08.飛ばない翼の意味
新しい設計図を描き始めてから。
僕は、翼を見る目が変わった。
以前は。
翼を見れば、どうすれば飛べるかを考えた。
今は。
どうすれば「飛ばない」という選択も守れるのかを考える。
それが、翼を作っている人間の考え方なのか。
自分でも分からなかった。
ただ。
あの日、紬が言ったことだけは。
ずっと頭に残っていた。
――一度決めたことを、ずっと守らなくてもいい。
――途中で変えてもいい。
その言葉を、僕は何度も設計図の上で考え直した。
◇
「また増えたね」
作業室に入ってきた紬が、机の上の紙を見て言った。
「何が?」
「条件」
彼女は設計図を一枚持ち上げる。
「これ、前よりずっと細かくなってない?」
「増えたから」
「何が?」
「考えること」
紬は紙を読む。
「飛行性能」
「うん」
「安定性」
「うん」
「緊急停止」
「うん」
「手動操作」
「うん」
そこから少し下へ目を移す。
「……飛ばない場合の安全性?」
「それも必要だから」
「飛ばない場合って、どうするの?」
「まだ考えてる」
「また?」
「まだ決まってない」
「それ、桐生くんの口癖になってるよ」
僕は笑った。
でも。
紬は笑わなかった。
「本当に必要だと思ってる?」
「うん」
「飛ばないための翼が?」
「正確には」
僕はペンを置いた。
「飛ばないことを選んでも、その翼がその人を困らせないようにしたい」
紬が黙る。
「例えば」
僕は設計図を指差す。
「装着したまま飛ばないで生活できるようにする」
「なるほど」
「必要なときだけ起動する」
「うん」
「途中で飛行をやめても、安定して着地できる」
「うん」
「それと」
「まだあるの?」
「使うのをやめても、そのことが不利益にならないこと」
紬が顔を上げた。
「……それは機械じゃないじゃん」
「そうだね」
僕は苦笑する。
「でも、大事だと思う」
翼そのものが。
周りの人間が「飛べ」と言い始めたら。
自由のために作ったものが。
新しい命令になる。
それだけは。
絶対に避けたかった。
◇
その日の午後。
僕たちは改良した試作翼を地上でテストした。
前回の有人飛行で壊れた部分を補強し。
姿勢制御を調整。
緊急停止の機構も追加した。
最初に起動させたとき。
以前よりも音が小さかった。
「変わった?」
紬が聞く。
「かなり」
「じゃあ、飛ぶ?」
「まだ」
「どうして?」
「確認が足りない」
「慎重になったね」
「前回、落ちたから」
「そうだった」
紬は頷いた。
僕は試作翼の前に立つ。
新しい翼は、以前より簡素に見えた。
無駄な装飾を減らした。
最高速度も少し落とした。
飛べる高度も、あえて制限している。
以前の僕なら。
性能が落ちたことを失敗と考えただろう。
でも。
今は違う。
「速度、落としたんだね」
「うん」
「せっかく作るなら、速いほうがよくない?」
「場合による」
「場合?」
「速く飛びたい人には、速い翼を作ればいい」
僕は翼を見る。
「でも、速さを必要としない人まで、速さを基準にする必要はない」
紬が少しだけ笑った。
「そういうことか」
「うん」
「じゃあ、誰かが一番速く飛べる翼を欲しがったら?」
「作る」
「作るんだ」
「本人が本当に必要なら」
「分かりやすいね」
「でも」
僕は続けた。
「速さを持っていること自体を、偉さにしない」
紬は何も言わず。
その言葉を受け止めた。
◇
試作翼を地面に置く。
今日は飛行試験ではない。
装着状態での歩行。
起動と停止。
機体の重量。
身体への負担。
緊急解除。
そういった確認をする。
「じゃあ、私がやる」
紬が言った。
僕は顔を上げた。
「いいの?」
「うん」
「無理しなくていいよ」
「分かってる」
紬は翼の前に立った。
背中へ装着する。
留め具を一つずつ閉じる。
その瞬間。
彼女の表情が変わった。
ほんの一瞬。
本当に、一瞬だけ。
何かを思い出したような顔。
「……大丈夫?」
「うん」
「怖い?」
「少し」
紬は正直に答えた。
以前の彼女なら。
もっと平気な顔をしたのかもしれない。
でも。
今は。
「怖い」と言った。
そのことが、僕には嬉しかった。
「じゃあ、起動するよ」
「待って」
「なに?」
「一つだけ」
紬が僕を見る。
「もし私が『止めて』って言ったら」
「止める」
「絶対?」
「絶対」
彼女は頷いた。
「じゃあ、お願い」
スイッチが入る。
小さな駆動音。
翼がゆっくり開く。
風が起きる。
紬の髪が揺れた。
「……懐かしい」
小さな声。
「昔の翼に似てる?」
「似てる」
「嫌?」
「違う」
紬は背中の翼を感じるように、少し肩を動かした。
「昔のことを思い出すだけ」
「そっか」
彼女は一歩進む。
問題なし。
もう一歩。
さらに一歩。
身体の傾きも安定している。
僕は計測器を見る。
「負担は前より少ない」
「うん」
「重くない?」
「ちょっと」
「やめる?」
紬がこちらを見る。
「まだ大丈夫」
さらに数歩。
そして。
突然。
「止めて」
