雨跡、空蝉の呼声。
ひとまず私たちは駅を出ることにしました。彼はスマホから目を離さないまま、「タクシー呼べたら良いんだけど」と呟きました。駅は騒がしいままで、時計は夜九時を示していました。
「うわあ、すっごい人」
駅の外も大量の人で溢れかえっており、それらはこの事態の異常さを表していました。大雨は未だ止まず、大量の人が交差する場所で、私たちは雨の匂いに少しずつ体温を溶かされていくのでした。
「とりあえずタクシー呼ぶよ、時間かかると思うから適当に店でも行って時間潰そう」
私たちは人混みを縫って、近くの喫茶店に入りました。たまたま席が空いていたようで、運良く座れましたが、雨の影響もあって店内は騒がしく、外の雨音が掻き消されるほどでした。私は端の席に座り、目の前の彼の様子を少し伺いました。
少し目を伏せてメニューを見ている彼の瞳には雨の色が滲んでいました。私は無性にその色に引き込まれ、ため息で誤魔化しました。
「あと一時間くらいかな、新宿まででいい?」
「はい、何から何までありがとうございます」
彼は軽く笑って、運ばれてきたグラスを持ち上げました。氷がカラカラと鳴り、彼が頼んだブラッドオレンジの朱色がルビーのように輝いていました。どちらからともなく、私たちは好きな音楽や趣味について話しながら、グラスの中の氷が形を変えていくのをゆっくりと眺めていました。湿度を感じる空気の中、彼が時々下を向く時に見える睫毛の先が、柔らかく空気に滲んでいました。
彼はやはり、穏やかに笑う人でした。特段表情豊かというわけではありませんでしたが、明確にそこには温度があるように見えました。塾で出会った時や、駅で少女を相手にした時とは違う、水彩の溶けるような瞳でした。
彼の、他人との距離の取り方は一目では分かりにくく、それは人見知りという言葉で片付けられるようなものではないような、彼が意識的に何かに一線を引いているように思えました。私は、もしその一線がいつか自分に向けられたら、と考えて、彼に心酔している自分自身に気付くのでした。
タクシーもうすぐ来るって、と彼がこちらを向いたのを区切りに、私たちは店を出ました。夜十時を回った東京の空は、あいにくの雨で暗くはありましたが、大雨警報は少しずつ解除されたようでした。交通量の多い駅前を、彼は迷う事なく進み、こっち、と言われるがままに私たちはタクシーに乗りました。「小鳥遊です、先に新宿で、目黒まで」と慣れた様子の彼を横目に、私は、彼の名字に含まれた意味を少し知ってしまった事の罪悪感を感じるのでした。
席に座って、私はゆっくりと目を閉じました。人混みの中を長時間立ちっぱなしだったせいもあって、車内の狭い空間は少し落ち着きました。寝てていいよ、と隣から穏やかな声が聞こえ、タクシー特有の香りと共に、ふわりと藤の花が舞ったような気がしました。
「新宿。着いたよ」
肩を軽く叩かれ、私は漸く目を覚ましました。新宿駅と書かれた看板が見え、そこには見慣れた光景が広がっていました。
ありがとうございましたー、と運転手が声だけを寄越し、私は急かされるように荷物を持ち、タクシーを降りるのでした。じゃあまた、という彼の声に、頭がぼんやりしたまま会釈を返し、私は家路につきました。
家の玄関を開け、一通りの事を済ませてから鞄の中身を見たところで、私は、駅で預かった酒の数々を返すことを忘れ、あまつさえタクシー料金も払わずにきたことを理解しました。
彼の連絡先など知らないので、私はスマホを開いて、学生の間では主流の、写真の投稿や交流に使われるアプリを開き、一縷の望みにかけて彼のアカウントを探しました。ほとんど使い方も知らず、こういったSNSには全くの無縁な生活を送っていましたが、「小鳥遊葵月」と書かれたアカウントを見つけた時に、「先輩とかフォローしとくといいよ」と言ってくれた同じ学科の女子学生に密かに感謝しました。
自己紹介文に、「東京藝術大学四年 絵画科 油画専攻」と書かれたそれは、確かに彼が藝大生である事を示していました。彼が何を投稿しているのか気になり、私は何も後ろめたい事などないはずなのに、少し自分に言い訳をしながらスクロールして、彼が載せている投稿の数々を見ました。
公的なものとして使っているのか、個人的な写真ななく、そこには日付と作品名だけが淡々と並んでいました。絵画の事は私にはわかりませんでしたが、前衛的な抽象系統のものから、普段意識しないような日常のどこか一瞬を切り取ったような秀美なものまで様々でした。そのどれもが、人を引き込むような何かがあるような気がして、これが果たして私は彼の絵に惹かれているのか、彼に惹かれているのか、自分でもうまくわからないのでした。
私は一つずつ遡って見ていき、『帰雁』という題の作品で手が止まりました。
どう言い表せばよくわかりませんでしたが、手を止めてしまうほどの何かを感じました。きがん、と口だけで唱えて、私は画面の明るさを上げ、彼の描いた絵をゆっくりと見ました。
淡い青色の背景に、右手が描かれていました。青い背景は、描き込まれた線によって空にも水にも、右手は、まるで今にも枯れて消えてしまいそうな一輪の花を持っているように見えました。
それは、何かの感情を拾おうとしているように見え、しかしそれらはその手から零れ落ちて落ちてしまったんだ、という一種の寂しさのようなものも感じました。
しかし、結局のところそれらは私の勝手な幻想の押し付けにすぎず、事実としては青い背景と手の絵画でした。
題以上の何も書かれていないキャプションから何かを読み取ろうとし、何もわからず、私はただ黙って画面を見つめているだけでした。
彼は、一般的なSNSの運用方法とは違い、ただ淡々と作品を載せ続けていました。コメント欄も全て封鎖されており、そこには、鑑賞者の感想で変わるものは一つもないという微かな意思を感じました。
私は当初の目的を思い出し、謝罪を添えて彼にDMを送りました。不必要な事を書いていないか、失礼ではないかなどと、気になり始めたらキリが無くなってきたので、勢いに任せて送信ボタンを押しました。送った後も色々な事が気になってしまい、私は何となく彼の学科が何を学んでいるのかを検索バーに打ち込むのでした。
まず目に飛び込んできた、本当に見た事のない恐ろしい倍率に、油画という彼の専攻がその中で特筆して難易度が高いという情報を私は目にして、彼がいかに飛び抜けた才能の持ち主だったのかを思い知らされるのでした。
その日は疲れていたのもあって、驚きが消えぬまま眠りました。『帰雁』だけは、ずっと脳裏に焼き付いて離れませんでした。




