宵、白鳥と五月雨。
ぼんやりと人に流されるまま、私は電車に乗り、目黒駅に着きました。
夜七時半の改札は人で賑わっていて、視界に映る様々な洋服の色が、雑念を掻き消してくれるような気がして少し安堵しました。
改札を出たところで佇む見知った人影が見えました。かなりラフな服装だったものの、彼はやはり、最初に出会った時と同じようにこの世のものではないような雰囲気を持っていて、何故だか私は少し現実に引き戻されるのでした。
彼がこちらに気付いて、ひらひらと手を振りました。私はそれに会釈しつつ、改札を出ました。彼は私の顔を見て、少し迷ったように目を動かした後、穏やかに笑いました。
「晩御飯もう食べた?」
「いえ」
「じゃあそれ買いに行かなきゃだな、酒も飲みたいし」
いつもと変わらない温度でそう言った彼は、私に何も訊く事なく歩き出しました。外はあいにくの雨でしたが、駅の中の人々はまるで何もないかのように平然としていました。私の代弁者であった雨が、私の家族には見えなかったように。
迷いなく進む彼に連れられ、私は灰色の空気の事をぼんやりと考えていました。私だけが、取り残されたような気がしました。
ただ単に、姉がもう家に帰らないこと。それは、姉がこれから新しい家族を見つけ、共に過ごす、輝かしい未来の先にもあったはずでした。だから、事実だけを考えれば、そこまで悲観する事ではないと思いました。
きっと姉は、私にも両親にも、もしかしたら誰にもわからない、彼女だけの幸せを持って、家族という繋がりを捨てたのです。それを悲しむのは、私の幸せだけを主軸に考え過ぎているようにも思いました。
「俺、一階で食料品見てくるから、服とかの必要そうなもの買ってきな」
急に振り向いて声をかけられ、驚いて我に帰ると、彼がこちらを覗いていました。綺麗なアーモンド型の瞳の中に、穏やかな光が青く反射していました。
彼は、雨を拾ってくれるのでしょうか。芸術家であれば、こんな雨の一粒でさえ、キャンバスに乗せてくれるのでしょうか。
「服?」
「ん? そう。泊まってけば? こんな時間だし」
「いや、いきなりだったし、流石に悪いです」
少しずつ覚醒してきた頭の中で、私は夜であるのにも関わらず彼に電話をかけ、ましてや家に行きたいと言った事を理解し始めるのでした。
断らないといけない、と思う反面、こちらに非難の意を見せない彼の優しさに縋りたいとも思ってしまいました。雨音は未だ消えず、湿っぽい空気が立ち込めていました。
「人はさ、どうしようもなくなった時に弱さを見せられる場所が必要なんだよ。それでさ、その場所に選んだのがあの絵だったんじゃないの?」
強く断らなくてはいけないと思ったものの、私にそれを言う勇気はありませんでした。そして、彼は真っ直ぐにこちらを向いて、そう言いました。前後の文脈には合わない、しかし私の全てを見透かしたような一言を。
少し細められた目は、やはり何かの感情を湛えていて、それは、私が見た中で、もっとも雨に似ているのでした。
私は何も言えず、ただ黙って、瞼を閉じました。何がこんなにも悲しくて、温かくて、その全てが私にはわかりませんでした。
まるで大雨で流されるように、急に空虚になった私の心臓から感情がどんどんと溶け出していって、その中でただ一つ、彼がこちらから目線を外さないことが、三十六度の優しさを冠していました。
何も言わずに黙って立ち止まる私を見て、一階で集合ね、と彼は言い残し、ひらりと手を振ってエスカレーターに消えて行きました。私は未だに冴えない頭の中、人の流れに身を任せ、ぼんやりと歩き出すのでした。
一泊するのに迷惑をかけない範囲で必要なものを揃え、私は、食料品を見ているであろう彼を探しに行きました。少しずつ理性は取り戻してはいましたが、不安定な霧の中を歩くような、まるで夢の中のような心地はあまり消えませんでした。
割引シールで賑わう陳列棚を進んでいくと、彼はお酒の棚の前に居て、ワインの裏のラベルを見ていました。この人はアルコールが好きなんだな、と思うと同時に、駅で出会った時に渡されたスポーツ飲料とアルコールの飲み合わせが何を意味するのかも私は理解していて、それが、彼の抱える何かと結び付いてしまうような気がしました。その確証を得るのが怖くて、私は、何も気付かない振りをするのでした。