僕はすぐに停止した。
「どうした?」
「……分からない」
「え?」
「嫌になった」
紬は背中の翼に手を添えた。
「翼が?」
「違う」
少し考える。
「翼をつけたまま歩いてるのが」
「……」
「昔の感じがして」
僕は何も言わなかった。
ただ。
彼女の背中から翼を外した。
「ありがとう」
「うん」
紬は翼を見つめる。
そこに。
以前のような強い拒絶はなかった。
でも。
すぐに受け入れることもできない。
「またつけたい?」
僕が聞いた。
「今日はいい」
「うん」
「でも」
紬が翼を見る。
「もう二度と嫌ってわけじゃない」
その一言が。
僕の中で何かを動かした。
飛びたくない。
でも。
一生飛びたくないわけじゃない。
やってみたい。
でも。
今日はやりたくない。
そのどれも。
矛盾ではない。
人間なら。
それが普通なのだ。
僕は設計図に、新しい項目を書き加えた。
『一時停止の自由』
書いたあと。
その言葉が妙に大切なものに思えた。
◇
数日後。
行政から連絡が入った。
作業室へ来たのは。
前に学校で会った航空技術管理局の担当者だった。
「前回より、かなり改善されていますね」
担当者は試作翼を眺めた。
「はい」
「有人飛行については、慎重に進めてください」
「分かっています」
「それから」
担当者は少し間を置いた。
「正式な支援を受けることもできます」
「支援?」
「設備、人材、試験環境。必要なものはこちらで用意できます」
僕は試作翼を見る。
「条件は?」
「まずは共同で安全基準を検討していただきたい」
「それだけですか?」
「現時点では」
僕は少し考えた。
正直。
ありがたい話だった。
今の施設だけでは、できることに限界がある。
設備も。
資材も。
試験環境も。
もっと整えれば。
翼は早く進化する。
でも。
「管理権限は?」
僕が聞くと。
担当者は黙った。
「どういう意味ですか」
「支援を受けたら、誰が翼の使い方を決めるんですか?」
「それは今後の協議になります」
その言葉を聞いて。
僕は答えを急がなかった。
「考えます」
「もちろん」
担当者が立ち上がる。
「急ぐ必要はありません」
扉へ向かう。
その背中を見ながら。
僕は思った。
支援は。
きっと悪いものじゃない。
むしろ必要だ。
でも。
支援と管理は。
同じものではない。
その違いを。
僕は覚えておかなければならない。
◇
その日の夕方。
僕と紬は作業室の外にいた。
夕陽が森の向こうへ沈みかけている。
「行政、来たんだって?」
「うん」
「支援してくれるんだって?」
「そう」
「いい話じゃない」
「そうなんだけど」
「何か気になる?」
「支援してくれる代わりに、翼のことを決める人が増えたら」
紬は少し考えた。
「それは困るね」
「やっぱり?」
「うん」
紬は空を見上げる。
「私が翼を返したとき」
「うん」
「周りの人は、私に『それは間違いだ』って言った」
「……」
「たぶん、みんな私のためを思ってた」
「そうだね」
「でも」
紬は僕を見る。
「私の人生なんだから、最後は私が決めたかった」
その言葉は。
とても静かだった。
「だから」
紬は続ける。
「朔が作る翼も」
「うん」
「最後は、使う人が決められるものがいいな」
僕は頷いた。
「僕もそう思う」
ふと。
紬が言う。
「ねえ」
「なに?」
「いつか私、また飛ぶかもしれない」
「うん」
「でも、明日かもしれないし」
「うん」
「十年後かもしれない」
「うん」
「もしかしたら、飛ばないかもしれない」
僕は笑った。
「それでいいよ」
「……うん」
夕暮れの空。
その向こうに。
空中都市が浮かんでいる。
そこには。
翼を持って飛ぶ人たちがいる。
地上には。
翼を持たずに歩く人たちがいる。
そして今。
その間に。
自分で飛ぶかどうかを決めようとしている人たちがいる。
僕は。
その全部を見られる翼を作りたいと思った。
誰かを空へ連れていくためではなく。
空へ行きたい人が行けるように。
行きたくない人が断れるように。
途中で怖くなった人が戻れるように。
一度手放した人が。
もう一度選び直せるように。
そんな翼。
昔の「ツバサ」には。
きっと、なかった。
だから。
僕は作る。
古い翼を真似するのではなく。
まだ存在しない翼を。
その日の夜。
設計図の中心に。
僕は一つの言葉を書いた。
『飛ばない自由』
その下に。
『選び直す自由』
そして最後に。
『本人が決める』
三つの言葉を並べる。
これが正しいのかは。
まだ分からない。
でも。
少なくとも。
今までより。
僕が作りたいものがはっきりしてきた。
翼は。
人を空へ運ぶものだ。
だけど。
本当の意味で人を自由にするのは。
高く飛べることじゃない。
飛ぶかどうかを。
自分で選べることだ。
僕はペンを置いた。
そして。
窓の外の空を見た。
まだ遠い。
でも。
その遠さを。
今は、少しだけ好きになれそうだった。
そこへ行くかどうかを。
自分で決められると思えたから。




