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僕たちには未来へ羽ばたく翼がある  作者: 和泉 きよ


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07.翼を持たない自由

 水城紬と出会ってから。


 僕の設計図は、少しずつ変わっていった。


 昨日までなら、どうすればもっと高く飛べるかを考えていた。


 今日は違う。


 どうすれば、飛びたくない人間を無理に飛ばさずに済むのか。


 そんなことまで考えている。


 翼を作っているのに。


 「飛ばないこと」のほうを考えている。


 それが、妙におかしかった。


「また変なこと考えてる」


 作業室に入ってきた紬が言った。


「顔に出てた?」


「出てる」


「そんなに?」


「うん。眉間に線がある」


「考え事すると、いつもこうなるんだよ」


「知ってる」


 紬は僕の机の向かいに座った。


 その手には、昨日と同じ小さな工具箱がある。


「学校は?」


「普通」


「空中校と違って、こっちは宿題が多いけれど?」


「嫌味?」


「愚痴」


 そう言って紬は笑った。


 ほんの短いやり取り。


 それだけなのに。


 この場所が少しだけ明るくなる。


 僕は工具を置いた。


「紬」


「なに?」


「前に話してたこと」


「翼の話?」


「うん」


 紬が僕を見る。


「もう少し聞いてもいい?」


「いいよ」


「どうして、そこまで翼が嫌になったの?」


 紬は少し考えた。


「嫌いになったわけじゃないよ」


「……」


「そこは、勘違いしないでほしい」


 紬は窓の外を見る。


 地上から見える空は狭い。


 木々の間から、わずかに青が覗いているだけだ。


「私、飛ぶのは好きだった」


「好きだった?」


「うん」


「じゃあ、どうして――」


「翼を持ったままの自分が、分からなくなったから」


 僕は黙った。


「空中都市はね」


 紬が話し始める。


「みんな、翼を持ってるだけじゃない」


「どういうこと?」


「翼を持っていることを前提に、生き方まで決められていくの」


 彼女の声には、怒りがなかった。


 だからこそ。


 余計に重かった。


「小さいころは、みんな一緒だった」


「うん」


「飛び方を覚えて、学校に行って、友達と遊んで。速く飛べれば褒められるし、上手く飛べれば才能があるって言われる」


 僕は頷く。


「でも、少しずつ違ってきた」


「何が?」


「どこの家の人間か。どんな翼を与えられているか。どんな成績を取っているか。どれくらい高い場所を飛べるか」


 紬の指が止まる。


「翼が、数字みたいになった」


 その表現が。


 妙に胸に残った。


「飛行速度が速いほど、優秀」


「……」


「難しい航路を飛べるほど、将来有望」


「なるほど」


「そうやって、少しずつ、人間そのものより翼が見られるようになった」


 紬は自分の背中に手を添えた。


 もちろん。


 今そこには何もない。


「私も最初は嬉しかった」


「翼を褒められることが?」


「うん」


 彼女は笑う。


「誰かに認めてもらえるのは嬉しいから」


「それは、普通だと思う」


「そうだよね」


「僕だって、ものを作ったら褒められたい」


「でしょう?」


「うん」


「だから最初は、何も思わなかった」


 でも、と。


 紬は続けた。


「だんだん、怖くなった」


「怖い?」


「期待されることが」


 その言葉は意外だった。


 期待されれば、嬉しいものだと思っていた。


「もっと速く」


「もっと上手く」


「もっと高く」


「もっと立派な人になって」


 紬は一つずつ言葉を並べた。


「どれも、悪い言葉じゃないでしょう?」


「……うん」


「だから、断れなかった」


 僕は何も言えなかった。


 期待は、優しい顔をしている。


 命令よりも。


 ずっと断りにくい。


「失敗すると、『次は頑張ろう』って言われる」


「うん」


「それでも失敗すると、『あなたならできる』って言われる」


「……」


「もっと失敗すると、『どうしてできないの?』って言われる」


 紬はそこで初めて、少しだけ苦しそうな顔をした。


「私が何をしたいのかじゃなくて」


 声が小さくなる。


「私なら何ができるのか、ばかり聞かれるようになった」


 その言葉は。


 静かだった。


 だけど。


 僕には、よく分かった。


 僕だって。


 別の形で同じことを経験していたからだ。


 昔。


 僕は「空中都市の子ども」だった。


 翼を持っている。


 空中都市で育っている。


 両親も翼を持っている。


 なら。


 当然、空の人間として生きる。


 そう思われていた。


 僕自身が何を望むのかなんて。


 誰も聞かなかった。


 僕も。


 聞かれないことを、当たり前だと思っていた。


「だから、返した」


 紬が言った。


「翼を?」


「うん」


「ある日、突然?」


「少しずつ考えて。最後は自分で決めた」


「怖かった?」


「すごく」


 今度も、すぐに答えた。


「だって、翼を返したら何者になるのか分からなかったから」


「……」


「でも」


 紬が少し笑った。


「分からないまま決めるのも、自分の人生かなって思った」


 僕はその言葉を聞いて。


 しばらく何も言えなかった。


 僕とは違う。


 同じ翼をめぐる話なのに。


 まったく逆だ。


 僕は翼を失ったことが苦しかった。


 紬は翼を持ち続けることが苦しかった。


 僕は戻りたかった。


 彼女は離れたかった。


 なのに。


 二人とも。


 『自分で決められなかったこと』に傷ついていた。


 その共通点だけは。


 不思議なくらい、はっきりしていた。


