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僕たちには未来へ羽ばたく翼がある  作者: 和泉 きよ


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05.最初の一歩は、いつだって怖い

 人間が飛べる翼を作る。


 言葉にしてしまえば、それほど難しく聞こえない。


 けれど。


 実際に人間を飛ばすとなると、話はまるで違った。


 机の上に置かれた試作機を見つめながら、僕は何度目か分からないため息をついた。


 骨格は完成している。


 推進用の小型機構も問題ない。


 姿勢制御も、これまでの試験では十分な数値を出していた。


 無人試験でも、短時間なら空中で安定している。


 だから理屈の上では。


 人間一人くらい、飛ばせるはずだった。


「……理屈の上では、ね」


 僕が呟くと。


「その言葉、さっきから何回聞いたと思う?」


 向かいにいた仲間が笑った。


「数えてない」


「僕は数えた。七回」


「多いな」


「多いよ」


 彼が笑いながら翼を見る。


 その表情には、期待があった。


 でも。


 僕は気づいていた。


 期待の奥に。


 ほんの少しだけ、怖さがある。


 当然だ。


 無人機なら、失敗して墜落しても、人は傷つかない。


 でも。


 これは違う。


 この翼には。


 人間が飛ぶ。


 つまり。


 失敗すれば、誰かの身体が傷つく。


 最悪の場合。


 二度と笑えなくなるかもしれない。


 僕は設計図を見直した。


 数字は問題ない。


 構造にも、大きな欠陥は見当たらない。


 それでも。


「……やっぱり、今日はやめよう」


 そう言ったのは、僕だった。


「え?」


「もう少し試験してからにする」


「でも、前回は――」


「前回は無人だった」


 言葉が止まる。


「人間を飛ばすってことは、数字だけじゃ決められない」


 自分で言いながら。


 昨日までの自分なら、きっと違うことを言ったと思った。


 安全基準を満たしている。


 推進力は十分。


 制御値も正常。


 だから大丈夫。


 たぶん。


 そういう言葉で押し切っただろう。


 でも。


 「たぶん大丈夫」で人を飛ばしてはいけない。


 僕にはそれが分かってしまった。


「じゃあ、どうする?」


「……飛ぶ人を決める」


「誰が?」


 僕は黙った。


 すると。


「僕がやるよ」


 声がした。


 仲間の一人だった。


「え?」


「乗る」


「待って」


「桐生が作ったんだろ?」


「そうだけど」


「なら、一回くらい試さないと分からない」


 彼は笑っていた。


 けれど。


 その手は少し震えていた。


 僕は、それを見逃さなかった。


「怖い?」


 聞く。


 彼は少しだけ黙った。


「……怖い」


 その答えに。


 僕は驚かなかった。


 むしろ。


 ほっとした。


「そっか」


「何、その反応」


「いや」


 僕は翼を見る。


「怖いって言ってくれて、よかった」


「なんで?」


「怖くないって言われたほうが、僕は怖いから」


 その場にいた全員が静かになった。


 僕は工具を置いた。


「怖いなら、怖いって言ってほしい」


「……うん」


「無理なら無理って言って」


「分かった」


「途中でやめたくなったら、絶対言って」


「分かったって」


 その返事に。


 少しだけ笑う。


 翼を作る。


 そのことばかり考えていた。


 でも。


 人を飛ばすというのは。


 人間の「やめたい」という言葉を受け止めることでもあるのかもしれない。


   ◇


 試験場所は、施設から少し離れた開けた場所にした。


 周囲に高い木が少なく。


 万一の場合に着地しやすいよう、事前に地面も整えてある。


 空は薄い青だった。


 風速は弱い。


 僕は何度も計測器を見る。


「どう?」


「今のところ問題ない」


「今のところ、か」


「その言い方やめて」


「ごめん」


 僕は苦笑した。