私の視線に気付いたのか、彼はこちらを見て、小さく笑いました。これも追加しとく、と白ワインを二本カゴに入れ、慣れた様子でレジにそれらをかざしました。
一通り買い物も終え、私たちは店を後にしました。夜九時半の雨は、少し弱まっていて、傘をささずに歩いても平気なほどでした。
十分程度歩いて、彼の家に案内されました。一人で住むにはかなり広い一軒家で、「どっかの赤髪がアポ無しで泊まってくるから広くて助かってるよ」と、リビングを見ながら彼は笑いました。
リビングには大きな本棚が二つほど並んでいて、片方は様々なジャンルの小説が、もう片方は、デッサン練習、図鑑といった、美術全般の資料が置いてありました。そして、隣に置いてある横置き本棚の上に、石膏像のサモトラケのニケが飾ってありました。
興味深そうに本棚を見る私に、一つ一つ、「博物館のお土産」「予備校行ってた時に買った」「真琴が俺の家に置いていった」と教えてくれましたが、ニケに関しては「あ、それはただの趣味。インテリアとして飾ってある」と笑うのでした。興味ある本があったら適当に読んでていいよ、と彼は言い、ソファの前に置かれたローテーブルに、グラスだけ寄越して、彼はキッチンに消えていきました。
何か手伝いましょうか、と声をかけましたが、シャワー浴びてきな、と言われ、その厚意に甘えることにしました。何というか、自分の全てが不思議で、私は今どうしてここにいるのか、その流れがあまり実感できずにいました。洗面台の配置がいつもと違う事だけが、事実でした。ブレスレットが中途半端に置かれていて、やはりそれは、私の家にはないものでした。
適当に買ったパーカーに着替え、彼にありがとうございます、と声をかけると、彼はリビングでのんびりと白ワインを開けているところでした。ローテーブルにはカプレーゼとクラムチャウダーが置かれていて、彼は「悪いね、先飲んでる」と言いながらこちらを向くのでした。
促されるままソファに座り、グラスを渡されて、私は白ワインに口を付けました。そこまで度数の高いものではなかったものの、久しぶりに口にするアルコールは、私の空虚に流れてきました。
彼は、なぜ私が『帰雁』を見たいと言ったのかの理由を何も訊きませんでした。これ美味い、とワインを片手に、満足そうに笑って、ただそれだけでした。弱まっていたはずの雨が強く降り出したのを見た彼は、「制作部屋のエアコン付けてくる」と席を立ちました。雨は、ずっと正直でした。
「そういや、これが見たかったんだって? 」
部屋に戻ってきた彼は、一枚のキャンバスを持っていて、それは確かに、『帰雁』でした。想像していたよりも大きく、その迫力に圧倒されました。
写真では見えなかった筆致や色味が、そこにはありました。どう言い表したらいいのかわからない、穏やかな海のようにも、荒れた空模様にも見える、彼の心中が。
「……すごいです」
「はは、ありがと」
あまりに淡白な感想でしたが、彼は気を悪くする事もなく穏やかに笑いました。
私はその青の中に含まれる、流れるような透明や、激情をばら撒くような心臓、その中で削り取られたような輝きを見ていました。
彼が何を思って、誰に何を伝えたくてこれを描いたのかは私にはわかりませんでしたが、彼の絵が私の空虚を揺らした事は事実でした。
ふいに、背景の青が美術館に家族で見に行った時の水槽と重なりました。姉がイルカを好きだったこと、母はエイを、父は水槽に反射する私たちを楽しそうに見つめていたこと。
蝶はどこにいるの、と私が問うて、ここには居ないからまた今度見に行こう、と笑った両親の声色の優しさを、思い出しました。虫の図鑑を買ってもらい、次第に動物にも興味を持ち、やっぱり水族館にまた行こう、とねだる昔の記憶を。
私は、彼の絵を介して、まるで飛び立って二度と戻らない雁を見送るように、それらを思い出していました。
もう、戻らないこと。自分の右手では、もう拾えない大切な物のこと。
雨はやはり、私の代わりに泣いていました。
街の人も、両親も、姉も、その雨を見ていませんでした。それは、彼らが、雨を忘れるほど、雨の痛みを感じないほどに大人であるという事なのだろうと思いました。
彼は何も言いませんでした。雨を拾ってキャンバスに描くことも、傘をさすこともしませんでした。
ただ、彼にはきっと、この雨が見えていました。