「今、後悔してる?」


 僕が聞く。


 紬は少しだけ笑った。


「してるよ」


「……やっぱり」


「うん」


「じゃあ、返さなきゃよかったって思う?」


「それは思わない」


 即答だった。


「矛盾してない?」


「してるかもね」


 紬は肩をすくめる。


「また飛びたいと思う日もある」


「うん」


「でも、あの日に翼を返したことまで否定したくはない」


「どうして?」


「そのときの私が、本当にそうしたかったから」


 紬は言った。


「今の私が後悔していても」


 その目が、まっすぐになる。


「あの日の私まで、間違いだったことにはならないから」


 僕は思わず息を止めた。


 人間の人生は。


 設計図みたいに一本の線ではない。


 途中で変わる。


 前に戻ることもある。


 選び直すこともある。


 昨日正しかったことが。


 今日も正しいとは限らない。


 だったら。


 翼だって。


 一度決めたら終わりではないのかもしれない。


「……新しい翼」


「うん」


「また飛びたいと思ったときは?」


「そのとき考える」


「何度でも?」


「何度でも」


 紬は笑った。


「逆に、もう飛びたくないと思ったら?」


「飛ばない」


「それも?」


「それも」


 僕は設計図を見た。


 そして。


 昨日までの線に、新しい項目を書き加えた。


『選び直せること』


「それが大事なのかも」


「何が?」


「一度決めたことを、ずっと守らなくてもいい」


「うん」


「途中で変えてもいい」


「うん」


「昔の自分を否定しなくてもいい」


「うん」


 紬は静かに頷いた。


 その「うん」が。


 妙に優しかった。


   ◇


 その日の夕方。


 僕たちは試作翼を外へ持ち出した。


 飛行試験をするわけではない。


 ただ。


 地上で翼を装着して、歩いてみる。


 それだけの確認だった。


「これ、重いね」


 紬が言った。


「軽く作ったつもりなんだけど」


「普段から何も背負ってないから」


「なるほど」


 紬は翼を背負ったまま、ゆっくり歩く。


 一歩。


 二歩。


 そして。


 止まった。


「どう?」


「……変な感じ」


「嫌?」


「分からない」


 紬は背中の翼に手を伸ばす。


「嫌じゃない」


「うん」


「でも」


 少し考える。


「懐かしい」


 その言葉を聞いて。


 僕は黙った。


 紬の表情は。


 嬉しいようにも。


 寂しいようにも見えた。


「飛んでみる?」


 僕が聞いた。


 言ってから。


 しまったと思った。


 それは。


 知らないうちに背中を押してしまう言葉だったかもしれない。


 でも、紬は怒らなかった。


「今日はやめとく」


「……うん」


「ごめん」


「なんで謝るの?」


「せっかく作ったから」


「それで?」


「飛ばないのが悪い気がして」


 僕は首を横に振った。


「違うよ」


「え?」


「これ、そういう翼にしたいんだ」


 自分でも。


 その言葉を言うのが自然になっていた。


「飛びたいときに飛ぶ」


「うん」


「飛びたくないときは飛ばない」


「……うん」


「今日飛ばないなら、それでいい」


 紬はしばらく僕を見ていた。


 そして。


 ほんの少しだけ笑った。


「桐生くん」


「なに?」


「少し変わったね」


「そうかな」


「うん」


「どこが?」


「前より、翼のことを分かってる顔してる」


 そんなことを言われるとは思わなかった。


 僕は少し照れくさくなって。


 空を見た。


 今日は風が弱い。


 空中都市では。


 きっと、たくさんの人が飛んでいる。


 でも。


 地上には。


 飛びたくない人もいる。


 そのことに。


 以前ほど違和感を覚えなくなっていた。


 むしろ。


 それでいいと思える。


 翼を持たない自由。


 飛ばない自由。


 途中で考えを変える自由。


 それらを守れる翼を。


 僕は作りたい。


「紬」


「うん?」


「いつか、もう一度飛びたくなったら」


「うん」


「そのときは、言って」


「どうして?」


「そのときのための翼を作るから」


 紬が目を丸くする。


「私専用?」


「いや」


 僕は笑った。


「紬だけじゃない」


「じゃあ?」


「飛びたいと思った、誰かのために」


 紬は少しだけ黙った。


 やがて。


「そっか」


 そう言った。


 その声は。


 どこか安心したように聞こえた。


 僕は設計図を閉じた。


 今すぐ完成しなくてもいい。


 今すぐ誰かを飛ばせなくてもいい。


 大切なのは。


 飛ばすことではなく。


 飛ぶかどうかを。


 その人自身が決められること。


 それなら。


 僕が昔、失った翼にも。


 新しい意味を与えられるかもしれない。


 空中都市へ帰るためではなく。


 過去の自分を取り戻すためでもなく。


 誰かに選ばれるためでもない。


 自分の意思で。


 自分の人生を選ぶために。


 そのための翼。


 夕暮れの空を見上げる。


 まだ。


 あの場所は遠い。


 でも。


 遠いからこそ。


 自分の足で向かう意味がある。


 僕は思った。


 翼を持っている人と。


 翼を持たない人が。


 同じ場所にいなくてもいい。


 同じ考え方をしなくてもいい。


 ただ。


 互いの選択を。


 互いに奪わないこと。


 それだけは。


 きっと同じ未来へ進むために必要なのだ。


 そして。


 その未来を作るために。


 僕はまた。


 一枚の設計図に向き合った。


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