12.誰の翼なのか
会議から三日後。
作業室の机には、いつもより多くの書類が積まれていた。
行政から届いた資料。
安全基準についての検討案。
試験施設の使用許可。
新型翼の今後についての打ち合わせ通知。
そして、その中に。
一枚だけ。
妙に立派な封筒があった。
「……これ、何?」
紬が封筒を指差す。
「知らない」
「開けてみたら?」
「怖い」
「そこまで?」
「こういう綺麗な封筒って、大抵ろくなこと書いてない」
「偏見だよ」
「経験則」
僕は封筒を持ち上げた。
ずしりと重い。
中には、一冊の資料が入っていた。
『新型飛行技術共同事業に関する提案書』
表紙には。
大手航空機器企業の名前。
「……企業?」
「企業だね」
紬が隣から覗き込む。
「どうして?」
「さあ」
ページをめくる。
そこには。
開発支援。
資金援助。
研究設備の提供。
量産体制の構築。
世界規模での流通網。
僕たちだけでは、到底用意できないものばかりが並んでいた。
「すごい」
思わず口に出た。
もし。
この話を受ければ。
翼は一気に広がる。
僕の頭の中だけにある設計思想が。
何万人。
何百万人という人間に届く可能性がある。
それは。
僕がずっと望んでいた未来に近い。
でも。
ページをめくっていくうちに。
その気持ちは少しずつ冷めていった。
『共同開発契約に基づき、製品仕様については当社と協議の上決定する』
その一文。
さらに。
『安全上および品質保証上の観点から、使用条件について当社が最終判断を行う』
そして。
最後に。
『知的財産権および関連技術の管理については、当社が主体となる』
僕の指が止まった。
「……これ」
紬が読む。
「管理するって書いてあるね」
「うん」
「全部?」
「かなり」
机の上に資料を置く。
悪い条件ではない。
むしろ。
企業側からすれば当然なのだろう。
巨額の資金を出す。
設備を用意する。
責任も負う。
だったら。
ある程度の決定権を持ちたい。
それは理解できる。
理解できるからこそ。
怖かった。
「朔」
紬が言った。
「どうする?」
僕は答えられなかった。
◇
翌日。
企業の担当者と会うことになった。
場所は、前回とは違う公共施設。
会議室には行政の担当者も同席していた。
「まず」
企業側の男性が頭を下げる。
「この技術に大きな可能性を感じています」
「ありがとうございます」
「地上と空中都市の距離を縮めるだけではありません」
資料を広げる。
「物流。
災害対策。
医療。
教育。
人の移動。
社会そのものを変える可能性があります」
話し方は上手かった。
理路整然としていて。
押しつけがましくもない。
「だからこそ」
男性は言った。
「我々が責任を持って、世の中に送り出したいのです」
僕は頷いた。
「責任を持つ」
その言葉自体に反対はない。
むしろ。
必要なことだと思う。
「ただ」
男性が続けた。
「そのためには、設計、製造、運用に関する一定の権限を我々に委ねていただく必要があります」
やっぱり。
僕は資料を見る。
「最終的な仕様決定権も?」
「安全性と品質を担保するために必要です」
「使用条件も?」
「当然です」
「翼を使わない人の意見は?」
「ユーザー調査という形で反映できます」
その答えに。
僕は少し引っかかった。
「反映できる?」
「はい」
「でも、決めるのは?」
「最終的には、専門家が」
男性は穏やかに笑った。
「素人の意見だけでは、安全な製品は作れませんから」
もちろん。
それも分かる。
技術に関することを。
全員の投票だけで決めていいはずはない。
でも。
僕は思う。
安全だけを理由に。
使う人の意思を後回しにしていいのだろうか。
そして。
安全を知っている人間が。
そのまま「何を選ぶべきか」まで決めてしまっていいのだろうか。
「桐生さん」
行政の担当者が口を開く。
「非常に大きな支援になります」
「分かっています」
「現状の設備では、開発速度にも限界があります」
「はい」
「受ける価値はあると思います」
僕は資料に視線を落とした。
確かに。
価値はある。
むしろ。
今の僕たちには必要だ。
なら。
何が問題なのか。
僕はしばらく考え。
ようやく口を開いた。
「一つの組織が、全部を決める必要はないんじゃないですか」
会議室が静かになった。
「どういう意味でしょう?」
「行政には行政の役割がある」
指を一本立てる。
「法律、安全、公共性」
二本目。
「企業には、企業の役割がある」
「製造、供給、技術開発」
三本目。
「研究者には研究者の役割がある」
「技術検証」
そして。
「使う人にも」
僕は続けた。
「使わない人にも」
企業の担当者が少し眉を上げた。
「非利用者の意見も、ですか?」
「はい」
「なぜ?」
「翼を持つ人だけの問題じゃないからです」
僕は答えた。
「飛ばない人も、その社会で生きるから」
災害が起きれば。
空を飛ぶ人だけではなく。
地上に残る人も影響を受ける。
会社が翼を導入すれば。
働き方にも影響する。
学校に導入されれば。
教育にも影響する。
翼を使わない人だって。
無関係ではいられない。
「だから」
僕は続けた。
「行政だけにも任せない」
行政担当者を見る。
「企業だけにも任せない」
企業側を見る。
「僕たち開発者だけにも任せない」
自分自身を見るように。
「使う人だけにも任せない」
最後に。
「使わない人も含めて、一緒に決めるべきだと思います」
しばらく。
誰も話さなかった。
やがて。
「具体的には?」
企業側の男性が聞いた。
僕は。
昨日の夜に何度も書き直した紙を取り出した。
「四つの立場を基本にします」
一つ。
