夜雨、凧と風鈴。
それから三日ほど経った日のことでした。
私は、私の家族が知らないところで崩壊していた事を知りました。
いつもと同じように講義を受け、友人たちと学食を食べていた時でした。急に電話が鳴り、それが彼からのものではなく姉であった事に少しの落胆を覚えながら応えると、「私はもうあの家には帰らない、日向とも会わない、両親を説得するのは無理だと思ったから説明しておいてくれ」と、何の理由も知らされないまま要求だけを伝えられました。
急いで両親に連絡を取ると、どうやら、姉は三ヶ月ほど前から休職していて、その間の両親からの小言に耐えられず部屋に籠るようになり、どんどん怪しい宗教に呑まれていったという事のようでした。「日向は大学頑張ってるだろうから、言いたくなかったのよ」と母は呆れと哀れみが混じった口調で言いました。「私たちも言い過ぎちゃったかしらね、でももう社会人だから、これで良いのかもね」と、付け足して。
頭が殴られたような衝撃で、私はよく理解できませんでした。
苦しいわけでも、痛いわけでもなく、ただ私は、ずっとそこにあると思っていたものが急に無くなった事を知るのでした。きっと、姉が高校生であれば、両親はどうにかして姉を救えるような手立てを講じていたでしょう。「社会人だから」という残酷な、時間という一線が、もう何も戻らない事だけを淡々と示していました。もう両親に、姉をどうにかする気はないのだな、と理解し、私は私が思う以上に家族という場所が大切だったことを知るのでした。
きっとそれは、両親や姉にとっては自分の人生の通過点にしか過ぎず、私だけが家族という形に、知らず知らずの内にしがみついていたのだろうと思いました。
姉の事を特段尊敬していただとか、そういう事ではなく、ただ、家族というのはその形を保ったまま、ずっと続いていくものだと漠然と信じていました。空虚とはこの事を言うのだな、と思いました。
本当に、心の奥の何かが丸ごと抜け落ちてしまったような気がして、これらは比喩でもなく、的を射た表現だったのだな、とくだらない事を考えていました。
次の日は大学もバイトも休んで、小さなワンルームの中で、何もせずに机を見つめていました。感情の整理は、うまくいきませんでした。私に特別関係ない事であったが故に、何も出来ることはなく、ただ流れる時間をぼんやりと過ごしていました。
ふと、彼のことを思い出しました。『帰雁』を、思い出しました。
彼も、似たような空虚を知ったのでしょうか。あの右手から零れ落ちたであろう何かは、彼が拾えなかった何かだったのでしょうか。
帰雁、という言葉の意味を調べました。冬を超えた雁が、春になって去っていくという意味の春の季語でした。
なぜか、彼の瞳に滲んだ水彩の青を、噴水で死んでいたオオルリアゲハを、あの右手に重ねてしまいました。
外は雨が降っていて、五月の夕方は霞がかった灰色の空気をしていました。
雨は、私の代わりに泣いていました。私はそれに少しだけ安堵し、課題が開かれたままの机を見ました。
今日が金曜で良かったと思いました。課題は後回しにして、私はスマホを開き、何となく時間を溶かした後、通知を見ました。幸か不幸か、連絡を見たらしい彼からのメッセージが届いていました。
暫く返信を返せていなかったことの謝罪、気にしていないとはいえ身内の話を黙ってくれていたことの感謝、そしてタクシー代はそのお礼だと思ってくれて構わないとのことでした。
都合の良い日時が分かれば電話で伝えてもらえると助かる、と付け加えられた簡素な文を読み、その押し付けない優しさが、無性に私の心を揺らしました。
自分でも何がしたかったのかはわかりませんでした。
実物の『帰雁』を見たかった、家族が壊れた時どうだったかを聞きたかった、私はどうしたら良いのかを教えて欲しかった。そのどれもが正しくて、間違っていて、本当に私は空虚になったのだと思いました。
自分でも上の空で、行動の意味があまりわからないまま、私は何かに取り憑かれたように、彼に電話をかけました。
「どうも、連絡ありがとね」
「いえ、こちらこそありがとうございます」
まさか彼が本当に出るとは思わず、内心焦りがあり、私にはあまり正しく考えることが出来ませんでした。電話の向こうの少し低い声が、何故だか私を諭しているようにも聞こえ、私はスマホを握りしめたまま何も言えなくなるのでした。
電話をかけたものの、何も伝えようとしない私を怪訝に思ってか、「都合良さそうな日時見つかった?」と、彼は少し柔らかい口調で私に問いました。
その声色の穏やかさに、私はまた心臓が苦しくなり、そもそも都合の良い日時を決めて電話したわけでもないので、勿論何も返答することができませんでした。沈黙の時間が流れましたが、彼は何も言わず、電話を切ることもしませんでした。ただ、私が私のタイミングで何かを伝えることを、待っていました。
「『帰雁』を、見てみたくて、」
数十秒の沈黙をたっぷりと使った後、私はポツリとそう零しました。
彼にそれがどう伝わったのかは私にはわかりませんでしたが、ああ、と小さく呟いた後、彼が柔らかく笑った気配がしました。
「いいよ、作品に興味持ってもらえるのは有難い事だからね。俺は暇してるからいつでも良いけど、薬師寺くんはどうしたい?」
彼は私の声色に気付いているのか否か、選択を私に委ねました。時計は午後六時半を指していました。
私はそれを自分の意識外で認識しながら、彼の穏やかな声色に甘えた自分がいました。
「今からでも、良いですか、」
言うなれば、一種の酔いでした。一日中、急に形を変えた家族のことを考えていて、私は思考がどこかに置いていかれた状態で、その流れに身を任せるまま彼に電話をしていました。
彼に何を思われるかすら考える余力もなく、ただ、君はどうしたいのか、という真っ直ぐな問いに絆されるように、私は口を開けたのでした。
「いいよ。目黒駅わかる? 山手線の品川方面」
彼は少し時間を使ったあとにそう答え、了承の意を示しました。着いたら連絡して、中央改札口で待ってるから、と何でもない事のように言うのでした。
私は、未だにぼんやりとしか動かない頭を抱え、目黒駅、という単語だけを頼りに、鞄にカギとスマホを入れるのでした。




