02.失ったものは、翼だけではなかった
翼を返した日のことは、今でもよく覚えている。
忘れようと思ったことほど、人間の記憶には残るらしい。
あの日の空は、今日と同じように青かった。
雲は少なく、風も穏やかだった。
こんな日に、人生が変わるなんて。
子どもの僕には、分かるはずもなかった。
「桐生朔さん」
呼ばれて、僕は立ち上がった。
空中都市の行政施設。
白い壁。
無機質な照明。
床には、靴音だけが響いていた。
僕の隣には父がいた。
反対側には母がいた。
それなのに。
三人で並んでいるという感覚は、もうなかった。
離婚する。
その言葉を、僕は何度も聞かされた。
でも、当時の僕が一番怖かったのは、両親が別々に暮らすことではなかった。
そのあとだった。
どちらが僕と暮らすのか。
どちらの家へ行くのか。
僕は、当たり前のようにそう思っていた。
だから、聞いた。
「僕は、どっちと住むの?」
返事は、すぐにはなかった。
あの沈黙だけは、今でも覚えている。
言葉よりも。
ずっと重かった。
「……しばらく施設で暮らしてもらう」
父が言った。
「生活が落ち着くまで」
母が続けた。
「落ち着いたら、迎えに来るよ」
そう言われた。
僕は信じた。
子どもだったから。
大人の言葉は、守られるものだと思っていた。
だから聞かなかった。
いつ迎えに来るのか。
どのくらい待てばいいのか。
どうして今、一緒に暮らせないのか。
聞いたところで。
二人とも困った顔をするだけだったから。
そのあと。
僕は「保護対象者」という立場になった。
それに伴って、空中都市の居住資格も失った。
制度上は簡単なことだった。
親と同じ資格を持つ子どもは、親の登録から外れれば、その資格も失う。
そして。
「ツバサ」は返却する。
個人の財産ではないから。
都市から貸し与えられているものだから。
それは合理的だった。
少なくとも、大人たちにとっては。
「外しますね」
担当者が僕の背中に手を伸ばした。
「自分でできます」
僕はそう言った。
「……分かりました」
留め具を探す。
指先が震えていた。
それに気づかれたくなかった。
だから、ゆっくり外した。
カチッ。
小さな音がした。
それだけだった。
翼は、驚くほど軽かった。
背中から離した瞬間。
まるで、最初から何もなかったみたいに感じた。
僕は両手で抱えた。
白と銀を基調にした、子ども用の小さな翼。
何度も触った。
何度も見た。
それなのに。
もう、自分のものではない。
「こちらで預かります」
担当者が言った。
「ありがとうございました」
僕は翼を渡した。
その瞬間。
胸の中に穴が空いた。
いや。
翼がなくなったからではない。
僕は、そのとき初めて気づいた。
あれは「翼を奪われた瞬間」ではなかった。
僕が自分から手放した瞬間だったのだ。
大人に命令されたわけではない。
取り上げられたわけでもない。
僕自身の手で、翼を差し出した。
制度に従って。
何も知らないまま。
だから余計に、悔しかった。
その日の帰り道。
窓の向こうを、たくさんの人が飛んでいた。
いつもなら見慣れた景色だった。
けれど、その日は違った。
遠くを飛ぶ人たちが。
まるで別の生き物に見えた。
僕は窓に額をつけた。
手を伸ばしても、届かない。
当然だ。
ガラスの向こうには、空がある。
そして僕は。
もう、その空の側の人間ではない。
――あのときの僕は、そう思った。
◇
「桐生くん」
名前を呼ばれて、意識が戻った。
現在。
地上の保護施設。
夕方前の作業室。
目の前には、昨日から作っている試作翼の部品が並んでいる。
「ぼーっとしてたけど、大丈夫?」
「大丈夫」
「また昔のこと考えてた?」
「……少しだけ」
僕は工具を持ち直した。
金属の部品を固定する。
ネジを締める。
回して。
止める。
単純な作業なのに、妙に落ち着く。
ものを作っている間だけは。
考えることを一つに絞れるから。
人間関係も。
家族のことも。
過去も。
全部、少しだけ遠くなる。
「その翼、本当に飛べるの?」
向かいから声がした。
「まだ分からない」
「分からないのに作ってるんだ」
「飛ばなかったら、飛ぶまで作る」
「……桐生くんって、変だよね」
「よく言われる」
「褒めてないよ」
「知ってる」
笑った。
でも。
工具を握る手は、止まらなかった。
僕は、本当に飛びたいのだろうか。
昨日。
設計図の余白に「選ぶ」と書いた。
あれ以来、その言葉が頭から離れない。
飛びたい。
空へ行きたい。
翼を取り戻したい。
それは本当だった。
でも。
どうして?
