04.空は誰のものなのか
翌朝。
目が覚めた瞬間に、昨日の言葉を思い出した。
――翼を持つことも、持たないことも、自分で決めていい。
水城紬の声だった。
眠っている間に何度も聞いた気がする。
それは、優しい言葉だった。
でも同時に。
僕にとっては、とても厄介な言葉でもあった。
なぜなら。
その言葉を認めるなら。
僕が作ろうとしている翼も、最初から作り直さなければならないからだ。
◇
登校時間。
地上学校へ向かう道を歩きながら、僕は空を見上げた。
雲の向こうには、空中都市がある。
朝の光を受けて、薄い建物の影が空に浮かんでいた。
肉眼では、細部までは見えない。
それでも。
翼を持つ人たちが行き交っていることだけは分かった。
僕は立ち止まった。
隣を通り過ぎる生徒が、怪訝そうな顔をしてこちらを見る。
地上学校の生徒が、空を見上げている。
ただ、それだけのことだ。
けれど。
僕には、その光景が以前とは違って見えた。
昨日までなら。
羨ましかった。
今は。
少し違う。
空中都市の人たちは、翼を持っている。
僕たちは持っていない。
ただ、それだけなのに。
なぜ、そこから「違う人間」という感覚が生まれるのだろう。
翼は移動するための道具のはずだ。
なのに。
人間は、いつの間にか翼そのものに意味を与えている。
飛べる。
特別。
上。
選ばれた側。
飛べない。
普通。
下。
そうやって。
ただの装置だったものが、境界線になっている。
僕はそのことに。
初めて、強い違和感を覚えた。
「……おかしくないか」
小さく呟いた。
空は上にある。
地上は下にある。
それ自体は、ただの事実だ。
なのに。
なぜ人間まで上下になるのだろう。
◇
放課後。
僕はまっすぐ作業室へ向かった。
鞄を置く。
工具箱を開く。
設計図を広げる。
昨日までの僕なら、まず推進力の計算から始めていた。
出力。
重量。
安定性。
飛行時間。
そういう数字ばかりを並べていた。
でも今日は。
一番上に文字を書いた。
『誰のための翼か』
書いたあとで。
自分でも笑ってしまった。
「急に難しくなったな」
紙の上には、当然答えなどない。
だから。
とりあえず、その下に思いつくまま書いていく。
『飛びたい人』
その下に。
『飛びたくない人』
さらに。
『一度飛びたい人』
『たまに飛びたい人』
『飛べない人』
『飛びたくても怖い人』
『途中でやめたい人』
そこで鉛筆が止まった。
さらに一つ。
『昔は飛びたかった人』
書いた。
そしてもう一つ。
『昔は飛んでいたけれど、今は飛びたくない人』
これは。
紬のことだ。
最後に。
『飛びたいと思ったことがない人』
そこまで書いて。
僕は腕を組んだ。
これだけでも。
「誰でも飛べる翼」という言葉が、ずいぶん雑に聞こえる。
誰でも飛べる。
その言葉は、一見すると優しい。
でも。
もし。
「せっかく翼があるんだから飛びなよ」と言われたら。
それは自由なのだろうか。
飛べるのに飛ばない。
それも選択だとするなら。
翼そのものに「飛ばなくてもいい」という思想が必要になる。
僕は設計図を裏返した。
そして、また書いた。
『飛行能力を与える』
その横に線を引く。
『選択肢を増やす』
さらに線を引いた。
二つは似ている。
でも。
きっと違う。
飛行能力を与えることは、技術だ。
選択肢を増やすことは、社会だ。
その瞬間。
自分の作っているものが。
ただの機械ではなくなった気がした。
◇
僕は学校の資料室へ向かった。
翼について調べるためだ。
古い制度資料を探す。
航空技術。
都市間輸送。
居住資格。
市民登録。
貸与規定。
いろいろな文書を読み漁る。
そして。
思ったより早く、その記述を見つけた。
『ツバサは、空中都市登録市民に対して貸与される公共飛行装置である』
僕はそこで手を止めた。
貸与。
つまり。
個人の財産ではない。
空中都市の住民であることによって、利用を許可されているだけ。
だから僕が返したのも当然だった。
資格を失った。
だから返した。
それだけ。
僕はずっと。
翼を「奪われた」と思っていた。
でも、正確には違う。
翼はもともと僕のものではなかった。
僕は一時的に使うことを許されていただけだ。
それなのに。
あの日から僕は。
翼が自分の人生そのものだったように感じていた。
なぜだろう。
答えは、たぶん簡単だ。
翼が。
