夕照、凋落と余白。
それから、彼からDMの返信が来る事はなく、既読にすらなりませんでした。よく見ると、彼のアカウントは一年前の投稿を最後に、一切更新されておらず、きっと私が送ったメッセージも確認していないのだろうと思いました。
大学に彼が現れることもなく、結局、私の家の冷蔵庫の中で大量のアルコールは眠ったままでした。私はその薄い青の缶を見る度に、『帰雁』を思い出していました。
新入生の歓迎会も無事終わり、平凡な五月を過ごす中で、少し有栖川さんと接点を持ちました。彼は、他学部の女子学生からも人気があり、学科の中でも噂をよく耳にする一人でした。
歓迎会が終わり、後片付けをしている時に「遊び人かと思ってたけど、意外と誠実なんだって」「今彼女はいないらしいよ」「そこの飲食店でバイトしてる姿見たよ」と、教室で女子生徒が話をしていました。丁度その時に、「歓迎会の打ち上げ予定って伝わってる?」と赤い髪を覗かせた彼が、こちらを見ていました。
「二年と三年で打ち上げするらしいから、来たいやつは明日までに連絡しといて」と、ぶっきらぼうながら端的に伝え、彼は、連絡先ここだから、と黒板の端にメモを書き残し、教室を出ていきました。
勿論行く、という女子学生の黄色い声に圧倒され、私は友人達と苦笑しつつも、参加する旨を連絡するのでした。
結局打ち上げは何事もなく終わり、また、彼は様々な女子学生に囲まれていたため、話す機会などあるはずもなく、結局、私達はご飯をご馳走になっただけでした。やむを得ず、私は有栖川さんの連絡先に多少の事の顛末を送り、帰宅しました。
家に帰ってスマホを開くと、有栖川さんからは「三日連絡が返ってこなかったら電話したほうがいい」という簡素なメッセージと共に、彼の連絡先が貼り付けられていました。
ありがとうございます、と返信し、私は恐る恐る彼の連絡先を登録しました。当たり障りのないメッセージを送って、私は一息つき、課題に取り掛かりました。いつ返信が来るのかが気になって、私は通知が来ていないのにも関わらず、何度もスマホを触ってしまうのでした。
結局、有栖川さんの言っていた通り、彼からの連絡はありませんでした。確かに、彼がスマホを触っている姿を見たことこそあるものの、何となくそういうものからは距離を置いて過ごしているイメージがあったので、ある程度は頷けるものがありました。
しかし、電話したらいい、というアドバイスをその通り実践できるほど肝が据わっているわけもなく、私はただ、彼が返信してくれる可能性だけに賭けていました。
幸運だったのは、有栖川さんが面倒見のよい性格をしていた事でした。既読がつかないまま数日経ったのち、私は大学で有栖川さんから話しかけられました。彼は物理学の講義を一人で退屈そうに受けていて、教室に入ってきた私を見るなり、「いいところに」とこちらを向きました。
「葵月とは連絡取れた?」
「いえ、まだ見てないと思います」
「はは、あいつらしいわ、後で電話しな」
有栖川さんは、そう言って笑い、微妙な顔をした私をみて、さらに深く喉を鳴らすのでした。悪意からくるものではないその上品な笑い方が、今はここにいない藝大生の彼の姿に重なりました。雰囲気も出立ちも違うように見える彼らは、外からではわからないところで、似ているのだろうと思いました。
「二年上だと萎縮もするよな」
少し柔らかくなった有栖川さんの言葉は本当にその通りで、私は目を伏せて軽く頷き、肯定の意を示しました。
そのまま流されるように、私は有栖川さんの隣で授業を受け、一通り授業が終わった午後五時半に、人のいなくなった一〇二教室で、彼はおもむろにスマホを取り出すのでした。
「葵月? スピーカーにしていい? 今どこ?」
何回か掛け直してようやく繋がったらしいその電話の向こうには、確かに彼がいて、私は少し鼓動が高鳴るのでした。その高鳴りが、何の感情からくるものかは私にはわかりませんでした。
有栖川さんは、彼と一言二言交わしたあと、私の方を向いて、スピーカーにしてある、と目で合図しました。
『聞こえなかった、なんて?』
「いやいい、用があるのは俺じゃなくて」
ほら、と有栖川さんはスマホを私の目の前に置いて、私に話すよう促しました。スマホ越しに、彼の背景の音が聞こえてきて、私は何だか不思議な感覚になるのでした。鳥の囀りと微かな人の話し声がして、確かに今、私のいる教室とは違う場所で彼が生きているのだと実感しました。それが何だか少しくすぐったくて、結局私はスマホの前で何も話せずにいました。
「今、俺の隣にさ、二年の薬師寺くんがいるんだけど、なんかお前が酒押し付けたらしいじゃん。どうするか困ってるんだってさ」
私を見かねて、有栖川さんが彼に返答をしました。発言だけ聞くと若干彼を責めるような、まさか一年の差があるとは思えないラフな話し方に、私は彼らの関係に疑問を持ちましたが、今は助け舟を出してくれたことに心から感謝するのでした。
『あー……なんかあったな、忘れてた。悪いね』
電話越しで聞こえる彼の声は、少し低く感じました。彼は有栖川さんの発言に気を悪くした様子もなく、ケラケラと笑いながら続けるのでした。
『取りに行くよ、都合良いタイミングあったら教えて』
「あの、それもあるんですけど、お金も返さなきゃならなくて。タクシー代、払わずに帰っちゃったので」
真面目だな、俺なら早く酒持って帰れくらいは言うぞ、と有栖川さんの独り言が聞こえ、私は不覚にも少し笑ってしまいました。彼にも聞こえていたのか、楽しそうに咎める声が少し聞こえました。
『気にしないでいいよ、色々言わないでくれているみたいだし』
色々、が何を指しているのかを理解すると同時に、有栖川さんが戸惑ったようにこちらを向いた気配がして、私は申し訳なさそうな顔をするほかありませんでした。こちら側に流れる少し気まずい沈黙を彼は知る由もなく、彼は続けました。
『悪いんだけど、今週末は外せない予定があってさ。それ以外にはなっちゃうけどいい?』
はい、と私は頷き、私は有栖川さんにスマホを返しました。鳥の囀りが強く響くものの、電車や車などの人工的な音は聞こえず、彼が今どこにいるのか少し不思議でした。
「葵月、それ、今どこ?」
『ん? ローズガーデン。花見ながら紅茶飲んでる』
「一人で?」
『そうだけど、何か?』
何を訊きたいのかわからない、といった声色の彼と、笑いを堪えている有栖川さんの姿が対照的で、私も釣られて笑いました。変な奴、と有栖川さんが溢し、目を細めました。派手なピアスが、小さな太陽のようでした。
「まあいいよ、要件はこれだけだから」
ふうん、と軽い相槌が聞こえ、ようやく私は胸を撫で下ろすのでした。彼は、『じゃ、俺紅茶楽しんでくるから』と言い残し、電話を切りました。
「あいつ意外と良い奴だよ、電話以外の連絡を全く見ないだけで」
赤い髪から覗く瞳が笑ってこちらをみていました。
はい、と私は頷き、ありがとうございました、と続けました。
じゃあな、と彼はスマホを鞄に入れ、席を立ちました。西陽に照らされて赤が強くなった教室は、何となく、心地よいものでした。




