春霞、備忘録と盗作。
彼に連れられるがまま、私は大学から少し離れたところにある隠れ家のような和食店に入りました。艶のある木の造りで、古そうな所ではあるものの、ちらほらと他の客の様子も見え、細く長く続いている印象を受けました。薄く照明が足元を照らしていて、木の床特有の、少し重たい足音がゆっくりと響きました。
「俺のお気に入りの店。アレルギーとかない?」
「大丈夫です」
案内された席に座り、パーカーを脱ぎ、荷物入れに鞄を入れると、彼は心なしか楽しそうにこちらを見ていました。おすすめはこれ、と言われるがまま、鯛の定食と白ワインを注文をした所で、私は一つ息を吐きました。
外食する機会が今まで少なかったこともあり、また、質素ながらに上品な店の雰囲気が、私が場違いなのではないかと少しだけ不安でした。
「そういや俺、君の名前知らないや」
「薬師寺です、薬師寺日向」
「おお、かっこいい」
彼は、陶器のように洗練された顔立ちや雰囲気の割に、親しみやすい人でした。私が「ありがとうございます」と少し頭を下げると、彼はくすりと笑って続けました。
「そう、ずっと訊きたかったんだけどさ、あの日なんであんな俺のこと見てたの?」
え、と少し上擦った声が出て、私は平常心を保つのに必死になりました。あの日、というのは、彼が私に迷子かを話しかけた日の事で違いないはずです。
貴方に見惚れていました、だなんて言えるはずもなく、そして、それが世間でどう思われるかも私は十二分に理解していたので、私はただ目を瞬きするばかりでした。
彼は何も答えない私を見て、ごめんごめん、勘違いだったかも、と目を細めて笑いました。ちょうど美味しそうな香りと共に料理が運ばれてきて、この話はこれ以上追求されませんでした。桜鯛の天ぷらに白ワインが柔らかに口に広がり、店内に流れる静かな曲と共に、私たちの話もまた始まりました。
「バイトとかは何かやってるの?」
「はい、塾講師してます」
「へえ、すごい。何教えてるの?」
「理系教科を一式です。基本中学生手なので助かってます」
「あはは、高校生だと内容も難しいもんね、でも教えるとなれば中学の内容でも大変じゃない?」
「結構大変です、でもそこそこやりがいもあって頑張れてます。小鳥遊さんはバイトされてるんですか?」
「俺? やったことない」
ふふ、と白ワインの入ったグラスを口につけ、彼は満足そうに笑いました。鯛の天ぷらはとっくになくなっていて、私は思いのほかリラックスしている自分に少し驚きました。
「藝大だと絵ばっかり描いてるからさ、バイトしてる時間なくて」
なるほど、と思いましたが、制作のためにバイトをする時間さえないと言うのに、どうして彼が他大学の授業なんて受けているのか、と疑問に思いました。
アルコールの効果もあるのか、彼は目を細めて「気が向いたら何かやろうかな」と小さく笑いました。緊張こそしていないとは言え、彼の前で失言をするわけにもいかず、私は、彼の話を遮らない程度に相槌を打ちました。
その後も他愛のない話をして、デザートの寒天を食べ終えたところで、スマホの通知に気付いたらしく、「電話きた、ちょっとごめん」と彼は席を立ちました。
心のどこかで、知りたいと思っている自分がいました。
制作で忙しいはずなのに、彼が友人と私の大学の講義を受ける理由が。
ただ、きっとそこには明るくない理由が見え隠れしているような気もしていました。講義室で、彼が無自覚の内に発した言葉の弱さが、何かを物語っていました。
だから、私はただ、彼が何にも傷付かなければいい、と名前のない何かの感情を心に留めるだけでした。
一息ついて、ゆっくりと白ワインの残りを飲みました。少し辛くて、なんだかそれがおかしくて、私は一人で苦笑しました。
寒天の入っていた黒い小さな皿は、最初はわからなかった青い模様が底に描かれていて、私は彼の瞳を思い出すのでした。妹だったわ、と彼が戻ってきて、私は顔を上げました。
「妹さんいらっしゃるんですね」
「そうそう、ちっちゃいのが一人」
「急ぎだったんです? ここにいて大丈夫なんですか?」
わざわざ電話をかけてくるということは急用に違いありません。歳の離れた妹ということは、尚更何かあったのかも、と私は彼以上に狼狽えていました。しかし、彼は悠然としたまま、「大丈夫大丈夫、実家に帰れって言われただけ」と笑いました。
どうやら彼は普段一人暮らしをしていて、それが住居兼制作部屋になっているため、たまに家に帰るよう言われているということでした。私も大学の都合で上京していましたが、実家に帰るとなると、移動でかなりの時間を使うので、滅多に帰っていなかった事を少し思い出しました。
夕方七時を回ったところで、私たちは店を後にしました。
春の夜は、少し空が遠くて、桜が綺麗でした。
桜並木の下をぼんやり歩きながら、「じゃあ俺こっちだから」と駅前で解散し、私は自分の家の方に向かいました。
また物理の講義で出会えたら、もう一度お礼を言いに行こう、と決めて。
それから、彼は二週間ほど大学に現れませんでした。
赤髪の目立つ彼の友人が、少し浮かない顔をしたまま物理の講義を退屈そうに受けていて、私はそれを遠目からみるだけでした。その退屈そうな、それでいてどこか鋭い眼差しが何を思っているのか、私にはわかりませんでした。
キャンパスの真ん中の小さな噴水で揺れる水面の輝きは、少し翳りを帯びていました。その水の中で、蝶が斃れていました。オオルリアゲハでした。黒い翅に青を溢したような翅が、片翼を失った状態でそこにありました。
蝶が死んだくらいで今更何を思うでもないのに、何故だかその青が目に焼き付いて離れませんでした。