「行政」
二つ。
「開発側」
三つ。
「利用者」
そして。
「非利用者」
男性が紙を見る。
「研究者は?」
「開発側の中でも、独立した検証組織を置きます」
「企業は?」
「製造と供給を担ってもらう」
「最終判断は?」
その質問に。
僕は答えた。
「一つの組織には渡しません」
行政の担当者が少し身を乗り出す。
「それでは責任の所在が曖昧になりませんか?」
「逆だと思います」
僕は言った。
「一つの組織が全部を持てば、間違えたときに止められません」
「……」
「それぞれ違う立場の人が関わっていれば、どこかが間違っても、他が止められる」
完璧な制度なんてない。
人間は間違う。
行政も。
企業も。
研究者も。
ユーザーも。
僕だって。
だから。
「絶対に正しい人」を作るより。
「間違っても止まれる仕組み」を作ったほうがいい。
そのほうが。
たぶん。
この先の世界には向いている。
「……面白い考え方ですね」
企業側の男性が言った。
「ただ」
少し笑う。
「かなり面倒でもあります」
「はい」
「効率は落ちます」
「そうだと思います」
「それでも?」
僕は頷いた。
「それでもです」
◇
会議が終わったあと。
僕たちは施設の外へ出た。
「朔」
澄乃が待っていた。
「どうだった?」
「長かった」
「それは見れば分かる」
彼女が笑う。
「企業から提案?」
「うん」
「受けるの?」
「まだ決めてない」
「またその顔してる」
「どんな顔?」
「答えが出てない顔」
「その通り」
澄乃は僕の持っている紙を見る。
「さっきの?」
「うん」
そのとき。
紬も後ろから歩いてきた。
「話、聞いたよ」
「どこまで?」
「結構」
紬は紙を見る。
「四つに分けるの?」
「行政、開発、利用者、非利用者」
「いいと思う」
「本当に?」
「うん」
紬は少し考えてから言った。
「私は、翼を持っていたから」
「うん」
「翼のことを翼を持つ人だけで決めてほしくない」
「……」
「でも」
紬は続ける。
「翼を持っていない人だけで決めるのも違うと思う」
「どうして?」
「どっちも当事者だから」
その言葉に。
僕は少し驚いた。
「飛ぶ人も」
「うん」
「飛ばない人も」
「うん」
「返した人も」
「そう」
紬は笑う。
「だから、誰か一人が『これが正解』って言ったら、それで終わりじゃ駄目なんじゃない?」
僕は頷いた。
隣で。
澄乃も静かに笑う。
「私も賛成」
「澄乃も?」
「うん」
彼女は自分の翼に触れた。
「私は空中都市に住んでる」
「うん」
「だからこそ、空中都市の都合だけで決められるのも嫌」
「……」
「でも、地上の人たちだけで決められるのも、たぶん嫌だと思う」
澄乃は少しだけ考える。
「だって、私たちには私たちの大切なものがあるから」
その言葉を聞いて。
僕は嬉しくなった。
二人とも。
自分の側の正義だけを主張していない。
自分とは違う相手の立場を。
残そうとしている。
「ありがとう」
僕が言うと。
「何?」
「二人とも」
「急にどうしたの?」
澄乃が笑う。
「一人だったら、たぶん僕は間違えるから」
「じゃあ」
澄乃が言った。
「一人で決めなければいいんじゃない?」
僕は彼女を見る。
「それが一番いいかも」
◇
その夜。
作業室で。
僕は一人、机に向かっていた。
紙の中央に。
大きく円を描く。
その四方向に。
『行政』
『開発』
『利用者』
『非利用者』
さらに少し離れた場所へ。
『独立研究』
五つの円を線で結ぶ。
どこか一つが。
全部を支配しないように。
でも。
全部が。
無関係にもならないように。
僕は考えた。
きっと。
今の社会は。
「誰が決めるか」を考えるとき。
最も偉い人を探そうとする。
行政。
専門家。
企業。
利用者。
どこか一つに。
答えを預けたくなる。
そのほうが。
簡単だから。
でも。
簡単な仕組みが。
いつも正しいとは限らない。
僕たちが作ろうとしている翼は。
たぶん。
社会の中で。
あまりにも大きなものになる。
だから。
その翼の意味を。
一人に渡してはいけない。
僕がすごいからでもない。
企業が優秀だからでも。
行政が正しいからでもない。
人間は。
誰もが間違うからだ。
「……一つにしない」
僕は呟いた。
支配する人を作らない。
正しさを独占する人も作らない。
代わりに。
互いに見張り。
互いに意見を言い。
必要なら。
止める。
やり直す。
変える。
その仕組みを。
翼そのものに組み込む。
技術ではなく。
制度として。
僕は紙の一番下に。
新しい言葉を書いた。
『翼の未来を、一人で決めない』
ペンを止める。
その文字を見て。
不思議と安心した。
自分一人で未来を背負わなくていい。
それは。
責任から逃げることではない。
むしろ。
未来を自分一人の所有物にしないということだ。
窓の外を見る。
夜の空。
空中都市の明かり。
その下には。
地上の森。
二つの世界の間には。
まだ境界線がある。
でも。
今日、その境界線の上に。
新しい線を引いた。
翼を持つ人と。
持たない人が。
同じ未来について話すための線。
僕は。
それがまだ細くて不安定でも。
大切な一歩だと思った。
未来を変えるということは。
誰かを新しい場所へ連れていくことじゃない。
誰か一人が。
『こっちが正しい』と決めることでもない。
違う人間たちが。
違うまま。
それでも同じ机を囲めること。
そのための仕組みを。
僕たちは、今。
作り始めている。
そして。
その中心にある翼は。
まだ一度も。
世界中の空を飛んでいない。
だからこそ。
これから先。
どんな未来を作るのかは。
まだ。
誰にも決まっていなかった。




