09.空を見上げる人たち
空は、静かだった。
風速計の数値も安定している。
気温。
湿度。
風向き。
どれを見ても、大きな問題はない。
僕は計測端末を何度も確認した。
「まだ見るの?」
隣にいる仲間が呆れたように言う。
「見る」
「もう十回くらい見てるよ」
「十一回目」
「そういうところ、真面目だよね」
「そうじゃないと困る」
僕は画面から目を離さなかった。
今日。
もう一度、人が飛ぶ。
前回は五メートル。
十一秒。
着地時に翼が損傷した。
今回は。
その先へ行く。
高度十五メートル。
飛行時間二十秒。
たった少しの数字の違い。
でも。
人間を空へ上げる側にとって、その差は大きい。
「桐生」
試験予定者が声をかけてくる。
「何?」
「今日は、前より緊張してる?」
「……してる」
「やっぱり?」
「前回、落ちたから」
「僕じゃなくて翼がね」
「でも、人が乗ってる」
彼は笑った。
「慎重だな」
「慎重じゃないと、君を飛ばせない」
「じゃあ、今日もよろしく」
「うん」
僕は翼の最終確認を始めた。
留め具。
推進機構。
制御系。
通信。
非常停止。
全部確認する。
前回から変えたところは多い。
姿勢制御の反応を速くした。
接地時の衝撃を逃がす構造も変更した。
そして。
最も重要だったのは。
「怖くなったら?」
僕が聞く。
「すぐ言う」
「途中でやめたくなったら?」
「やめる」
「本当に?」
「何度聞くの」
「大事だから」
「分かってるよ」
彼はヘルメットを被った。
「飛ぶかどうかを決めるのは、僕だもんな」
「そう」
僕は短く答えた。
それは。
前なら当たり前だと思わなかった言葉だった。
今は違う。
飛行試験そのものより。
その人が自分の意思で「飛ぶ」と言えること。
それを僕は重く考えていた。
◇
カウントダウンが始まる。
「三」
二。
「一」
翼が起動する。
低い駆動音。
その直後。
身体が浮いた。
「一メートル」
さらに。
「五メートル」
高度計の数字が増えていく。
「十メートル」
僕は端末から目を離さない。
風向きは安定。
姿勢も問題ない。
「十二」
十三。
「十五メートル」
その数字が表示された瞬間。
周囲から、小さなどよめきが起きた。
僕は拳を握った。
五メートルの壁を越えた。
でも。
ここからが重要だ。
「飛行状態、安定」
「了解」
通信越しの声は落ち着いていた。
「開始から十五秒」
十六。
十七。
十八。
十九。
「二十秒」
僕は息を吐いた。
「十分。降りていい」
「了解」
ゆっくりと高度が下がる。
地面が近づいてくる。
そのときだった。
風が変わった。
「……北東から風」
計測器の数字が動く。
「風速、上がってる」
「姿勢は?」
「少し右に傾いてる」
モニター上で翼がわずかに揺れる。
ほんの数度。
でも。
空では、その数度が大きい。
「制御を補正」
「やってる」
翼が戻る。
しかし。
今度は反対側へ揺れた。
「……」
僕は無意識に前へ出ていた。
もちろん。
ここからでは手を伸ばしても届かない。
僕にできるのは。
数字を見ることと。
声を届けることだけだ。
「慌てないで」
通信に向かって言う。
「大丈夫」
「風に逆らわなくていい」
「え?」
「無理に真っすぐ戻さなくていい。流されてもいい」
「……分かった」
「安全に降りることを優先して」
少し間があって。
「了解」
翼が風に合わせて角度を変える。
一瞬。
身体が大きく横へ流れた。
周囲から息を呑む音がした。
でも。
墜落はしなかった。
翼はゆっくりと下降していく。
やがて。
地面へ。
静かに接地した。
「……着いた」
通信越しに、声が聞こえた。
僕はようやく息を吐いた。
「お疲れ」
「怖かった」
「うん」
「でも」
彼が翼を見上げる。
「前より、ずっと安心できた」
その言葉を聞いた瞬間。
僕は、初めて実感した。
成功した。
今回は。
ただ「飛べた」だけじゃない。
風に揺られても。
戻ってこられた。
怖くなっても。
落ち着いて着地できた。
飛んで。
帰ってこられた。
それは。
性能の数字以上に。
大きな意味を持っている気がした。
◇
「十五メートル、二十秒」
行政の担当者は、試験結果を確認していた。
「飛行能力については、実用化へ向けて大きな前進と評価できます」
「ありがとうございます」
「ただし」
やはり。
そこには続きがある。
「安全基準については、まだ十分ではありません」
僕は頷いた。
「風の変化をご覧になったと思います」
「はい」
「想定内でしたか?」
「……完全には想定内ではありません」
「でしょうね」
担当者は責めるような口調ではなかった。
むしろ。
淡々としていた。
「空は予測できないことが多い」
「分かっています」
「だからこそ」
資料を閉じる。
「飛べることを証明する試験と、安全に使えることを証明する試験は別です」
僕は、その言葉を受け止めた。
前なら。
少し悔しかったかもしれない。
「飛べたんだから、認めてほしい」
そんな気持ちが先に来ただろう。
でも。
今日は違った。
「そうですね」
僕は答えた。
「飛べたことと、安全に使えることは別です」
「理解が早いですね」
「僕自身が怖かったので」
担当者が少しだけ笑った。
「怖さを知っている人が作る技術のほうが、私は信用できます」
それは。
意外な言葉だった。
◇
その後。
行政との協議が始まった。
すぐに正式運用というわけにはいかない。
