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晩春、徒花の季語。

 彼が大学に姿を見せなくなってからも、私の日常は変わらず続いていました。朝九時の一限、一二時の食堂、火曜と金曜以外の夕方六時のバイト。友達付き合いもそこそこ上手くいっており、授業内容にも何とかついていける程度には、毎日が進んでいました。


 四月半ばになってからは、新入生の歓迎会のための役員に選ばれ、先輩や教授と連絡を繰り返していました。また、バイトの方も忙しく、新学期ということで生徒の学期予定なども考えなくてはなりませんでした。私が働いているのは個別指導の塾だったので、担当の生徒それぞれの一学期予定、生徒との面談、時間割、と日々色々なことに追われていました。


 彼は噴水の前にも、物理学に講義にもその姿を見せませんでした。大学の歓迎会の都合で、彼の友人の有栖川さんと話す機会も少しありましたが、自分から必要事項以外を話しかける勇気も、時間も、余裕もありませんでした。何より、有栖川さんは彼と同学年であるかのように話をしていましたが、彼が藝大四年なのに対して、有栖川さんは理工学部三年であったことを知り、私はますます何も話せなくなるのでした。


 大学で彼を見かけなくなってから数週間後の雨の日のことでした。

 中学生の女の子が入塾するから、と、塾長と共に初回面談に呼ばれた私は、少し緊張しながら塾の受付で事務作業をしていました。あと十分ほどで面談の予定時間になるところで、塾の扉のチャイムが鳴りました。


 目を上げて、扉のロックを解除しようとしたところで、私は冷水を浴びたように固まりました。何の温度もない瞳、無機質な黒と白の服、絵のような整った顔立ち。間違いありませんでした。二週間姿を見せなかった彼が、そこに居ました。


 思わず声を上げそうになるのを抑えて、私はおずおずと彼に会釈をしました。彼は気付いているのかいないのか、無表情のまま頭だけ少し下げて、ほら、と制服を着た少女の方へ目線をやりました。その声色に何一つ感情が乗っていない事を認識できないほど、私は、自分の心臓が変に鳴っているのをなんとか抑えるので必死でした。

 少し遅れて教室の奥から塾長の声が聞こえ、私は少し安堵しました。


「朝日奈皐月さんだね? こちら、君の数学担当予定の薬師寺先生」


 ほら、と塾長が私を手招きし、お願いします、と私はゆっくりと礼をしました。朝日奈さん、と呼ばれた女の子は少し目を伏せて、小さく会釈しました。私はそれを聞いてから、驚いて彼の顔に目を向け、目が合う前に逸らしました。

 彼の名字とこの少女の名字が違うということが、踏み込んではいけない事だとわかってしまったからです。そして、朝日奈さんと呼ばれた少女の下の名前が旧暦の名である事が何を指しているのか、おおよそのことを察するのは難しくありませんでした。


 きっと彼は、ここにいるのが私だと気付いていたはずです。たまたま似た人でした、と言い訳ができるわけもありません。彼が人前では見せないところに土足で踏み込んでしまった気がして、私はどうして良いかわからず立ちすくむばかりでした。そして、それと同時に、彼の秘密を少し知れた気がして、私はどこか嬉しいという感情も感じていました。その感情を抱く罪の重さがわからなかったわけではありませんし、彼の透き通る黒い瞳に見られたら、私のこんな感情も全て見透かされるような気がしました。私は彼にどう見られているのかが怖くなり、少し胃が痛みました。


 何も知らない塾長に促されるまま、とうとう面談が始まりました。

 大学で出会った時に時折見せる上品な笑い顔とは打って変わって、彼は一つも笑みをこぼさず、淡々と必要最低限の会話を交わしていました。三十分ほどの簡単な面談にも関わらず、何だか数時間にもわたる重い会話のように感じられました。私は自分が何を話したかもあまり覚えておらず、ただ、彼が無機質な声色で伝えたいくつかのことだけが、頭の中に残っていました。