そこまで考えたことはなかった。
昔に戻りたいから?
両親と暮らしていた頃へ?
空中都市で暮らしていた頃へ?
翼をつけていた自分へ?
それとも――。
「昔の僕に戻りたいだけなのかな」
ぽつりと口からこぼれた。
「何それ?」
「独り言」
「珍しいね。桐生くんがそんなこと言うの」
「僕だって考え事くらいする」
「いつも難しいこと考えてるじゃん」
「楽だから」
「え?」
「答えがあるから」
人の心には、設計図がない。
正解もない。
同じ言葉でも、相手によって意味が変わる。
だから苦手だ。
けれど機械は違う。
壊れたなら、原因を探せる。
動かないなら、どこかに問題がある。
だったら。
直せばいい。
そう思える。
でも。
人間は、そう簡単じゃない。
両親のことも。
僕自身のことも。
いまだに、どうして壊れたのか分からない。
それなのに。
翼だけは、作れそうだった。
理由なんて、それで十分だと思っていた。
◇
作業室の窓から空を見上げる。
今日も、空中都市が見える。
遠い。
けれど、昔よりも近く見える。
たぶん僕の目が変わったからだ。
子どもの頃は、あそこが世界の全部だった。
空中都市に住んでいることが当たり前で。
翼を持っていることも当たり前で。
飛べることなんて、特別でもなんでもなかった。
でも。
一度それを失うと。
当たり前だったものほど、遠い。
僕は完成前の翼を持ち上げた。
軽い。
まだ人間を飛ばせるほどの性能はない。
それでも。
昨日まで存在しなかったものが。
今日、僕の手の中にある。
「……もしかしたら」
僕は翼を見つめた。
「戻る必要なんて、ないのかもしれない」
口にした瞬間。
胸が少し痛んだ。
ずっと望んでいたはずなのに。
翼を取り戻せば、過去を取り戻せる。
そう思っていた。
でも。
過去は、翼と一緒に失われたわけじゃない。
翼が戻ってきても。
両親との時間は戻らない。
空中都市で過ごした日々も。
あの日の家族も。
子どもの僕も。
もう、どこにもいない。
だったら。
新しく作るしかない。
過去の僕のためじゃなく。
今の僕のために。
そして。
まだ見たことのない誰かのために。
そこまで考えたところで。
自分でも妙なことを考えたと思った。
誰かのため?
どうして僕が。
そんなことを。
けれど。
設計図の端に書いた文字が目に入る。
『選ぶ』
僕は、それを見つめた。
翼を持つことを選ぶ。
翼を持たないことを選ぶ。
飛ぶことを選ぶ。
飛ばないことを選ぶ。
空に住むことを選ぶ。
地上で生きることを選ぶ。
もし。
そんなことを自分で決められるのなら。
翼は、ただの移動道具じゃないのかもしれない。
人が自分の人生を選ぶための――。
「……翼」
小さく呟く。
その言葉が。
以前とは少し違って聞こえた。
僕が欲しかったのは。
昔と同じ翼ではないのかもしれない。
失ったものを取り戻すための翼でもない。
過去へ帰るための翼でもない。
まだ見えない未来へ行くための翼。
自分の行きたい場所へ行くための翼。
そのとき。
空の向こうで、一機の翼が旋回した。
夕陽を受けて輝く。
僕は、その光を追うように目を細めた。
そして。
初めて、過去ではなく未来を見た。
まだ形のない。
名前すらない未来を。
その未来へ行くために必要なものを。
僕は、これから作る。
失った翼の代わりではなく。
――僕自身の翼を。




