第1話 遅刻
春の朝は、校舎の匂いが少しだけ新しくなる。
昇降口の前は、人で詰まっていた。クラス分けの紙を見ようとして、誰かの鞄の角が肩へぶつかる。肩同士が触れ、真新しい教科書の角が鞄の中で硬い音を立てる。誰かの笑い声が、人波の奥で弾けた。
「うわ、また一緒だ!」
「待って、浅井いるじゃん。うるさそう」
「九組って理系だよね? 女子少なそー」
浮ついているのに、どこか品行方正。そんな空気がこの学校にはあった。休み時間は騒がしいくせに、模試の順位表が貼り出される日だけは廊下の声が少し低くなる。早慶だの旧帝だのという単語が、冗談みたいな軽さで飛び交って、けれど誰も完全には冗談にしていない。そういう学校だった。
白石結月は、人混みの後ろから少し背伸びをして、自分の名前を探した。
「あった。二年九組」
普通科理系。予想通りだった。
二組は特進理系。模試の上位常連や、教師に期待されている生徒たちが集まるクラスだ。九組はそこから少し離れた、校舎の一番奥にある普通科理系だった。
結月は自分の名前の周辺を眺める。去年同じクラスだった女子。同じ部活の生徒。知り合いを何人か確認できて、ひとまず胸の奥が緩む。
その中で、ひとつだけ視線が止まった。
神代瑠衣。
一瞬、まわりのざわめきが遠くなった。
別に知り合いではない。話したこともない。廊下や体育館の前で何度か見かけた程度だ。なのに名前だけは知っている。知らない方が難しいくらい、女子の間でよく話題に上がっていた。
バスケ部の神代。
顔が異常に綺麗な人。
怖そう。
他校に彼女がいる。
年上と付き合っている。
彼女はいない。
噂はどれも曖昧だった。かっこいい、と騒ぐ子もいれば、近づきたくないと言う子もいる。どこまで本当なのか、結月には分からなかった。
ただ、廊下を歩いているだけで、なぜか目に入る人間がいる。
神代瑠衣は、たぶんそういう類の人間だった。
「結月、同じクラスじゃん!」
後ろから肩を叩かれ、結月は振り返った。
「ほんとだ。よかった」
「理系女子少なすぎない?ほぼ男子じゃん」
「しかも教室いちばん奥だし。だる」
友人たちに引っ張られるように、結月は昇降口を抜けた。
二年九組は、三階廊下の突き当たりにある教室だった。
そこまで来ると、生徒の流れが少し薄くなる。窓からはグラウンドの端と、体育館へ続く渡り廊下が見えた。春の光が斜めに入り込み、机の天板だけを白く照らしている。
すでに半分以上の席が埋まっていた。
男子の声が大きい。文系クラスみたいな華やかさはない。スマホゲームの話、数学教師の当たり外れ。理系クラス特有の雑多さと、少し乾いた明るさが混ざっていた。
結月は机の横に貼られた小さな紙を見る。
白石結月。
自分の席は、最前列の窓側から四番目だった。黒板が近い。先生の視線も近い。結月は小さく息を吐いて、鞄を机の横へ掛けた。
前の席、というのは少し落ち着かない。背中側にクラス全体の気配がある。誰がこちらを見ているわけでもないのに、まだ慣れていない人たちの声が、うなじのあたりへ薄く触れてくる感じがした。
鞄を置きながら、結月は黒板に張り出された座席表を眺めた。
前から四列目。
窓側から二番目。
そこに、“神代瑠衣”の名前があった。
ちら、と該当する席を見る。席は空いたままだった。
机の上には何も置かれていない。椅子だけが少し後ろに引かれていて、誰かが一度そこに触れて、そのままいなくなったみたいに見えた。
窓側の机だけ妙に明るくて、まだ誰も座っていない席が余計に目立った。
「神代、まだ来てないんだ」
誰かが言った。
「初日から?」
「朝練じゃね?」
「いや、バスケ部って今日もう練習あるの?」
「知らねー」
男子たちが勝手に納得したように笑う。
女子の一人が、声を潜めた。
「え、神代ってあの神代?」
「あの、ってどの」
「バスケ部の。背高い人」
「見たことある。顔やばいよね」
「でもちょっと怖くない? 目つき」
「それがいいんじゃん」
前方の扉が開き、担任らしい男が入ってくる。四十代半ばくらいの化学教師で、白衣を着ていないのに薬品棚の匂いが似合いそうな人だった。
「はい、おはようございます。席着けー」
ざわついていた教室が、ゆっくり静かになる。
出席確認が始まった。
名前が呼ばれ、返事が返る。新しいクラスの声は、まだ誰のものも少しよそよそしい。
そして。
「神代」
返事はなかった。
一拍だけ、教室が待つ。
担任は出席簿から顔を上げないまま、少しだけ眉を動かした。
「あー……欠席連絡なし。まあ、来たら職員室寄るよう言っといて」
それだけ言って、次の名前を呼ぶ。あまりにあっさりしていた。