「両親の離婚と、その他諸々が重なってて、とにかく、事実上の親権は私が持っているので、緊急連絡先は私の番号で登録させていただきたいと思っていて」


「恥ずかしながら私もまだ学生の身ですので、有事の際であってもお電話に出られない事が」


「私も彼女も別居して一人暮らしなので、色々とご迷惑おかけするかもしれませんが、何卒宜しくお願い致します」


 初回の授業は、ガイダンスも兼ねて、塾長が担当するということで、私は面談が終わってからは事務作業に戻るよう言われました。五分程度で終わるもので、作業が終わったら勝手に帰って良いと言われ、私はぼんやりとしたまま残り少しの作業に取り掛かりました。


 教室内は雨音だけが響いていました。私は、揺れ動く気持ちを無視したくて、頻繁に窓の外に視線をやるのでした。


「薬師寺さん」


 背中から声をかけられ、私は急いで振り返りました。彼が「小鳥遊葵月」ではなく、「生徒の保護者」として立っていました。私が返事出来ずに、目を見開いた立っていると、彼はこちらを意識する様子も無しに続けました。


「これ、返さなくて良いからって言って渡しておいて頂けると助かります」


 やはりその声色に感情はなく、ただ彼の瞳が真っ直ぐにこちらを射抜いてくるばかりでした。彼は「誰に」渡して欲しいのかを言いませんでした。


 黒い折り畳み傘を受け取り、私が「わかりました」と返事をする前に彼はこちらに背を向けて出口の方へ歩いていました。私は傘を渡される時に触れた一瞬の温度を、忘れられませんでした。


 少し浮ついた心持ちのまま、一通り片付けをしてから、私はそっと塾を出ました。

 ビルのエレベーターを降りて、そのまま駅まで向かう途中に時計を見ました。短針は七を少し進んだところにありました。

 どっと疲れが押し寄せてきて、私はコンビニで適当な惣菜でも買おうと思い、そのまま人に流れに身を任せました。

 イヤホンで音楽を聴きながら、私は未だに動揺が治まらず、彼のゾッとするほど冷たい瞳を思い出していました。彼の本当の姿は、あの人を寄せ付けない雰囲気なのかも知れません。だとしたら、大学で私に見せたあの姿はなんだったのでしょうか。


 ぐるぐると、答えのない問いを考えながら、私は一番近い棚にあった惣菜を手に取り、コンビニを後にしました。雨なのもあり、駅の中は人が多く、私は人に押されながらも改札前の電光掲示板を見上げました。

 現実は非情でした。「運転再開をお待ちください」と書かれた文字が頭上に光っていて、私は何度目かわからない溜息をそっと人混みに吐くのでした。

 私の住む新宿駅まではここから電車で二十分ほどの距離があります。どうしてもっと大学に近い物件を選ばなかったんだ、と、意味のない後悔をしたところで、私は重い足取りのまま、ホームに降りるのでした。


 出会いたい時に出会いたい人に会えず、出来れば顔を合わせたくない時にその顔を見つけてしまうのは何の因果でしょうか。


______彼が、いました。


 私はどこまで不運なのでしょうか。よりによって、こんな時に。

 どうか気付いてくれませんように、と思いながら、私はそっと人の流れに身を任せました。

 彼は、スマホを見ながら、片手にビニール袋を下げて佇んでいました。俯いたその様にさえ見惚れてしまって、私はわざとらしく、小さな咳払いをしました。


 エスカレーターの反対側に向かって、そこで暫く待とうと思った時でした。電光掲示板の表示がかわり、振替輸送の案内のアナウンスが流れました。この路線の復旧の見込みはかなり少ないといった内容でした。

 ざわめきがホームに伝わり、人の声が四方から飛び交いました。少しよろけた私は、小さく謝ってから視線を電光掲示板に戻し、やはり変わらない案内をみてため息を吐きました。


 人の声に眉を顰め、スマホから顔を上げた彼が、こちらを向きました。

 彼と、目が合いました。


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