 そして。


 彼の背中に試作翼を装着する。


 留め具を一つずつ確認する。


 左。


 右。


 中央。


 制御装置。


 通信。


 全部問題ない。


 それでも。


 最後にもう一度、聞いた。


「やめる?」


 彼は空を見上げた。


 しばらくして。


「……やる」


「怖い?」


「怖い」


「本当に?」


「だから、怖いって言ってるだろ」


「うん」


 僕は頷いた。


「じゃあ、行こう」


 翼が起動する。


 低い駆動音が鳴る。


 背中から伝わってくる振動。


 風が少し動く。


 彼の身体がわずかに浮いた。


「……浮いた」


 誰かが呟いた。


 僕は息を止めた。


 さらに数センチ。


 そして。


 一メートル。


 二メートル。


 地面が遠ざかる。


「浮いてる!」


 誰かが叫んだ。


「まだ言うな!」


 僕は叫び返した。


 高度計を見る。


 三メートル。


 四メートル。


 そして。


「五メートル」


 表示された数字に。


 胸の奥が震えた。


 飛んでいる。


 人間が。


 本当に。


 僕の作った翼で。


 空にいる。


 たった五メートル。


 でも。


 僕には世界が変わったように見えた。


「すごい……」


 彼の声が通信越しに聞こえる。


「風が少し強い」


「姿勢そのまま」


「分かってる」


「急がなくていい」


「分かってるって」


 声が少し笑っている。


 五メートル。


 十秒。


 十一秒。


「そろそろ戻ろう」


 僕が言う。


「了解」


 翼がゆっくり下降する。


 地面が近づく。


 接地まで、あと少し。


 その瞬間だった。


 風向きが変わった。


 翼が傾く。


「右!」


 僕が叫ぶ。


 彼が制御する。


 一度戻る。


 でも。


 今度は反対側へ揺れた。


「まずい……!」


 僕は計器を見る。


 姿勢制御の反応が一瞬遅れている。


「出力を下げて!」


「分かってる!」


 高度が落ちる。


 そして。


 翼が地面に接触した。


 大きな音がした。


 彼の身体が前へ投げ出される。


「大丈夫!?」


 僕は駆け寄った。


 彼は地面に座り込んでいた。


 しばらく何も言わない。


「……大丈夫」


「本当に?」


「うん」


 彼が息を整える。


「ちょっと怖かっただけ」


 僕は翼を見る。


 一部が歪んでいる。


 破損。


 原因を確認する。


 風。


 姿勢制御。


 反応遅延。


 いくつかの問題。


 数字にすれば。


 修正可能な範囲だ。


 なのに。


 僕はすぐに設計図を開けなかった。


「桐生?」


「……」


「どうした?」


 彼の声が聞こえる。


 僕は自分の手を見た。


 震えていた。


 僕が作った翼で。


 人間が空へ上がった。


 そして。


 落ちた。


 軽い事故だった。


 大きな怪我もない。


 何度も試験を重ねれば、きっと改善できる。


 それなのに。


 胸の奥が冷たかった。


 もし。


 あと五メートル高かったら。


 もし。


 もっと風が強かったら。


 もし。


 制御があと一秒遅れていたら。


 考えれば考えるほど。


 怖くなる。


「今日は終わりにしよう」


 僕は言った。


「でも――」


「今日は、終わり」


 誰も反対しなかった。


   ◇


 作業室に戻ったのは、夕方だった。


 壊れた翼を机の上に置く。


 僕は工具を持ったまま。


 しばらく動けなかった。


 五メートル。


 十一秒。


 飛行成功。


 数字だけを見るなら。


 大成功だ。


 これまで一度も、人間を飛ばしたことはなかったのだから。


 でも。


 僕の中では。


 成功という言葉が、妙に遠かった。


「……怖かった」


 思わず口にした。


 誰もいない作業室。


 返事はない。


 僕自身が。


 一番怖かったのだ。


 飛んでいる人間ではなく。


 作っている自分が。