「自分がどこにいる人間なのか」を示す記号だったからだ。
空中都市の市民。
飛べる人間。
選ばれた側。
僕は、翼を失ったから地上へ来た。
けれど。
本当は逆なのかもしれない。
地上へ来たことで、翼がどれほど自分の価値と結びついていたのかに気づいた。
僕は資料を閉じた。
胸の奥が妙にざわつく。
そこへ。
作業室の扉が開いた。
「まだいたんだ」
施設の職員だった。
「少し調べものを」
「熱心だね」
「気になることがあって」
「翼?」
「はい」
職員は机の上を見る。
図面。
資料。
計算式。
そして、何枚ものメモ。
「本当に作るつもりなんだね」
「作ります」
「どうして?」
その質問を聞いて。
僕は少し黙った。
少し前なら。
「自分が飛びたいからです」
そう答えていた。
でも。
「……分かりません」
正直に答えた。
「最初は、自分のためだったと思います」
「今は?」
「今は――」
机の上にある紙を見る。
『飛びたい人』
『飛びたくない人』
『途中でやめたい人』
いくつもの言葉が並んでいる。
「選べるようにしたい」
「選べる?」
「はい」
職員は少し驚いた顔をした。
「何を?」
「飛ぶことを」
僕はそこで一度、言葉を切った。
「それから、飛ばないことも」
自分で言って。
少しだけ怖くなった。
大きすぎる。
こんなことを考える必要があるのだろうか。
ただ翼を作るだけじゃないのか。
どうして僕が。
社会のことまで。
でも。
もう戻れなかった。
昨日、紬と話したからだ。
彼女は翼を捨てても、自分を捨てなかった。
だったら僕も。
翼を取り戻すことだけを目的にしてはいけない。
「空中都市の人たちにとって、翼は当たり前なんだと思います」
僕は言った。
「でも地上の人間には、そうじゃない」
「……うん」
「だから、新しい翼を作るなら」
僕は自分の図面を見つめた。
「今までの『ツバサ』をそのまま地上に持ってくるんじゃ駄目なんです」
「どうして?」
「同じものを作ったら、結局同じ線引きをするから」
空中都市には翼がある。
地上にはない。
なら。
地上にも翼を配れば、それで解決する。
最初は、そう思っていた。
でも。
それだけでは足りない。
新しい翼が普及したあと。
全員が飛べるようになったら。
今度は。
「飛ぶ人」と「飛ばない人」に分かれるかもしれない。
だったら。
最初から違う思想で作らなければならない。
「翼を増やすんじゃない」
僕は呟いた。
「選択肢を増やすんだ」
職員は何も言わなかった。
ただ。
ほんの少しだけ笑った。
「君は、難しいことを考えるね」
「自分でもそう思います」
「でも」
「はい」
「そういう人が作るものなら、少し見てみたい気はするよ」
職員が部屋を出ていく。
扉が閉まる。
静かになった。
僕は一人で設計図を見る。
窓の向こう。
森の隙間から、空が見える。
そして、そのさらに向こう。
空中都市。
あそこにいる人たちにとって。
空は当たり前の場所だ。
僕たちにとっては。
遠い場所。
その違いは。
本当に「翼があるかどうか」だけなのだろうか。
僕は、もう一枚の紙を取り出した。
大きく書く。
『空は誰のものなのか』
少し考えて。
その下に、答えを書いた。
『誰のものでもない』
さらに。
『だから、誰かだけのものでもない』
書き終えたところで。
胸の奥が少しだけ熱くなった。
これは。
ただの設計思想ではない。
僕がこれから作る翼に。
最初に与えるべき約束だった。
飛びたい人には。
飛ぶための翼を。
飛びたくない人には。
飛ばなくてもいい翼を。
そして。
誰かが決めるのではなく。
本人が決める。
「自分の行きたい場所へ行くための翼……」
自然と、その言葉が口から出た。
まだ名前もない。
まだ完成していない。
まだ、空を飛ぶことすらできない。
それでも。
僕の中では、もう始まっていた。
僕は工具を握った。
次に作る翼は。
昔の「ツバサ」の真似ではない。
昔の僕へ戻るためのものでもない。
今まで空を飛べなかった人たちだけのためでもない。
飛ぶ人も。
飛ばない人も。
途中で変わる人も。
その全部を受け止められる翼。
そんなものが。
本当に作れるのかは分からない。
でも。
作れないと決める理由もなかった。
僕は設計図へ、新しい線を引いた。
今までより少し長く。
今までより少し深く。
その線は。
まだ見えない未来へ続いているように見えた。




