白群、花嵐と散華。
彼はこちらを向いたまま、ゆっくりと目を細めて、気まずそうに目を逸らしました。そこには、塾で出会った時のとは違い、何らかの感情が動いていました。私はどうしていいか分からず、変わらず立ちすくむばかりでした。
「なんか今日、よく会うね」
彼は小さくため息をついた後に、そう言いました。どんな顔をすれば良いのかわからず、私は、はい、と一言だけ返して彼の言葉を待ちました。
彼は、何も言わないでいる私を見て、微妙な顔をした後、続けました。
「別に、変に気使わなくてもいいよ。隠してないし。それに、妹も親も、俺の人生には関係ない」
私を攻めるような口調でこそありませんでしたが、彼は明確に、そう吐き捨てました。彼の表情には何も浮かんでおらず、それがかえって、何かを押し殺しているようにさえ見えました。
ホームにいる人の声は止まず、アナウンスが頻繁にかかっていました。慣れた様子のサラリーマンや、半泣きの小学生を連れた家族連れ、地面に座って缶を開ける女子高生など、様々な人がそれぞれ過ごしていました。
未だ何も言えずにいる私を見て、彼は小さく息を吐いてから、ゆっくりと笑いました。
「そんな顔しなくても、俺だけじゃないよ。みんな、見えないだけで、色んなもの背負ってる」
彼の視線は私ではなく、泣きそうな小学生の方を向いていました。小さな手で薄いピンクの服の裾を握っていて、荒れた髪の毛には三つ編みの癖が付いていました。母親は怒った様子で眉を吊り上げていて、父親は面倒そうな顔を隠す様子もなく、スマホを見ていました。
彼らにも、事情があるのでしょうか。私には見えない、彼らが抱えて生きていくべきものが。
「復旧遅いかもね。振替輸送どうせ乗れないから待つことには変わりないけど」
カーディガンを脱いで、シャツの第一ボタンを外した彼が、こちらを覗いていました。銀のシンプルなネックレスが少し反射していて、何だかそれが魅惑的に見えました。頭に浮かんだ邪念を消し去りたくて、私はペットボトルの水を口に含み、ゆっくりと飲み込みました。
「小鳥遊さんはどうされるんです?」
「人酔いするからこの辺で酒でも飲んで待つつもり」
「着いていってもいいですか?」
「え、どこに? 俺の家?」
彼は目を見開いて、少し戸惑いを見せました。「画材で散らかってるよ、いや、家遠くて帰れそうにないならまあ、良いっちゃ良いんだけど」と途中から半ば独り言のような声でした。
「いや、ほら、あの、大学のために東京にきたので、あまり路線がわかってないというか」
自分の言葉の意味がどう受け取られるかを漸く理解し、私は焦って弁明をしました。彼は何を思ったか、首を傾げながら、ふふ、と笑いました。少しずつ彼の瞳に感情が滲んでいき、私は少し安堵するのでした。
「待てばいいよ、一応訊くけどどこ住み?」
「新宿です」
彼は、ああ、と呟き、何かを言おうとしたところで、アナウンスが再度響きました。
安全確認や雨の影響がかなり響いているということが繰り返し強調されていて、つまり何の進展もないということを示していました。夜八時を過ぎている事もあり、騒ぎ声が目立っていました。
湿度と人混みでどうにかなりそうなホームの中、彼はため息を吐きながら、「振替輸送の方が良いかもな」と溢しました。
一回戻ろう、とエスカレーターに向き直ったところで、誰かに強く背中を押された感覚がしました。反射的に振り返ると、先程の小さな少女が大粒の涙を湛えながら、唇を震わせていました。
激昂した母親が、私を半ば突き倒す勢いで少女の方へドカドカと歩いていき、少女は彼の後ろに隠れるような体勢で、彼女の母親を怯えるように見ていました。
私は、「大丈夫ですか」と彼と少女に声をかけようとしましたが、それが声になるよりも前に、彼は冷たい温度で「離してもらえますか」と少女に言い放ちました。
自分の味方になってくれると思っていたのでしょう。少女はそれが自分に向けられたものだと理解すると同時に、その場で泣き出しました。
母親がヒートアップしそうな勢いで顔を赤くしながら口を開け、少女がその場に座り込みました。
周りの人が何の騒動だと言わんばかりに白い目を向けていて、私は何もできず彼を見つめるばかりでした。
「離してもらえるよう言っていただけますか」
ホームのざわつきは、多種多様な感情をもって、それは彼や少女、その他の何かに向いていました。嘲笑や嫌悪、興味といった人の視線は、雨に乗って好きに流れていくのでした。
その中で、彼だけは非難という意を隠さず、真っ直ぐに目の前を向いていました。
「俺もう行きたいんで、手を離してほしいんですけど」
美咲、と母親が鋭く名前を呼び、そこをどくよう催促しましたが、泣き出した少女は彼の持っているコンビニの袋から手を離そうとしませんでした。
彼は未だ泣きやまない少女を見ながら、「これ酒しか入ってないから、本当に離してくれないかな」と、抑えながらも反論を許さない声で言いました。母親も周りからの白い目に耐えられなくなったのか、少女を宥める方向にシフトし始め、同時に人の視線は興味を失い始めていました。
手を離す様子のない少女をみかねて、彼は「これ持っててくれない?」と私に袋の中身を指さしました。
アルコールの数々とスポーツ飲料を渡され、その数に少し狼狽えたものの、言及することなく黙ってそれを受け取りました。少女は、空になったビニール袋を未だ握りしめたままでした。
彼はふう、と一つため息を付いて、私に、「行こう」と催促しました。
彼女を放っておいていいんですか、と訊く前に、彼は少女に一瞥もくれずに歩き出していました。私は、申し訳程度に母親に会釈をしてから、彼の背中を追いかけました。
湿った風に煽られ、雨の匂いと共にふわりと藤の花が香り、私は彼の性格がうまくわからなくなるのでした。
私の知る限りの彼は、優しい人でした。噴水の前で立ち止まっていた私を気にかけ、追いつけなかった物理の講義やその日の夕食のことなど、心地良い距離で穏やかに接してくれました。
一方で、塾に来た時の無表情な応答に加え、少女を気にかける様子のない事務的な対応も、事実でした。
私の中には、それらを結びつける答えがうまく思い浮かびませんでした。
二面性とは言えない何かが、彼の中に眠っているような気がしました。
「え、山手線も止まったんだけど。振替輸送はどうなったんだよ」
改札前まで来たところで、彼は電光掲示板を見てから、そう呟きました。
眉を顰めた顔が、私にはわかりませんでした。
「ああこれ終わったな。丸の内と総武線が雨で止まってて、それだけなら迂回できるからなんとかなるはずだったんだけど、今山手線が事故で止まった」
あまりピンと来ていない私の様子をみて、彼は軽く笑ってから続けました。
「東京はね、山手線が全てだと思って問題ないよ。山手線だけ生きてたらまだなんとかなるんだけどね、これが止まると電車ではもう無理。事故がどれくらいの規模かはわからないけど、この大雨の中だから長引くと思う」
ほぼ全域警報出てるし、と彼は困ったように付け足しました。スマホを見ると、母からの心配のメッセージが来ていました。
何となくそれを嬉しいと思うと同時に、それは彼の元には届かないものなのだ、という事に気付いて、私は少し苦しくなりました。彼はそんな私の心中など知らず、どうしようね、と言いました。それは、内容の割に軽い口調で、私は、なんとなくその軽さが寂しくなるのでした。