 人を飛ばせてしまうことが。


 怖かった。


 技術は。


 できるようになった瞬間から。


 「やるかどうか」という問題に変わる。


 できる。


 だから、やる。


 それでいいと思っていた。


 でも。


 違う。


 できるからこそ。


 やらないという選択が必要になる。


 僕は壊れた翼に手を置いた。


「……人間って」


 小さく呟く。


「機械より、ずっと難しいな」


 そのとき。


 作業室の扉が開いた。


 入ってきたのは。


 紬だった。


「まだいたんだ」


「うん」


「顔、ひどいよ」


「失礼だな」


「そういう意味じゃない」


 紬は机の上の翼を見る。


 破損した部分を見つめた。


「失敗した?」


「うん」


「誰か、怪我した?」


「大きな怪我はない」


「じゃあ、よかった」


「……それだけ?」


「それだけって?」


「翼のほうは」


「人より翼が大事なの?」


 言われて。


 僕は口を閉じた。


「……違う」


「なら、それでいいじゃん」


 紬は翼ではなく。


 僕のほうを見た。


「失敗したら、直せばいい」


「簡単に言うね」


「簡単じゃないよ」


 その声は静かだった。


「怖いから」


「……」


「また飛ぶかもしれないし、もう飛ばないかもしれない」


 紬は壊れた翼を見る。


「でも、それを決めるのは私だから」


 僕は彼女の言葉を聞きながら。


 今日の飛行を思い返していた。


 飛ぶことだけを考えていた。


 飛ばすことだけを考えていた。


 でも。


 その人が怖いなら。


 今日は飛ばない。


 そういう選択があっていい。


 途中で怖くなったら、降りてもいい。


 失敗したら、また考えてもいい。


 翼の性能を上げる。


 それだけでは足りない。


 人間が安心して「やめる」と言える設計。


 人間が「怖い」と言える空間。


 それも。


 翼を作る仕事の一部なのかもしれない。


「紬」


「なに?」


「ありがとう」


「何が?」


「怖いって言ってくれて」


 紬は少しだけ目を丸くした。


 それから。


 小さく笑った。


「どういたしまして」


   ◇


 その夜。


 僕は一人で設計図を描いた。


 新しい項目を追加する。


『安全装置』


『緊急停止』


『強制降下防止』


『手動介入』


 そして。


 一番下に。


『怖いと言えること』


 技術仕様書に書くには。


 あまりにも曖昧な言葉だった。


 でも。


 僕には必要な言葉に思えた。


 翼は人間を空へ連れていく。


 だからこそ。


 人間の弱さを置き去りにしてはいけない。


 強くなくてもいい。


 勇気がなくてもいい。


 怖くてもいい。


 途中でやめてもいい。


 飛んでから戻ってもいい。


 それでも。


 自分で決められるなら。


 その翼はきっと。


 ただ空を飛ぶための機械ではない。


 僕は最後に。


 設計図の端へ一文を書いた。


『本人の意思より先に、翼を飛ばさない』


 書き終えて。


 鉛筆を置く。


 窓の外を見る。


 夜の空は暗く。


 空中都市の灯りだけが、雲の向こうでかすかに見えていた。


 僕はまだ。


 あの場所へ戻りたい気持ちを完全には捨てられない。


 でも。


 以前とは、少し違う。


 戻るために作るのではなく。


 これから行く場所のために。


 作ってみたいと思った。


 そして、その瞬間。


 遠くの空で。


 一つの光がゆっくり動いた。


 飛んでいる。


 誰かが。


 自分の意思で。


 僕はしばらく、その光を見つめていた。


 いつか。


 あの空へ。


 僕自身も飛ぶのだろうか。


 それとも。


 まだ分からない。


 ただ一つだけ。


 今日の十一秒が教えてくれた。


 最初の一歩は。


 飛び上がることじゃない。


 怖いと認めながら。


 それでも、自分で一歩を選ぶことなのだ。


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