初日から来ない生徒なんて、普通ならもう少し空気が揺れる。けれど担任の声には驚きより、“またか”に近い響きがあった。
結月はそこだけ、少し引っ掛かった。
ホームルームが終わり、委員決めと自己紹介が流れていく。新しい一年の始まりらしく、教室は一日中どこか落ち着かなかった。隣の席の子と名前を確認し合う。部活の話をする。共通の趣味で盛り上がる。
誰と仲良くなるか。
まだ何も決まっていない四月の時間。
結月は、そういう曖昧な始まり方が嫌いではなかった。輪の中心に自分から入っていく方ではないけれど、誰かの話を聞いている時間は案外好きだった。誰かが笑う。誰かが慌てて名前を覚える。誰かが去年の友達を探して、少しほっとする。
そういう一つひとつが、まだ薄い下書きみたいに教室へ重なっていく。
その中で、神代の席だけが、何も描かれていない余白みたいに残っていた。
昼休みになる頃には、その席を見に来る女子が何人かいた。別のクラスの生徒まで、用もないのに九組の前を通りかかる。
「神代休み?」
「えー、見たかった」
「去年同じクラスだった子が、寝顔もいいって言ってた」
「何その情報」
「あと、授業中当てられても普通に答えるらしいよ。寝起きで」
「なにそれ、腹立つかも」
「でも怖くて誰も起こせないって」
「先生は?」
「先生もたぶんちょっと諦めてる」
男子の一人が呆れたように言った。
「お前ら本人いないのに盛り上がりすぎ」
「本人いたらこんな話できないじゃん」
「まあ、それはそう」
笑い声が上がる。結月は紙パックのミルクティーにストローを刺した。甘い匂いが、少しだけ鼻に抜ける。
そのとき、廊下側の後ろ扉が静かに開いた。
笑い声が、途中で不自然に途切れる。
誰かが話す途中で声を止めた。結月もつられるように顔を上げる。
背の高い男子が立っていた。
最初に目に入るのは、その存在感だった――身長でも顔でもなく、もっと手前の何か。教室のざわめきが、彼が扉を開けた瞬間に一拍だけ遅れた。笑いかけていた子が笑い終わるのを忘れた。そういう種類の静けさが、後ろ扉から滑り込んできた。
近くで見ると、顔立ちは驚くほど整っていた。けれど、近寄りやすい綺麗さではなかった。白い肌と伏せがちな目元のせいで、どこか眠たげで、少しだけ不機嫌に見える。その感じが、かえって目に残った。
黒髪は少し長めだった。校則ぎりぎりくらいの襟足と、ゆるく癖のついた前髪。朝きちんと整えたというより、手櫛で流しただけみたいなのに、重たい毛先が自然に形を作っていた。片目にかかる影まで含めて、妙に様になっている。
白いシャツの第一ボタンは開いたまま。ネクタイも少しだけ緩い。けれど、だらしないようには見えなかった。ただ、どこか学校という場所に対して、必要以上の準備をしてこなかった感じがした。
神代だ、と誰かが小さく言った。
本人は反応しなかった。そのまま教室を横切る。遅れて来た人間特有の焦りも、気まずさもない。
結月は見ないようにしようとして、結局見てしまう。
同じ教室の中にいるのに、同じ朝を過ごしてきた感じがしない。みんながクラス分けの紙の前で騒いで、誰と同じだとか、席がどこだとか、これから一年どうなるのだとか、そういうことで少しずつ温まっていく時間の外側から、ひとりだけ遅れて入ってきたみたいだった。
神代は自分の席の前で立ち止まると、机を指先で撫でた。
「……俺、ここ?」
隣の席の男子が、椅子を少し引いた。
近藤宏樹。
朝、誰かがバレー部だと言っていた気がする。
「そこ。ていうか名前貼ってあんだろ」
「見てなかった」
「見ろよ」
教室の何人かが、そこでようやく小さく笑った。止まっていた空気が、少しだけ戻る。
神代は特に気にした様子もなく、椅子を引いて座った。長い脚が机の下へ収まりきらず、少し斜めになる。窓から入る春の光が、黒髪の端だけを青っぽく透かした。
それから神代は、窓の外をぼんやりと眺めた。
正確には、何かを見ていた。視線の先には体育館の渡り廊下と、グラウンドの端があるだけだ。なのに、見ている、というよりは何かを数えているみたいな、静かな目だった。
何を考えているのか、結月には分からなかった。
近藤が小声で何かを言う。神代は少しだけ視線を戻して、短く答えた。それだけだった。会話と呼べるかどうかも怪しい短さで、でも近藤は特に気にした様子もなく前を向いた。
ただの遅刻。転入でも、何でもない。
なのに、神代というピースが揃った瞬間、それまで動いていたはずの午前が、ここから始まった気がした。
結月は紙パックをそっと机に置いた。ミルクティーはとっくに温くなっていた。
――あの目が何を見ていたのか、一日経っても少し気になった。