ただし。
条件付きで、試験を継続する方針が示された。
管理区域を設定する。
気象条件を記録する。
搭乗者の体調確認を行う。
緊急時の救援体制を整える。
データを共有する。
一つ一つ。
決めていく。
僕は書類を見ながら。
ふと思った。
これは。
僕が最初に想像していた「翼の開発」とは。
ずいぶん違う。
翼そのものだけではない。
飛行する人。
見守る人。
助ける人。
反対する人。
そして。
飛ばない人。
全部が関係している。
技術が広がるということは。
その技術を受け入れる社会も。
一緒に作らなければならないということなのだ。
◇
その日の夕方。
僕はいつもの作業室へ戻った。
窓の外を見る。
空は薄い橙色になっていた。
今日。
十五メートルまで飛んだ。
でも。
なぜか以前ほど、空だけが特別には見えなかった。
空には。
ただ、空がある。
そこへ行きたい人がいる。
行きたくない人もいる。
それだけだ。
僕がそんなことを考えていると。
「朔」
声がした。
振り向く。
澄乃がいた。
「来てたんだ」
「うん」
澄乃は窓から空を見る。
「今日、成功したんでしょう?」
「成功……したのかな」
「十五メートル」
「よく知ってるね」
「有名だから」
「またそれ?」
「本当だもん」
澄乃が笑う。
「それで」
彼女は試作翼を見る。
「これが、新しい翼?」
「うん」
「前より小さく見える」
「余計な部分を減らしたから」
「速く飛べるの?」
「多少は」
「高くは?」
「必要以上には上げない」
「ふうん」
澄乃は翼に近づいた。
触れようとした手を。
一度止める。
「触っていい?」
「もちろん」
彼女の指が。
翼の表面にそっと触れた。
「……不思議」
「何が?」
「私の知ってる『ツバサ』と似てるのに、全然違う」
「そう?」
「うん」
少し考えてから。
「こっちのほうが、選べる感じがする」
その言葉に。
僕は少し笑った。
「まだ機械なのに?」
「機械だからじゃない?」
「どういうこと?」
「持っている人が偉いとか」
「……」
「速く飛べる人がすごいとか」
澄乃は翼を見る。
「そういう雰囲気が、この翼にはあまりない」
僕は答えに困った。
そんなところまで。
意識して作ったわけではない。
でも。
言われてみれば。
たしかに。
この翼は。
誰かと競うためのものではない。
「ねえ、朔」
「ん?」
「私も、これ」
澄乃が翼を指差した。
「試してみたい」
僕は思わず聞き返した。
「澄乃が?」
「うん」
「でも、澄乃は今の『ツバサ』を持ってるよね」
「持ってるよ」
「だったら……」
「だから」
彼女が笑う。
「試してみたいの」
僕は黙った。
彼女が今持っている翼は。
空中都市の人間にとっての当たり前だ。
高性能で。
長距離も飛べる。
安全基準も確立されている。
それなのに。
彼女は。
まだ完成していない僕たちの翼を試したいと言っている。
「危ないよ」
「知ってる」
「まだ試験中だ」
「知ってる」
「前回みたいな事故が起きるかもしれない」
「それでも」
澄乃はまっすぐ僕を見る。
「自分で選んで飛んでみたい」
その言葉を聞いた瞬間。
僕の胸の奥で。
何かが静かに鳴った。
紬とは違う。
紬は「飛ばない」という選択をした。
澄乃は今。
「新しい翼で飛ぶ」という選択をしようとしている。
そして。
どちらも。
同じくらい大切なのだ。
「……分かった」
「本当?」
「ただし、条件がある」
「何?」
「安全条件を全部守ること」
「分かってる」
「無理だと思ったらすぐ止めること」
「うん」
「飛びたくなくなったら、飛ばなくていい」
澄乃が少しだけ目を見開く。
そして。
嬉しそうに笑った。
「うん」
その返事を聞いて。
僕も笑った。
空中都市の人間が。
新しい翼を選ぶ。
地上出身の僕が作った翼を。
それは。
たぶん。
僕が思っている以上に大きな一歩だった。
◇
澄乃が帰ったあと。
僕は一人で設計図を見直した。
十五メートル。
二十秒。
飛行試験は前進した。
でも。
僕が本当に嬉しかったのは。
その数字ではなかった。
誰かが。
自分の意思で。
この翼を選んでくれたこと。
それが。
一番大きかった。
昔の僕は。
翼を失った。
だから。
翼が戻れば、全部が戻ると思っていた。
でも。
違う。
翼を持つことも。
持たないことも。
飛ぶことも。
飛ばないことも。
自分で選べるなら。
過去の自分を取り戻さなくても。
新しい自分を作ることができる。
僕は設計図の端へ、ゆっくり書いた。
『翼=選択肢』
その下に。
『飛ぶことは目的ではない』
さらに。
『自分で決めることが目的』
ペンを置く。
窓の外。
夜空に一つ、光が浮かんでいる。
空中都市の誰かだ。
遠い。
でも。
もう、ただ羨ましいとは思わなかった。
いつか。
僕も飛ぶかもしれない。
澄乃も、この新しい翼で飛ぶかもしれない。
紬は。
飛ばない日があるかもしれない。
それでも。
全員が間違っているわけではない。
違う選択をしても。
同じ空を見られる。
そのことを。
僕は少しずつ理解し始めていた。
そして。
次に空へ上がる人を考えたとき。
僕の胸に浮かんだのは。
まだ見ぬ誰かの顔ではなかった。
ずっと近くにいる。
一人の少女だった。
――七瀬澄乃。
僕の作った翼を。
彼女が選ぶ。
そう思うだけで。
なぜか。
いつもより少しだけ。
次の試験が待ち遠しくなった。




