01.空に住む人、地上に生きる人
空は、昔より近くなったはずなのに、僕にはひどく遠かった。
空中都市は、雲の少し下に浮かんでいる。
朝になると、巨大な建造物の影が雲を薄く染め、その隙間を無数の人間が飛んでいく。
白い機体。
銀色の機体。
翼を大きく広げるものもあれば、ほとんど音を立てずに滑るものもある。
地上から見上げれば、それは鳥の群れに似ていた。
けれど、鳥と違って、人間は自由に飛んでいるわけではない。
飛ぶためには、資格がいる。
そして、その資格を持つ者だけが「ツバサ」を与えられる。
「また見てる」
背後から声がした。
僕は振り返らなかった。
見なくても誰なのか分かる。
「別に」
「別に、って言う人は、だいたい別にじゃないよ」
保護施設の庭に、乾いた笑い声が響く。
僕は空を見上げたまま答えた。
「……癖になってるだけ」
「空を見るのが?」
「昔は、あそこにいたから」
言ったあとで、少しだけ後悔した。
わざわざ口にする必要なんてなかった。
僕が昔、どこにいたのか。
どんな暮らしをしていたのか。
どんな翼を持っていたのか。
そんなことは、もうずいぶん前から誰も聞かなくなっている。
ここは地上の保護施設だ。
空中都市から落ちてきた人間が暮らす場所ではない。
地上で暮らす理由を持つ人間が、暮らす場所だ。
森林保護条約が制定されてから、地上の景色は大きく変わった。
戦争で失われた森を取り戻すため、人間は大規模な伐採を禁じた。
一年。
十年。
百年。
さらに長い時間が流れ、森は広がった。
木々は土地を覆い、都市はその隙間にしか存在できなくなった。
それでも人類は増え続けた。
だから、人間は上へ移った。
森を壊さず、人間の暮らしを広げるために。
空中都市が生まれた。
やがて、それは単なる都市ではなくなった。
空に住むことそのものが、一つの身分になった。
空中都市に暮らすためには登録が必要で、その登録者には飛行用装置――通称「ツバサ」が貸与される。
空へ行ける者。
地上に残る者。
いつしか人間は、二つに分かれた。
たった一枚の翼を境界線にして。
僕は、その境界線の向こう側にいた。
昔は。
「桐生くん」
「ん?」
「今日も作るの?」
声の主が、僕の手元を見る。
工具箱。
小型モーター。
薄い金属板。
樹脂製の骨組み。
全部、僕が集めたものだ。
「作るよ」
「何を?」
「翼」
相手が黙った。
それは当然だった。
地上の人間が翼を作るなんて言えば、普通なら笑う。
けれど、僕は笑えなかった。
だって、僕は知っている。
翼がどれくらい重いのか。
装着したとき、背中に何が乗るのか。
空へ上がる瞬間、どれくらい身体が軽くなるのか。
そして――それがなくなったとき、どれくらい自分が軽くなるのか。
僕は昔、空に住んでいた。
正確には、空中都市で育った。
僕の両親も翼を持っていた。
いや。
持っていた、というより、貸与されていた。
僕らの「ツバサ」は、家族の持ち物ではなかった。
都市の制度によって与えられていたものだった。
だから、家族が壊れたとき。
僕の居場所も、一緒に壊れた。
両親が離婚した。
それ自体は、珍しいことではなかった。
けれど僕の場合、少し違った。
二人とも僕を引き取らなかった。
どちらも、自分の新しい生活を選んだ。
その結果、僕は保護施設へ移された。
そして登録資格を失った。
資格を失えば、翼は返却する。
それだけのことだった。
係員は事務的だった。
僕に恨みはない。
怒っているわけでもない。
ただ、制度に従っているだけだった。
「ツバサを返してください」
そう言われたとき。
僕は背中に手を伸ばした。
留め具を外した。
翼を取り外した。
それだけだった。
本当に、それだけだったのに。
その瞬間。
自分の中から、何かまで一緒に外れた気がした。
僕は地上へ降りた。
空中都市へ戻ることはできなくなった。
そこで初めて気づいた。
翼を失うということは、飛べなくなることじゃない。
昨日まで自分だったものを、今日から他人のものとして見ることだった。
保護施設の倉庫には、僕の古い記録が残っている。
そこには、昔の僕の写真もある。
小さな僕。
背中に小さな翼をつけて、笑っている。
見るたびに思う。
あの子は、僕なのだろうか。
それとも。
もう死んでしまった、別人なのだろうか。
「また難しい顔してる」
声がして、僕は現実へ戻った。
向かいに座っていた人が、工具を一つ持ち上げる。
「これ、どこにつけるの?」
「まだ決めてない」
「決めてないのに作ってるの?」
「作りながら考える」
「普通は逆じゃない?」
「普通じゃないから」
「それ、自慢?」
「事実」
少しだけ笑った。
久しぶりに、自然に。
僕は机の上に広げた設計図を見る。
今のところ、ただの線の集合だった。
翼と呼ぶには不格好で。
飛ぶには弱くて。
人を乗せるには、あまりにも頼りない。
それでも。
僕は一本の線を引いた。
それは、今までの翼にはなかった線だった。
「何を考えてるの?」
「新しい翼」
「昔の翼を作り直すの?」
僕は少しだけ手を止めた。
そして、空を見た。
雲の向こうに、空中都市がある。
あそこには、今も人がいる。
誰かが飛び。
誰かが笑い。
誰かが僕の知らない人生を生きている。
それを見ていると、胸の奥が痛む。
だから、ずっと思っていた。
取り戻したい。
自分の翼を。
あの頃の自分を。
空にいた頃の自分を。
けれど。
鉛筆を持つ指が止まる。
僕が本当に取り戻したいのは。
翼なのだろうか。
それとも――。
「……まだ分からない」
「何が?」
「この翼で、どこへ行きたいのか」
自分でも意外な言葉だった。
どこへ行きたいのか。
そんなこと、考えたこともなかった。
ただ、飛びたかった。
それだけだった。
でも。
飛べるようになった、その先に。
僕は何を望むのだろう。
そのときだった。
雲の間から、一機の「ツバサ」が姿を現した。
夕陽を背にして。
まっすぐ、地上へ向かってくる。
その姿を見た瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
それと同時に。
なぜか、昔とは違う感情が生まれた。
羨ましい。
悔しい。
戻りたい。
――それだけじゃない。
僕は設計図の余白に、一つの言葉を書いた。
『選ぶ』
その文字を、しばらく見つめる。
なぜこんな言葉を書いたのか、自分でも分からなかった。
ただ。
翼を失った僕だからこそ。
いつか、答えを見つけなければならない気がした。
翼とは何なのか。
空とは誰のものなのか。
そして。
人は、自分の行きたい場所を。
本当に自分で選べるのか。
夕暮れの空は、何も答えてくれない。
ただ静かに。
僕の上を、飛び続けていた。
その日。
僕はまだ知らなかった。
自分が作ろうとしている翼が。
いつか、僕一人のためのものではなくなることを。
そして。
空を飛ぶことよりも難しいものが、この世界にはあることを。
――自分の未来を、自分で選ぶことだった。




