そのとき、神代がふとこちらを見た。
美緒は反射的に息を止めた。箸の先が弁当箱の縁に当たって、かち、と小さな音を立てる。
ほんの数秒にも満たない時間だった。
目が合った、というより、神代の視線がたまたまこちらを通り過ぎただけかもしれない。深い意味なんてない。たぶん、何も考えていない。少し周囲を見渡したとか、その程度のことかもしれない。
それでも美緒だけが、勝手に見つかった気がした。
神代は何も言わない。
ゆっくり瞬きをして、そのまま窓の外へ視線を戻す。
美緒の喉が、少し遅れて動いた。
「美緒?」
琴音の声で、ようやく息を吸った。
「……なに」
「顔やば」
「うるさい」
「ほんと、どうしたの」
「ほんとにうるさい」
由奈が笑い、陽菜まで肩を震わせる。美緒は誤魔化すみたいに麦茶を飲んだ。
冷たい液体が喉を通る。それなのに、落ち着くどころか、胸の奥だけがずっと熱い。
学校って、こんなに疲れる場所だったっけ。
朝は、楽しいと思ったのに。
美緒はもう一度だけ、視線を上げる。
神代は相変わらず窓の外を見ていた。こちらのことなんて、きっともう忘れている。
それが少し悔しくて。
それなのに、やっぱり目が離せなかった。




